脱出 (5)
あまりのことに憮然として、アンヌマリーは不機嫌そうに眉間に深くしわを寄せたまま、乱暴にノアの手を引いて自室に戻る。
緊急事態だか何だか知らないが、女性を部屋に連れ込むなんて、ありえない。しかも「脱がす」とは何だ。何を脱がすと言うのか。破廉恥にもほどがあるだろう。
胸のうちにムカムカしたものを感じながら、そんなことを彼女がぐるぐる考え続けていると、小さなノアがスカートを引っ張った。ノアは、寄る辺のない表情で質問をした。
「ねえさま、あのひと、だあれ?」
「知りません!」
ピシャリとすげなく答えると、みるみるうちにノアの両目に涙が盛り上がり、ぽろぽろとこぼれ落ちた。幼いノアは口もとをわななかせて、必死に訴える。
「なんで? なんでおこってるの? ぼく、わるいことしてない。なんにもしてないのに」
ノアの涙を見た瞬間に、アンヌマリーはハッと我に返った。
こんな小さな弟に八つ当たりをしてしまった。
「ノアには怒ってなんかいないわ。ごめんなさい。お願いよ、泣かないで」
弟を抱きしめて謝っても、ノアはなかなか泣き止まない。
次第にアンヌマリーは、弟に当たってしまった自分が情けなくて、ノアと一緒に泣きたい気持ちになってきた。ヨゼフに対するムカムカが消えたわけではないけれども、それよりもしょんぼりと悲しい気持ちのほうがまさっていた。
そんなじめじめした雰囲気の中、ヨゼフが部屋の扉を叩いて「お待たせ」と声をかけてきた。ノアはするりとアンヌマリーの腕の中から抜け出て、扉へ駆けて行って開く。
「にいさま!」
「おう、どうした? なんで泣いてんだ」
「ねえさまがおこった」
ヨゼフはノアを抱き上げて、泣いている理由を尋ねたが、その返答に首をかしげた。
「マリーは、何か怒ってるの?」
「ノアには怒ってません」
ムカムカの元凶であるヨゼフは、アンヌマリーの心情を知ってか知らずか、単刀直入に尋ねる。
それに対して答える彼女の声には、自重しようと思っても隠しきれない、すねた響きがあった。だがヨゼフはそこには触れることなく、再びノアに話しかける。
「ほら、怒ってないって言ってるぞ。泣く理由ないだろ」
「だって……。だって、かなしかった」
ヨゼフに軽く背中をさすられながらも、ノアが鼻をすすり上げる音はとまらない。ただしすでに涙は半分止まりかけているし、声にはどこか甘えた調子があった。
ヨゼフは少々意地の悪い笑みを浮かべて、さらにノアに話しかける。
「そうか、なら仕方ないな。出航したら甲板に連れてってやるつもりだったけど、泣き虫はカモメに突っつかれるからなあ。また今度な」
「まって。かんぱん、いく。もうないてない」
「本当かあ?」
「うん、もうないてない」
必死に服の袖で涙をぬぐうノアに、ヨゼフは笑いをかみ殺した。
「じゃあ、後で行くか。でもその前に食事だろ?」
「そうだった。ごはん!」
「マリーも、紹介したい人がいるから俺の部屋へ来てくれる?」
現金にも、もうノアは完全復活していた。
しかしアンヌマリーの表情は、硬いままだ。だってヨゼフの言う「紹介したい人」とは、どう考えてもあの金髪美女ではないか。彼女は強ばった声で「はい」と返事をした。ヨゼフは机の上に置かれた食事の入ったかごを取り、ノアを抱き上げたまま隣の部屋の両親にも声をかける。
全員でぞろぞろと船主用の部屋に向かい、ヨゼフは扉を叩いて「開けますよ」と声をかけてから扉を開けて中に入った。ヨゼフに続いてアンヌマリーも部屋に入る。
その部屋は、置かれている調度品はアンヌマリーたちの部屋と似たようなものだが、ふたまわりほど広く、窓側にL字型のソファーが置かれている点が違う。
奥に置かれた書き物机の前の椅子に座る人物を見て、アンヌマリーは目をまたたいた。さきほど見た「金髪の美女」がいるだろうと思っていたのに、そこにいたのはあの美女ではなかったのだ。
ヨゼフは椅子に座っている人物を紹介し、それを聞いてアンヌマリーは目をむいた。
「こちらはシーニュの王太子殿下だ」
「もう王太子は死んだよ。ここにいるのは、何も持たない、ただのルイだ」
なんとそれは、一週間前に逝去が報じられた第一王子ルイだった。本人は王子であることを否定しているけれども、「麗しの王太子」として知られたルイは、船乗り用の簡素な服をまとっていても、儚げな美貌がまったく損なわれていない。
ここに至って、やっとアンヌマリーは理解した。さきほどの美女は、ルイだったのだ。
そして食事が六人分用意されていたのは、ルイの分も入っていたからだ。
ヨゼフがローテーブルの上に食事を広げ始めたので、アンヌマリーとノアも手伝った。と言っても、人数分の皿とフォークが書き物机の上に置かれていたので、それをひとりひとりに配っただけに過ぎないが。
四歳児の手には皿は重くて危ないため、ノアにはフォークをまかせた。ヨゼフが「皿の横にこう置く」と実践してみせると、ノアはそれを真似して丁寧に配置する。小さな弟の意外な働きぶりに驚いて、アンヌマリーは目を見張った。
「一応、船員用の食堂スペースもあるんだけど、ちょっと内々の話をしたいから今日はこの部屋で食べます」
ヨゼフの宣言を受けて、全員ソファーに座る。
かごに詰められた食事は、なるべく食器を使わずに食べられるよう工夫がこらされていた。最低限、皿とフォークだけあれば十分にきちんとした食事ができる。
ノアは当然のようにヨゼフのすぐ隣に収まっていた。
食事を始めると、ロベールはヨゼフに水を向けた。
「どういうことなのか、説明してもらえるかな?」
「もちろんです」
そうしてヨゼフは、なぜルイがここにいるのか、そもそもの最初から経緯を話し始めた。




