脱出 (4)
騎馬の士官は下の者に命令し慣れた声で、二人の憲兵に所属を尋ねた。
「きみたちは、どこの管区所属だね?」
「第三管区であります!」
「ふむ。アントノワ侯爵家の一家が姿をくらました話は、もう聞いているかな?」
「はい! それで今、聞き込みをしていたところであります」
直立姿勢で敬礼したままの憲兵から報告を聞き、士官はうなずいた。
「なるほど。だがもう聞き込みは不要だ。使用している馬車と向かった方角が、すでに特定されている。今は捜索隊を編成中だよ。きみたちも拠点に戻って、もう一度指示を確認したまえ」
「了解しました!」
二人の憲兵は、ヨゼフに足止めをしたことを謝罪してから去って行った。
アンヌマリーは二人の憲兵の足音が聞こえなくなると、強ばらせていた全身の力を抜いて大きく息を吐き出した。
彼女には声ですぐにわかったが、この憲兵士官は変装したロベールだ。
ロベールは馬から下りて荷台に身を乗り出すと「もう大丈夫だよ」と妻と娘に声をかけた。その声を聞いて、アンヌマリーの肩を痛いほどきつく抱きしめていたオリアンヌの手の力がゆるむ。
ヨゼフは抱いていたノアを荷台に戻すと、真剣な顔でノアに注意事項を言い含めた。
「いいか、今度は絶対に外をのぞいちゃだめだぞ」
「うん。ごめんなさい」
「まあ、今のは起き抜けで寝ぼけてたからしょうがない。でももう、次はないからな。約束だぞ」
「うん!」
ヨゼフがノアに話しかけているのを聞いて、アンヌマリーは「あれ?」と思った。さっき憲兵と話したときにはオスタリアなまりだったのに、今はまたきれいなシーニュ語に戻っている。つまりあれは、わざとなまっていたということだ。
後で知ったことだが、それはオスタリア人であることを強調するための演出だったらしい。そしてノアは、知らない人がいるときにはオスタリア語しか話さない、とヨゼフに約束させられていた。話してもよい唯一の例外があの「シーニュ語、ちょとわかる」だったそうだ。
しかもマルセルを「知らない人」役にして、何度も予行演習していたと言う。
ヨゼフとマルセルの周到な準備に救われたというわけだった。
その後は、もう何ごともなく無事に港に到着した。
何しろ、士官姿のロベールが馬に乗って随行しているのだ。士官を無視してあえて声をかけようとする憲兵など、いるわけがなかった。
港に着くと、すぐに船に案内された。馬車から離れることができて、アンヌマリーは心からホッとした。
アンヌマリーたちが案内された先は「予備の船室」だった。
ヨゼフから「寝心地は全く保証できない」と釘を刺されていたが、アンヌマリーが想像していたよりも数倍よい部屋だった。
彼女が想像していたのは、雑魚寝のような状態か、極限まで幅の狭い二段または三段ベッドだけが詰め込まれた部屋だ。気をつけないと寝返りでベッドから落ちてしまうかもしれない、と覚悟していた。
ところが実際には、小さいながらも書き物机と椅子が置かれ、自宅のベッドほどの広さではないものの十分に寝返りが打てるくらいの幅のベッドがあり、衣装戸棚まで付いているではないか。個室ではなく二人部屋だが、そんなことは全然気にならない。
部屋に案内されたときには、ノアと一緒に思わず歓声を上げてしまった。
ヨゼフには船主用の部屋があるというので、ロベールとオリアンヌでひと部屋、アンヌマリーとノアでもうひと部屋を使うことにした。
アンヌマリーたちを船室に案内すると、ヨゼフは船上から姿を消した。まだ何か仕事が残っているらしい。やっと馬車から解放されて、すっかりくつろいだ気持ちになっているアンヌマリーたちとは対照的に、ヨゼフはピリピリとした緊張をまとっていた。アンヌマリーには、それが少し心配だった。
出港の予定時間までまだ一時間以上あるが、アンヌマリーたちは船が港を出るまではできるだけ甲板には出ないよう、ヨゼフから指示されていた。完全にシーニュから離れるまでは油断すべきでない、というのが彼の考えだ。
アンヌマリーもその考えには同意するが、何とも手持ち無沙汰だ。
ノアはずっと大事に抱えて持ち込んだ木彫りの馬で、珍しく静かに遊んでいる。
アンヌマリーが船室の丸窓からぼんやり外を眺めていると、ひとり遊びに飽きたらしいノアが寄ってきた。机の上に置かれたかごに興味を引かれたようだ。
「ねえさま、そのかご、なにがはいってるの?」
「ああ、これはね、お食事が入ってるの。お兄さまがお戻りになったら、みんなで一緒にいただきましょう」
「うん! もうおなかがぺこぺこ」
ノアは道中の半分以上寝ていたくせに、お腹はすくらしい。
小さなノアは椅子を引いてよじ登ると、かごに掛けられたふきんの端をめくって中をのぞき込んだ。
「バナナだ」
「我慢できないほどぺこぺこなら、少しだけ先にいただいちゃう?」
「ううん。まってる」
つい彼女はノアを甘やかしてしまうが、ノアは首を横に振った。
そしてバナナの本数を指さしながら数え始める。
「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく」
「そうね、六本ね」
ノアに相づちを打ちながら、アンヌマリーは心の中でいぶかしく思った。そう言えば確か執事長も、六人分の食事だと言っていた気がする。でも、六人分……?
ノアを数に入れたとしても、両親とヨゼフとノアとアンヌマリーで五人だ。なぜ六人分も用意したのだろう。彼女が首をひねっていると、ノアがスカートを引っ張った。
「にいさま、まだ?」
「出航までには必ずお戻りになるはずよ。だから、もう少しじゃないかしら」
「おむかえにいこう」
「いけません。お兄さまは、甲板に出てはいけないっておっしゃってたでしょう?」
「かいだんまで。それならいいでしょう? いこうよ。いこう」
いさめても聞かないノアに、アンヌマリーはため息をついた。
まあ、階段下までならヨゼフの言いつけを破ったことにはならないはずだ。甲板に出るなとは言われたが、部屋から出るなとまでは言われていない。小さな弟の手を引いて、彼女は部屋を出て甲板に通じる階段下に向かった。
するとちょうどそこへ、甲板に通じる扉が開いてヨゼフが降りてきた。その腕の中に、すらりとした金髪の美女を抱きかかえるようにして。
アンヌマリーは目を見開いて硬直した。
アンヌマリーは見てはならないものを見てしまったような気がして、そのままきびすを返そうとした。しかし、その前にノアが大きな声を上げる。
「にいさま! ごはんにしましょう!」
「ああ、ごめん。ちょっと部屋で待ってて。用事を済ませたらすぐ呼びに行く」
「はーい」
ノアは素直に部屋に戻ろうとアンヌマリーの手を引っ張ったが、彼女はすぐには動かなかった。
「そのかたは、どなた?」
「後で説明する。ちょっと緊急事態なんだ。すぐ脱がせないとやばい。じゃ、後でな」
「はい?」
無意識に険のある声でヨゼフに問いただしたが、ヨゼフは彼女の声の調子に気づいた様子がない。焦ったように半分うわの空で彼女に返事をしただけで、美女の肩を抱いて自分の寝室に連れ込んでしまった。




