叛逆 (後)
瑞葉は、その夜のうちに、伊穂に面会を求めた。
木花開耶の誘拐未遂事件が起こり、犯人は木花開耶を殺害して逃亡した、と瑞葉は報告した。
伊穂は、話を聞き終える前に激高した。
「木花開耶が死んだだと? そなたは何をしていたのだっ」
伊穂にしてみれば、そもそも瑞葉が岩乃皇后に告げ口したために、このような事態になったという恨みがあった。あのとき、岩乃の言葉を聞かされた伊穂は、従うしか選択肢がなかった。長らく別居していたとはいえ、かつては聖帝の政を支えた皇后の命令であり、また頼みにする実の母親の指示でもあった。
この愚弟が余計なことをしなければ、なにもかもうまくいっていたはずなのだ。
瑞葉に対する怒りが、あらためてこみあげてきた。
だが、当の瑞葉は、平然とした顔で答えた。
「兵部省に出動をかけ、都の警備を行っていました。その結果、木花開耶の誘拐は未然に阻止しました」
「間抜けなことを言うな。木花開耶を死なせてしまっては、意味がないだろうがっ」
苛立ちをあらわにした伊穂の怒鳴り声に、瑞葉はすこし間をおいてから答えた。
「もし木花開耶が住江に誘拐されていたら、どうなったと思われますか? 父帝の遺言に従うなら、皇統は住江の子孫になるのですぞ。木花開耶は急病で身罷ったのです。どのみち、そうなるはずだった」
「それは、世間の目を欺くために母上が用意した策だ。本当に木花開耶が死んでしまっては、白鳥王家の血を残せという父帝のご遺言が守れないではないか。私はなんとしても父帝の願いを叶えたかったのに……」
無念さをにじませた伊穂の繰り言を、瑞葉が醒めた声で遮った。
「兄上、よくお考えくだされ。仮に皇后様のご指示通りに事を進めたとして、その後に木花開耶を兄上に下されたと、本気でお思いか?」
その言葉は伊穂にとってあまりに意外で、怒りの矛先は完全に行方を見失った。
どういうことだ、と伊穂は声を落とした。
「葛城の媛だと偽って、入内させるという話だったではないか。母上はそれで、政権に葛城の影響力を残したかったのであろう。違うのか?」
「まだお分かりになりませんか。あれは時間稼ぎの口実。もとより木花開耶が兄上の、いや誰の后になることもないのです。兄上の后になるのは、正真正銘の葛城の媛であって、木花開耶が名を変えた者ではない。それが皇后さまの、そして葛城の意図です。木花開耶は、幽閉同然で一生を終えることになったでしょう。それならばいっそ、夢や希望を抱いたまま死んだ方がましだった。そして、それが誰にとっても好ましい結果だったのです」
なんだと、と唸ったあと、伊穂ははっとしたように瑞葉を見た。
「そなたまさか、わざと木花開耶を誘拐させ、そのうえで見殺しにしたのではあるまいな」
伊穂の問いに、瑞葉は否とも応とも答えず、曖昧な笑みを返した。
さすがの伊穂も、そういうことか、と合点がいった。母上の耳に入った時点で、父帝の遺言は事実上無効になっていたのだ。それを守ろうとした私は、瑞葉たちに踊らされていただけだったのだ。
伊穂の心の底で、怒りがふつふつと煮えたぎった。
「いますぐ出ていけ。二度と顔を見せるなっ」
ははっ、と頭を下げて、瑞葉は退出した。
ひとり残された伊穂は、悔しさに唇を噛んだ。
父帝もなしえなかった、白鳥の王家の血筋と葛城氏の後見の双方を得る帝に、もう少しで手が届くところだったのに。すべて、木花開耶の誘拐を企てた住江と、木花開耶を守りきれなかった瑞葉の責任だ。どちらも、ただでは済まさない。いずれ必ず、相応の報いをくれてやる。
騒がしかった一夜が明け、朝餉の席で、瑞葉は向かいに座る少女に声をかけた。
「木花開耶」
瑞葉の呼びかけに、その少女はわずかに首を傾げて応じた。
美しい娘だと、瑞葉は改めて思った。母親の八花内親王の面差しを、よく受け継いでいる。
「そなたには今日から、後宮の女官として働いてもらう。名も身分も、いっさい口外してはならぬ。よいな」
言いつけを理解したのか理解しなかったのか、木花開耶は黙って瑞葉を見つめ返すばかりだった。
この、誰にも心を許さぬ娘を……。
瑞葉は昨夜の事件を苦々しく思い返す。誘拐犯のあの男、何者だったのだ。この娘が、あれほど信頼を寄せるとは。あれでは誘拐というよりも、むしろ……。
湧きおこった疑惑は、瑞葉の口をついて出た。
「そなた、もしや、あの男とともに行きたかったのか?」
口にしてから瑞葉は後悔した。不用意な問いであった。
案の定、木花開耶はこくんと頷いた。
瑞葉の心中に、赤黒い妬みが湧きおこった。そしてそれは、詰問となって目前の少女に向けられた。
