船乗りの少年 (2)
応接室の扉を叩き、父の返事を待ってから中に入ると、上座に置かれたひとり掛けのソファーから若者が立ち上がって会釈した。見るからに質素なシャツとズボンだけを身につけている。これがヨゼフだろう。
アンヌマリーが正式なお辞儀を返すと、父ロベールが彼女をヨゼフに紹介した。
「ヨゼフ、こちらが我が家の娘のアンヌマリーだ」
「はじめまして。ヨゼフ・シュバルツです」
まさかシーニュ語で挨拶されるとは思ってもいなかったアンヌマリーは、驚きに目を見張った。平民の船乗り、という情報から、母国語であるオスタリア語しか話せないであろうと思い込んでいたからだ。
なのに彼の口から出てきた言葉は、わずかにオスタリアなまりがあるものの、見事なシーニュ語だった。学院で学ぶ学生たちの外国語の技量と比べても、全く遜色ない。それどころか、学院生の平均的な語学力にくらべたら、ヨゼフのほうがずっと上ではないだろうか。
彼女の驚いた顔を面白がっているかのように、ヨゼフは口の端をつり上げた。
彼のその表情を目にして、アンヌマリーの心臓は大きく跳ねた。
彼の雰囲気には、彼女が大好きな絵本の挿絵をどこか彷彿とさせるものがあったのだ。不遇の少女を異国の王子が船で迎えに来るという、ただそれだけの物語なのだが、彼女はその挿絵の王子が大層お気に入りだった。シンプルな絵柄なのに、不思議といつまでも見飽きない。
ヨゼフには、オスタリア人とも、もちろんシーニュ人とも違う、異国的な雰囲気があった。髪の色は黒っぽい茶で、肩につかない程度の長さのゆるやかに波打つ髪を無造作に後ろに流している。平民だともっと短く刈り込んでしまう者が多いように思うし、貴族なら香油でなでつけるだろう。そのどちらでもないところが、異国的に感じられるのかもしれなかった。
日に焼けた肌の色も、異国風に見える理由のひとつかもしれない。
ヨゼフの瞳は、茶色で縁取りされた明るい緑色で、大きく丸い目なのに垂れ目がちだ。笑みを消して真面目な顔をすると、年齢相応に十代の顔に見える。けれども笑みを浮かべたりすると、大きな丸い目が細まって切れ長に見え、妙に余裕のある落ち着いた態度とも相まって、もっとずっと年上の、まるで大人の男性のように見えた。
体格も、アンヌマリーの予想を大きく裏切っていた。
十代の船乗りと聞けば、痩せぎすな少年を想像する。海の上ではそう豊かな食生活は望めそうもないからだ。しかしヨゼフは体格がよかった。余分な脂肪が少しもついていないおかげで決して太っては見えないが、胸には厚みがあり、背もどちらかといえば高いほうで、若い士官のようにも見えた。
そう、ヨゼフはいろいろな意味であまり平民らしくなかった。
かといって貴族的かといえば、そうとも言えない。不思議な人物だった。
アンヌマリーとヨゼフは、ロベールにうながされてそれぞれソファーに腰を下ろす。アンヌマリーは父と対面にあるソファーの、マグダレーナの隣に座った。父の隣には、すでに母がいた。
アンヌマリーがついしげしげとヨゼフを見つめていると、その様子に気づいた父と母は互いに顔を見合わせて片眉を上げ、意味ありげに笑みを交わす。ロベールは肩をすくめてからアンヌマリーたちに向き直り、口を開いた。
「彼は、私たちの国外脱出を手助けしてくれることになっている。今日からこの屋敷に滞在してもらうよ」
ここまではアンヌマリーにとっても予想どおりなので、素直に「はい」と返事をしながらうなずいた。ところが父の次の言葉に、彼女は度肝を抜かれることになる。ロベールはその後に、何でもない口調でこう続けたのだ。
「正式な手続きはすべてが終わった後になるが、彼を養子に迎えるつもりなんだ」
これには母オリアンヌを除いた誰もがあっけにとられた顔をした。当のヨゼフさえ例外ではない。ぽかんとした顔のヨゼフを振り返って、ロベールは吹き出した。
「何だねヨゼフ、その顔は。さっき同意してくれたばかりじゃないか」
「いや、そんな話は聞いた記憶が……」
「したとも。『我が家の一員となってくれるかい』と尋ねたら、うなずいてくれただろう?」
ロベールの言うことに心当たりがあったのか、ヨゼフはハッとした表情をしてから息を吐いた。
「使用人として、という意味かと」
「違うよ、もちろん家族としてという意味さ。養子はいやかね?」
アンヌマリーはヨゼフに同情した。
あの言い回しでは、シーニュ語が母国語でない者が勘違いしても不思議はない。いや、母国語だったとしてもやっぱり勘違いしそうだ。しかもまた、勘違いさせた後の父のやり口があざとい。
自分よりずっと目上の人間から、しゅんと気落ちしたような顔で「いやかね?」と尋ねられて「いやです」と無情に拒否できる十代の少年がいったいどれだけいるだろう。それを十分に承知した上であの態度なのだから、あざといとしか言いようがない。
しかしここでもまた、ヨゼフは普通の少年とは対応が違った。彼は困ったような笑みを浮かべながらも、はっきりこう答えたのだ。
「いやというわけじゃないけど、使用人のほうが助かります」
「え? なぜだい?」
思いがけない返答に、ロベールはつい素をさらけ出して驚いた顔を見せた。貴族の養子だなんて、普通なら喜んで飛びつくような申し出のはずだ。
ロベールの問いに対して、ヨゼフはゆっくりと考えながら言葉をつむぐ。
「うーん、養子だと給金が出ないですよね。だから使用人のほうがありがたいです」
「うちは養子に迎えた子に、不自由な暮らしは決してさせない。だから金の心配ならしなくていいんだよ」
ロベールが言い聞かせるように語りかけると、ヨゼフは顔を上げてまっすぐロベールを見つめてきっぱりと答えた。
「ありがとうございます。でも俺は、金がもらえるほうがありがたいです」
どうしてそんなにお金にこだわるのだろう、とアンヌマリーはやや鼻白んだ。
養子とは名ばかりで、ただ働きをさせられることでも警戒しているのだろうか。父がそんなことをするわけがないのに。絵本の王子さまに似たすてきな人だと思ったのに、彼女はヨゼフにがっかりした。
けれどもその後のロベールとヨゼフのやり取りを聞いて、彼女は自分のそんな考えを恥じることになる。わかっていないのは、彼女のほうだった。




