第14話 皇帝の傷痕
新型暖房魔道具の配布から数日後、帝都は穏やかな日々を取り戻していた。貧民街からは感謝の声が届き、私の名前は「民を救った皇后候補」として広まり始めている。
しかし、アレクセイの様子がどこかおかしいことに、私は気づいていた。
執務室で会っても、どこか上の空のことがある。食事の席でも、時折遠い目をして黙り込む。私が話しかければすぐに笑顔を取り戻すが、その笑顔には影が差している。
「マルタ、何か知っている?」
ある夜、私は思い切ってマルタに尋ねた。
「陛下のことでございますか」
「ええ。最近、少し元気がないように見えるの」
マルタは少し躊躇してから、口を開いた。
「実は、来週が陛下のお姉様のご命日だと聞いております」
「お姉様……」
「カタリーナ皇女殿下。十年前に亡くなられたそうです。詳しいことは存じませんが、陛下にとっては今でも深い傷になっているとか」
私は窓の外を見た。アレクセイには姉がいた。幼い頃、ダンスの練習で足を踏むたびに脛を蹴られたと、笑いながら話してくれたことがある。あの時の彼の目には、懐かしさと、そして悲しみが混じっていた。
翌日、私は思い切ってアレクセイの執務室を訪ねた。
「リーゼ、どうした。講義の時間ではないのか」
「少し早く終わったので。お邪魔でなければ、一緒にお茶でもいかがですか」
アレクセイは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「ああ、ちょうど休憩しようと思っていたところだ」
侍従が紅茶を運んできて、私たちは執務室の隅にある小さなテーブルで向かい合った。しばらく他愛のない話をしていたが、私は意を決して切り出した。
「アレクセイ、一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「お姉様のこと、教えていただけませんか」
アレクセイの手が、カップを持ったまま止まった。数秒の沈黙の後、彼は静かにカップを置いた。
「誰から聞いた」
「マルタから、少しだけ。来週がご命日だと」
「そうか……」
アレクセイは窓の外に目を向けた。その横顔には、深い悲しみが刻まれていた。
「無理に話さなくても構いません。ただ、あなたが辛そうなのを見ているのが、私には辛くて」
「リーゼ……」
アレクセイは長い息を吐いた。それから、ゆっくりと話し始めた。
「姉は、私より四つ年上だった」
アレクセイの声は、いつもより低く、静かだった。
「幼い頃から、私の面倒をよく見てくれた。母が早くに亡くなったから、姉は私にとって母親代わりでもあった。厳しいところもあったが、誰よりも優しい人だった」
「ダンスを教えてくださったのも、お姉様なのですね」
「ああ。私が下手くそで、何度も足を踏んだ。そのたびに脛を蹴られたが、決して諦めずに教え続けてくれた」
アレクセイの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。しかし、それはすぐに消えた。
「姉は、病で亡くなった」
「病……」
「原因不明の熱病だった。最初は軽い風邪だと思われていた。しかし、日に日に悪化して、最後は意識も戻らないまま……」
アレクセイの声が震えた。私は何も言えず、ただ彼の言葉を聞いていた。
「私は当時十六歳だった。姉の傍についていたが、何もできなかった。最高の医師を呼んでも、どんな薬を使っても、姉は助からなかった」
「アレクセイ……」
「最後に姉が言った言葉を、今でも覚えている。『あなたは優しすぎるから、自分を責めないで』と。でも私は、十年経った今でも自分を責めている。もっと早く気づいていれば、もっと何かできたのではないかと」
私は立ち上がり、アレクセイの傍に歩み寄った。そして、そっと彼の手を取った。
「お姉様は、あなたを責めてはいません」
「分かっている。分かっているが……」
「あなたが自分を責め続けることを、お姉様は望んでいないはずです」
アレクセイが顔を上げた。その目には、涙が滲んでいた。皇帝として、いつも毅然としている彼が、こんな顔をするのを見たのは初めてだった。
「私も、似たような経験があります」
「君が?」
「母を亡くした時のことです」