「いったい誰なのだ、あの男は?」
木花開耶の顔に、怯えと戸惑いの表情が浮かんだ。しかし彼女は、健気にも声を震わせながら答えた。
「お父様……ほんとうの」
久しぶりに聞く木花開耶の声は、艶やかに瑞葉の耳に響き、彼女が発するかすかな芳香が、鼻孔をくすぐった。そしてその快感は、瑞葉の心底にうごめく嫉妬の火を煽った。
ほんとうの父親だと。なるほど、そのような甘言で、この娘を誑かしたのか。隠棲させざるを得なかった状況を、うまく利用されたというわけだ。小賢しい男め、この娘は絶対に渡さんぞ。いや、あの者だけではない。伊穂にも、住江にも、誰にも……。
瑞葉は、そこではっと我に返る。
いまの感情はなんだ。この娘は、憎むべき白鳥王家の最後の女子。忌避すべき者ではなかったのか。
住江の出奔を見届けた秋月は、撫子の寝所に赴いた。そして、睦事に勤しむふりをしつつ、撫子にささやいた。
「木花開耶の居場所はわかったか?」
「はい。女孺として、後宮の内侍司におられます」
撫子の報告に、秋月は頭を抱えた。
木花開耶が死んだという話は耳に入っていたが、それが事実ではないことはわかっていた。それにしても。
内侍司に置くとは、瑞葉も思い切ったことをするものだ。だが、たしかに有効な手ではある。内侍司には百名以上の女官がいるから、その中に紛れ込ませれば、もともと顔を知られていないだけに正体がばれる可能性は極めて低い。それに後宮に出入りできるのは、皇族とごく限られた身分の者だけだ。昇殿を許されているとはいえ、秋月の階位では近づくことすらできない。いちばん合理的で安全な隠し場所だろう。
ただ、瑞葉の狙いが、どうにも読み切れない。伊穂だけでなく岩乃皇后すらも騙して木花開耶を隠匿し続けたとして、その先はどうするつもりなのだろう。命を奪うつもりがないのなら、ほとぼりが醒めた頃合いを見計らって、日向一族にでも預けるつもりかもしれない。そうなれば、また木花開耶の奪還は難しくなる。内裏にいる間に、なんとかせねばならない。とすれば、来るべきあの機会を活かすしかないだろう。
秋月は、撫子の肩に手を添えて、頼みがある、と告げた。
「木花開耶の所在を、常につかんでおいてくれ。近いうちに住江が事を起こすはずだ。私もそれに加担して、事を成すつもりだ。その折に、混乱に乗じて娘を連れ出してもらいたい」
承知しました、と応えた撫子は、ところで、とささやいた。
「今宵は、このままお帰りになるのですか?」
ああ、と頷く秋月の袖を、撫子が引っ張った。
「木花開耶さまのことも、帝位のことも、ひとときお忘れになってはいかがですか。せっかくの月夜なのですから」
嫣然と微笑んだ撫子は、するりと衣を脱いだ。
事件から十日がすぎた、霜月の下卯の日。
伊穂東宮の践祚大嘗祭は、予定通り執り行われた。
木花開耶という、誰も知らなかった内親王の訃報はあったものの、国家の祝賀行事を延期するほどのことではない、と言って岩乃は伊穂の即位式典を断行した。
一世一代の儀式であるにもかかわらず、新帝となった伊穂は終始不機嫌であった。
后となるべき媛もおらず、列席すべき弟たちの姿もなかった。住江は病に臥せっているということになっていたし、瑞葉は娘の喪に服しているということになっていた。事情を知る者にとっては茶番だったが、事情を知らない者にとっては新帝の門出に不吉が付きまとっているように思えただろう。なによりも、それをいちばん身に染みて感じているのは、伊穂その人だった。
厳かな神事が終わり、伊穂は純白の祭服から帝だけが着ることのできる黄櫨染の抱に着替えた。
即位を祝う後宴になると、伊穂は主だった臣下を呼び飲酒の相手をさせた。誰が見ても、あきらかに飲み過ごしていた。
やがて高御座に座ったまま、伊穂はいびきをかきはじめた。
皆が興覚めを味わい始めたとき、突如、内裏の一角に火の手が上がった。
篝火の不始末かと思われたが、紫宸殿に火矢が飛来するに至って、居並ぶ者たちにもこれが非常事態であることが察知された。
算を乱して逃げまどう人々を押しのけるように、具足を着け太刀をかざした武者たちが姿を現した。
その先頭に立つ住江は、してやったりとほくそ笑んだ。
不意を突くことに成功した。守備は手薄で、ここまで抵抗らしい抵抗もなかった。住江は伊穂殺害の成功を確信していた。
しかし、紫宸殿の高御座に、新帝伊穂の姿はなかった。群臣や女官に問い質しても、その所在を知っている者はいなかった。
「黄櫨染の男を探せ。なんとしても見つけ出すのだ」
住江の叫びが、広大な内裏に響き渡った。




