船乗りの少年 (4)
ヨゼフの気がかりが解消したところで、ロベールは話を進めるべく手をひとつ打ち鳴らした。
「さて、家族となったところで、改めて紹介しよう。まず、私はロベール、この家の当主で今日からはきみの父親だ。どうぞ遠慮せず『パパ』と呼んでくれたまえ」
アンヌマリーだって十歳以降は「パパ」なんて呼んだことはないのに。
この不意打ちに、アンヌマリーは危なく吹き出すところだった。必死にこらえたけれども、喉の奥から小さく「ふぐっ」と変な声が漏れ出てしまった気がしないでもない。というか、間違いなく出た。
隣に座っているマグダレーナがひじをつついたので、こっそり彼女の様子を盗み見ると、うつむいて肩を震わせながら悶絶しそうな顔をしていた。もはや全く笑いが抑えられていない。伝染するからやめてほしい。笑いをこらえながら横目でにらみつけて、ひじ鉄を入れてやった。
ロベールは素知らぬ顔で紹介を続ける。
「こちらが私の妻で、この家の女主人であるオリアンヌだ」
「どうぞ遠慮せず、わたくしのことも『ママン』と呼んでちょうだいね。ほら、呼んでごらんなさい」
にっこりと慈愛に満ちた笑顔でふざけたことを言う母に、ついにアンヌマリーはたまらず吹き出してしまった。
「ヨゼフ、だめよ騙されないで! それは小さい子の呼び方なの。お父さまもお母さまも、外国のかたをそんなふうにからかうなんて、ひどいわ」
困惑した顔で軽く首をかしげていたヨゼフは、アンヌマリーの言葉を聞いて納得したように苦笑いを浮かべた。からかわれていたことに、やっと気づいたのだろう。
「ひどいのは両親を裏切る娘じゃないのかい? もう少しでパパと呼んでもらえそうだったのに。惜しかった」
「そうよマリー、ひどいわ。せっかく呼んでもらえそうだったのに。ねえヨゼフ、かまわないからどうぞ『ママン』と呼んでちょうだい」
「お母さま!」
バレてもにこやかな笑顔を崩すことなく、しれっとふざけたことを言う母に、アンヌマリーは抗議しながらも笑ってしまった。大人にしか見えないヨゼフが「ママン」と呼ぶところを想像すると、どうにも笑いがとまらない。
ロベールは娘に向かって眉を上げて見せてから、紹介を続けた。
「あられもなく笑い転げているそこの娘が、我が家の長女アンヌマリーだ。十六歳で、国立学院に通っている。今のところはまだ一応、この国の第二王子シャルルの婚約者ということになっている」
父に「あられもない」などと紹介されて、アンヌマリーはムッとしつつも何とか笑いを抑えて居住まいを正し、ヨゼフに会釈して挨拶した。
「アンヌマリーです。どうぞ遠慮なく『マリー』と呼んでちょうだいね」
彼女は自己紹介した後になってから、自分の言葉が両親の自己紹介とそっくりなことに気づいてしまった。あらぬ疑いをかけられることのないよう、念のため言っておく。
「『マリー』は、家族や親しい人からの呼び名なの。『ママン』や『パパ』とは違うから、安心してね」
アンヌマリーが言い訳がましく説明すると、ヨゼフは笑いながら「そうか」とうなずいた。
「こちらはわたくしの友人のマグダレーナよ。オスタリアのクライン子爵家の子なの」
「ああ、さっき聞いた。ランベルトのお姫さまだってな」
「まあ、マギー。あなた、ランベルトさまのお姫さまだったの?」
「どうやらそうらしいわよ」
紹介からそのまま雑談に突入しかけた頃、入り口の扉を叩く音がして、乳母が弟のノアの手を引いて入ってきた。
「坊っちゃまをお連れしました」
「ああ、ありがとう。ノア、こちらにおいで」
父にうながされ、ノアは父と母の間にトコトコと歩いてきた。手には、大事そうにお気に入りの木彫りの馬を抱えている。状況がわからず、きょろきょろしているノアの肩にロベールが手を置いた。
「この子が下の子のノア、四歳だ。ノア、こちらは今日からきみのお兄さまになったヨゼフだよ。さあ、ご挨拶して」
「ノアです。これはフードル号。とってもはやいんだよ」
ノアはヨゼフに向かって、木彫りの馬を掲げて見せた。なぜか非常に得意げな顔で、何かを期待する目でヨゼフを見つめている。アンヌマリーにとってはかわいくてたまらない弟だけれども、甘やかされて躾が行き届いていないのがバレバレで、少しばかりひやりとした。
ヨゼフの年齢だと、このように小さな子どもと引き合わされても当惑するばかりだろうと思っていたのだが、意外にもヨゼフはノアと視線を合わせて身を乗り出した。
「へえ、かっこいいな」
「うん。かっこいいでしょ。ほら、こうやってはしるんだよ」
ノアは「パカラッ、パカラッ」と言いながら、馬を跳ねさせるようにして動かす。馬を動かし始めると、それに夢中になって周りが見えなくなるようだ。ロベールは乳母に目配せして、ノアを応接セットから少し離れた場所で遊ばせるよう指示した。
しかし年若い客人が集まっている場に呼び出され、はしゃいでしまっているノアがおとなしくしているわけがない。客人たちの注目を浴びたくて仕方のないノアは、ソファーの後ろに回り、ソファーの背の上で「パカラッ、パカラッ」と言いながら馬を走らせ続ける。気になってつい振り向いてしまうと、得意そうに目を輝かせて「ヒヒーン!」といななきが追加された。かわいい。だが、うるさい。
何を話していても、ノアの「パカラッ、パカラッ」という合いの手が入り、正直うるさすぎて会話にならない。
叱られずに注目を浴びることができてすっかり気をよくしたノアは、ソファーの背では飽き足らず、ついにはテーブルの上にまで進出した。テーブル上の端で「パカラッ、パカラッ」と馬を走らせ始める。
しかしテーブルの上は、危険だ。何しろ紅茶の椀やら菓子を入れた小皿やら、ノアの馬に爆走されては困るものがたくさん置かれている。さすがにこれは看過できず、オリアンヌが息子を叱った。
「ノア、おやめなさい。あちらで遊んでちょうだい」
「坊っちゃま、あちらにまいりましょう」
乳母が必死に小声で誘導しようとしても、ノアは「やだ」と言うことを聞かない。
どうにも言うことを聞かないので、乳母が実力行使に出て抱き上げようとすると「やだあ!」と逃げようとして暴れた。ノアの振り回す手足が食器に当たりそうで、とても見ていられない。
するとそのとき、アンヌマリーがすくみ上がりそうなほど鋭く低い声が一喝した。
「『やだ』じゃない!」
ドスが効いているとしか言いようのない、恐ろしい声だった。
自分が叱られたわけではないのに、思わずびくっと反応してしまい、おそるおそる声の主を振り返る。それはヨゼフだった。




