音楽家の恋 (3)
狩猟大会の暴発事故がきっかけとなってルイが落馬するという予言は、事前にヨゼフから聞いていた。だから狩猟大会の数日前から、いかなる事故も起きぬよう、馬や馬具には細心の注意を払っていた。
そんな中で、馬丁からルイに連絡があった。
それは「弟王子シャルルから、ルイの馬の飼料を変更するよう指示があったが、従ってよいか」という問い合わせだった。変更指示があったのは、飼料に混ぜ込む穀物の種類だ。オオムギを多めに混ぜるようにとの指示だったと言う。
馬の飼料は、牧草のほかに必要に応じて穀物を混ぜることがある。馬の運動量によっては、牧草だけでは栄養価が不足してしまうからだ。このとき混ぜる穀物は、トウモロコシやエンバクが一般的だ。穀物のように栄養価が高く消化の早い飼料は、馬を興奮させやすくなる特性があるため、その中でも比較的馬への影響が少ないものを選んでいるのだ。
オオムギを使うこともあるが、少量でも影響が出やすいので、使用には注意が必要となる。
にもかかわらず「オオムギを多めに混ぜよ」との指示である。馬丁が戸惑うのも無理はない。馬丁はそつなく、シャルルに対しては指示を承ったと返したそうだ。しかし実際にその馬に乗るルイには、事前に確認をとったというわけだった。
ルイは馬丁に礼を伝え、飼料はいつもどおりとするよう指示をした。ただし、もしシャルルに尋ねられることがあれば、シャルルの指示どおりにしたと答えるように、とも指示しておいた。
シャルルの真意は、ルイにはわからない。けれどもこれは、ルイの心を折るに十分な出来事だった。
翌日の狩猟大会では、人目のない場所で落馬したふうを装って、手の内の者たちに「救護」と称して運び出してもらう手はずになっている。だが、もし馬が手に負えないほどの興奮状態に陥ってしまったら、本当に命に関わるような落馬事故に見舞われるかもしれない。
おおかたシャルルはニナにそそのかされたのだろう、と想像はつく。
だが理由の見当がつけば許せるかというと、兄の命に関わったかもしれないことを軽率に実行に移してしまった点は、許せる気がしなかった。こと勉学にかけてはルイより優秀なシャルルである。オオムギが馬に与える影響を知らないはずがあるまい。
それほど王太子になりたいなら、なるがいい。
もう自分は逃げちゃってもいいかな、とルイは思った。
このときルイは、心の中で家族と祖国を捨てたのだ。そして死んだことにした後、国を出るためにヨゼフを頼ることにした。
それでも、もしアントノワ侯爵家の冤罪が晴らされれば、もしかしたらルイは気持ちを変えたかもしれない。だが冤罪と認められることなく、裁判で有罪が確定してしまった。これがルイにとって、最後のダメ押しだった。
家族と祖国を捨てて、音楽家ルートヴィッヒ・ウェーバーとして生活を始めた中で、ふと思い出したのはアデールのことだ。
王太子だった頃は、家格がつり合わずに諦めた。地位も何もない無名の音楽家となった今は、逆に貴族のお嬢さんとはつり合わない身となり下がった。ただしつり合わない身である代わり、しがらみは何もない。
だったら、ダメでもともとじゃないか。
ルートヴィッヒはアデールに手紙を書いてみた。
──学院時代にあなたのピアノの音を聞いて以来、ずっとファンでした。もし差し支えなければ、手紙で音楽を語り合うのに付き合ってくださいませんか。
するとなんと、アデールからは承諾の返事が届いたではないか。
彼女からの返信を受け取ったとき、彼はうれしさのあまり躍り上がった。
しかも彼女は、ただ承諾しただけではない。筆跡と文面からルートヴィッヒがルイではないかと当たりをつけてさえいた。
こうしてルートヴィッヒとアデールは、手紙で交流を始めた。
アデールがオスタリアの音楽家と文通している様子を、彼女の両親は微笑ましく見守っていた。そしてついにルートヴィッヒが手紙で求婚したとき、彼らは結婚に反対したりはしなかった。こよなくピアノを愛する娘が音楽家に嫁ぎたいと言うなら、それもよいだろう、と言ったのだ。もちろんルートヴィッヒの音楽家としての活動がそれなりに順調だと、人を使ってしっかり調査した上での了承だ。
ただし、結婚する前にきちんと相手と顔を合わせて挨拶したい、と娘に注文を出した。
年頃の娘を持つ親としては、当然の要望である。
そこでルートヴィッヒは、二度と足を踏み入れることがないと思っていた祖国へ向かい、いそいそとアデールの実家を訪ねて行った。
ところが、それまでずっと歓迎の雰囲気だったのに、アデールの父がルートヴィッヒの顔を見た途端に態度を翻した。
「申し訳ないが、あなたには嫁にやれない」
ルートヴィッヒは「必ずしあわせにする」と必死にすがったが、父親は「だめなものは、だめだ」と、とりつく島もない。招いてしまったからひと晩だけは泊めるが、翌朝すぐに出て行ってほしい、とまで言われた。
その晩、すっかり意気消沈したルートヴィッヒの部屋に、彼女の母親が訪れた。
「殿下、夫が大変なご無礼を働きましたこと、お詫び申し上げます」
「え」
ルートヴィッヒはアデールの家族を訪れるにあたり、金髪を茶色に染めていたのだが、彼女の両親にはしっかり正体がバレていた。彼女の父親は、ただの音楽家であれば平民であろうと反対する気はなかった。しかし「死んだことになっているが、実は名を変えて生きている元王太子」となれば、とても賛成などできない。そのしがらみが心配だからだ。
いくら本人が身分を捨てたと言っていても、将来何が起きるかわからない。そのときに娘が不幸になるのではないか、と心配しているのだ。
だが母親は、考えが違った。心配ではあるが、娘の選択を応援したいと彼女は考えていた。
「夫にはわたくしから後でよく話しておきますから、明朝のご出立時に娘をお連れください。どうか、くれぐれも娘をよろしくお願いいたします」
そう言って深々と頭を下げた夫人に、ルートヴィッヒは「必ずしあわせにします」と約束の言葉を繰り返した。
そうしてルートヴィッヒとアデールは、夫人の協力のもとに朝早く屋敷を発ち、ヨゼフの船でオスタリアへやって来た、というわけだった。
* * *
ルートヴィッヒの話が終わると、マリーはきらきらと目を輝かせて手を叩いた。
「まあ。なんてドラマチックなお話でしょう!」
「いや、きみたち一家ほどじゃない気がするよ」
マリーの反応に、ルートヴィッヒは苦笑する。
アデールはルートヴィッヒの言葉の意味がわからず、首をかしげていた。この穏やかで仲のよさそうな一家の、いったいどこにドラマチックな要素があるのだろう。
彼女の疑問には、ルートヴィッヒが内緒話をするときのように人差し指を口の前に立てながら答える。「あの『悲劇のアントノワ侯爵家』の方々だよ」という彼の小声の説明に、アデールは驚きに目を見開いた。




