脱出 (1)
裁判が終了した日、アントノワ侯爵家の夕食の席はいつになく会話が少なく静かだった。その中で、ロベールがぽつりとこぼす。
「この家でこうして食事をするのは、これが最後だね」
「そうですねえ」
オリアンヌがかすかに微笑んでうなずき、相づちを打つ。
裁判が結審したら翌朝に脱出するとは、以前から決めてあったことだ。早ければ早いだけ成功率が上がる、というのがロベールとヨゼフの共通の判断だったからだ。
基本的に使用人たちには脱出の計画を知らせていないが、信頼できる上級使用人のうち数人にだけは話してある。使用人たちの協力なしには、脱出なんて成功するはずもない。
いよいよだ、と思うと食事をしながらもアンヌマリーは緊張した。料理人たちの心づくしの料理も、あまり味がしない。
黙々と食事を進めていると、ヨゼフがからかうような笑顔で話しかけてきた。
「国外旅行は初めてで、緊張する?」
あまりにも状況に似つかわしくない質問に、アンヌマリーは目をまたたいた。これは「旅行」と言えるのだろうか。ついうっかり彼女が真剣に考え込んでしまうと、ヨゼフは面白がっているかのように口の端をつり上げた。
からかわれていることに少しばかりムッとはしたが、ヨゼフの笑顔のおかげで自分の緊張がゆるんだことを自覚した。なぜだろう、ヨゼフがいると安心する。そう気づいた瞬間、ムッとした気持ちが消え失せて、アンヌマリーも微笑を浮かべていた。
「ええ、そうね。実は船旅も初めてなの」
「客船じゃないんで、正直寝心地は全く保証できない。寝不足だと船酔いしやすくなるから、今日はしっかり寝ておけよ」
「はい」
「あー、空きっ腹もよくないから、明日出がけに軽くつまめるものを用意してもらっておくかな」
まるで本当に旅行前日みたいな心配をしているヨゼフが、何だかおかしくなった。
ヨゼフは控えている執事に声をかけ、翌朝の軽食を準備するよう厨房へ言づけを頼んでから、アンヌマリーへ向き直って真剣な目を向けた。何か大事なことを伝えようとする雰囲気を察して、彼女は食事の手をとめて背筋を伸ばす。
「何でしょう?」
「明日、船まで移動するときのことなんだけどさ」
「はい」
「馬車に乗っているときが、一番危ない」
言われてみれば、予言は「馬車で逃亡中に死亡する」という内容なのだ。身代わりを立てたとしても、自分たちが馬車に乗っている時間が危険なのは間違いない。ヨゼフの言葉に、アンヌマリーは神妙に「はい」と返事をしてうなずいた。
「何があっても手はずどおりにしてほしい。雨が降ろうが槍が降ろうが、隠れた場所から動かないでほしいんだ」
「はい」
「それこそたとえノアが憲兵にとっ捕まることがあっても、絶対に動かず静かにしていてほしい。約束できるか?」
アンヌマリーは思わず想像してしまった。小さなノアが憲兵の手によって馬車から引きずり下ろされる場面を。「いや!」と泣き叫ぶノアを。
そんな場面を目の当たりにして、何もせずに自分だけ隠れていることができるだろうか。そう考えると、ヨゼフに「約束する」とは即答できなかった。けれどもそこで自分が飛び出して行ったとして、いったい何ができるだろう。ただ単に、自分も憲兵に捕まるだけに違いない。
そこまで考えてから、逆に約束どおり静かに隠れていれば、きっとヨゼフがノアを取り戻してくれるだろうということに思い至った。ヨゼフなら必ず取り戻してくれる。そう信じられる。そのとき、小さなノアだけ捕まっているのと、アンヌマリーまで一緒に捕まっているのとでは、取り戻す難しさが段違いだろうということは、容易に想像ができた。
彼女はヨゼフをまっすぐ見つめ返して、しっかりうなずいた。
「はい。約束します」
「よし」
ヨゼフは満足そうにうなずいて、食事を再開した。
アンヌマリーも食事に戻ってから、ふと思いついて質問した。
「船に乗ってから、オスタリアまではどれくらい時間がかかるの?」
「港から港までで、二日だよ」
「まあ。早いのね」
「うん、蒸気船だからね」
ヨゼフの答えに、アンヌマリーは首をかしげた。
「蒸気船だと早いの?」
「ああ。帆船と比べたらって話」
「帆船は遅いの?」
「オスタリアからシーニュに向かうときは、帆船も蒸気船もほとんど変わらない。でも逆のときには、蒸気船のほうが速い」
ヨゼフの説明を聞いてもまだよくわからず、アンヌマリーは目をまたたいた。
「どうして行き先によって速さが変わるの?」
「行き先っていうか、方角だな。海の上にも季節風が吹くんだけど、今の時期はオスタリアからシーニュへ向かうときには順風、反対だと逆風になる。帆船は、順風か逆風かで速度が倍以上変わるんだよ。でも蒸気船は風向きに関係なく速度が一定だから、逆風のときには蒸気船が速い」
「なるほど」
ヨゼフは船の話になると、少しだけ饒舌になる。
アンヌマリーは、ヨゼフから船の話を聞くのが好きだ。
その後もあれこれ質問しながら食事をした。食べ始めは砂を噛むように味がしないと思っていたのに、いつの間にかこの屋敷での最後の食事を味わう心の余裕が生まれていた。
食事の後は、自室で翌日の準備をする。
準備と言っても、着る服の確認をするだけだ。服は、下働きのメイド用の制服が用意されている。アンヌマリーと背格好の似たメイドが着古したものを譲ってもらった。
彼女は「お遣いに行くメイド」として、最初に屋敷を出ることになっている。
次は母オリアンヌで、「暇を出された乳母」として出ていく。
その次はヨゼフとノアだ。商用で立ち寄ったヨゼフが、見本品を入れたトランクとともに去る、という設定で、呼吸用の穴を開けたトランクの中にノアが隠れることになっている。
そして最後が、父ロベール。
彼は「様子を見に立ち寄った憲兵士官」という設定だ。いったいどんな手を使ったのか、ヨゼフとマルセルが憲兵の制服を手に入れてきた。
手はずは何度も何度も確認して、すっかり頭に入っている。でも、不安は完全にはぬぐえない。ベッドに入り、明かりを消しても、翌日のことがぐるぐると頭の中をめぐっていて離れない。
ヨゼフに「しっかり寝ておけ」と言われたのに、このまま寝付けなかったらどうしよう、と思ったのを最後の記憶に、意外にもアンヌマリーはすんなり眠りに落ちていた。