私は、アレクセイの隣に座った。
「母は、私が十二歳の時に亡くなりました。病気ではなく、事故でした。馬車が崖から落ちて……」
「リーゼ……」
「私は母と一緒にいませんでした。その日、私は熱を出して寝込んでいたのです。本当は母と一緒に出かける予定だったのに」
思い出すだけで、胸が締め付けられる。でも、今はこの話をしなければならないと思った。
「ずっと、自分を責めていました。もし私が熱を出していなければ、母は出かける予定を変えたかもしれない。違う道を通ったかもしれない。私のせいで母が死んだのだと、何年も思い続けていました」
「それは、君のせいではない」
「分かっています。今は、分かっています。でも、分かるまでに何年もかかりました」
私はアレクセイの手を握った。
「あなたのせいではありません。お姉様の病気は、あなたにはどうしようもなかったことです。あなたが自分を責め続けても、お姉様は喜ばない。お姉様が望んでいるのは、あなたが幸せに生きることだと思います」
アレクセイは黙っていた。しかし、その手が私の手を強く握り返してきた。
「君に出会えて、良かった」
「え?」
「こんな話を聞いてくれる人は、今までいなかった。皇帝だから弱みを見せられないと、ずっと一人で抱え込んでいた。でも君の前では、弱い自分を見せられる気がする」
「アレクセイ……」
「ありがとう、リーゼ。君がいてくれて、本当に良かった」
その夜、私たちは一緒に皇宮の礼拝堂を訪れた。
礼拝堂の奥には、皇族の墓所がある。カタリーナ皇女の墓碑は、白い大理石で作られていた。そこには、優しげな女性の姿が浮き彫りにされている。
「姉に、君を紹介したかった」
アレクセイが静かに言った。
「きっと気に入ってくれたと思う。姉も魔道具に興味があったから、君の作品を見たら喜んだだろう」
「お姉様も、魔道具がお好きだったのですか」
「ああ。姉は体が弱かったから、外出があまりできなかった。その分、本を読んだり、魔道具を研究したりすることが好きだった。君と似ている」
私は墓碑に向かって、深く一礼した。
「初めまして、カタリーナ皇女殿下。リーゼロッテ・ローゼンベルクと申します」
アレクセイが少し驚いた顔をしたが、私は構わず続けた。
「アレクセイ様のことは、私がお守りします。殿下のように優しく、殿下のように強くはなれないかもしれませんが、精一杯努めます」
「リーゼ……」
「だから、どうか見守っていてください。アレクセイ様を、そして私たちを」
墓碑の前で、しばらく沈黙が流れた。冷たい空気の中、蝋燭の炎だけが揺れている。
「姉が笑っている気がする」
アレクセイが、小さく呟いた。
「え?」
「君の言葉を聞いて、姉が笑っている気がするんだ。『良い人を見つけたね』と言っている気がする」
私は何も言えなかった。ただ、アレクセイの隣に立ち、墓碑を見つめていた。
「来年も、一緒に来てくれるか」
「もちろんです」
「再来年も、その先も」
「はい。ずっと、一緒に」
アレクセイが私の肩を抱いた。礼拝堂の静寂の中、二人の影が重なった。
帰り道、廊下を歩きながら、アレクセイが言った。
「一つ、謝らなければならないことがある」
「何ですか」
「君に弱みを見せたくなくて、ずっと隠していた。皇帝として、完璧でなければならないと思っていたから」
「そんなこと……」
「でも、今日分かった。君に隠し事をしても、意味がない。君は私の全てを受け入れてくれる。弱い部分も、醜い部分も」
アレクセイが立ち止まり、私の方を向いた。
「これからは、何も隠さない。君には、全てを話す。それが、私にできる誠意だ」
「私も、同じです。アレクセイには、何も隠しません」
私たちは見つめ合った。月明かりが廊下に差し込み、二人の姿を照らしている。
「リーゼ」
「はい」
「愛している」
「私も、愛しています」
言葉は短かったが、その中には全ての想いが込められていた。七年間、誰にも言えなかった言葉。誰にも届かなかった想い。それが今、確かに届いている。
私たちは手を繋ぎ、月明かりの中を歩いた。傷を分かち合い、痛みを分かち合い、そして幸せを分かち合う。それが、夫婦になるということなのかもしれない。
窓の外では、雪がまた静かに降り始めていた。




