船乗りの少年 (1)
マグダレーナがアントノワ侯爵邸に滞在し始めてひと月ほど経ち、学院の秋休みが近づいてきたある日、ランベルトが慌ただしく屋敷に飛び込んできた。それは週末の午後のことだった。学院が休みの日はこの頃いつもそうしているように、この日もアンヌマリーは終日マグダレーナと一緒に家で過ごしていた。
出迎えたアンヌマリーとマグダレーナは、ランベルトの様子に何ごとかと驚いて互いに顔を見合わせる。ランベルトは、はやる気持ちを抑えきれないような顔でアンヌマリーに問いかけた。
「閣下は? ご在宅かな? 緊急の話があるんだ」
「ええ、書斎にいると思います。呼んでまいりましょうか?」
「うん、頼むよ」
アンヌマリーは、マグダレーナにランベルトを応接室に案内するよう頼んでから、父のいる書斎に向かった。
扉を叩き、返事を待ってから中をのぞき込むと、ロベールは机に向かって書き物をしている最中のようだった。アンヌマリーは部屋の中へは入らずに、入り口から父に声をかけた。
「お父さま、ちょっとよろしい?」
「おや、マリー。どうした?」
「今しがた、ランベルトさまがお見えになったの。お父さまに緊急のお話があるとおっしゃってるんだけど、どうしますか?」
「わかった。これだけ片付けてからすぐ行くよ。応接かな?」
「はい、そうです」
先に行っているよう父にうながされ、アンヌマリーは応接室にいる友人たちに合流した。
「お待たせしてごめんなさい。今やりかけの仕事を片付けたらすぐに来るそうです」
「お仕事中に申し訳なかったな。でも、ありがとう」
「緊急のお話なら仕方ありませんもの」
アンヌマリーがマグダレーナの正面に腰を下ろして世間話を始めると、ほどなくしてロベールが「待たせたね」と詫びながら部屋に入ってきた。
「緊急の話があると聞いたが」
「はい。シーニュ脱出の突破口になりそうな話が見つかりまして」
「へえ。聞かせてもらえるかな」
「もちろんです。そのためにまいりました」
そしてランベルトは、幼なじみの話を始めた。
学院が休みである今日、ひとりで下町を歩いていたところ、数年ぶりに友人に出くわしたのだそうだ。その友人というのが孤児院出身の船乗りだと聞いて、アンヌマリーは意外に思った。ランベルトの幼なじみというからには、てっきり貴族の少年だとばかり思っていたのだ。ランベルトが子どもの頃にお供とはぐれて、ならず者に襲われそうになったところを助けられた縁だと言う。
その船乗りの少年から、アンヌマリーたちが無事にシーニュ王国から脱出するための方法を提案されたそうだ。もちろんランベルトも、部外者である船乗りの少年には詳しい話などしていない。だが、悩みを抱えていることを見抜かれて水を向けられ、端的に悩み事を話してしまった。つまり、何とかして予言から逃れる方法を探している、ということをだ。
断片的な情報しか聞かされていないにもかかわらず、ランベルトの話を聞いて船乗りの少年は解決策を提示した。その解決策は、現実的かつ本質的なものだった。それでランベルトは、まっすぐロベールに報告にやって来たというわけなのだった。
「その船乗りの彼の名前は?」
「ヨゼフです。ヨゼフ・シュバルツと言います」
ヨゼフはランベルトよりひとつ年上らしい。
ロベールは、その後もヨゼフの情報をランベルトから詳しく聞き出した。翌日、迎えをやるためだ。ランベルトは学校があるので行けない。だからヨゼフを確実に家に招くには、ヨゼフがまだ宿から出ていないであろう朝の時間帯に迎えをやるのが一番だった。
ランベルトと親しいというその船乗りの少年にアンヌマリーはとても興味があったが、彼女も翌日は学校がある。
実際にヨゼフと対面するのは、翌日の帰宅後まで待たねばならなかった。
学院では相変わらずほんのりと居心地が悪かったが、この日は帰宅後の楽しみがあるのであまり気にならなかった。
昼食の席でも機嫌のよさが顔に出ていたのか、リヒャルトに尋ねられた。
「今日は何かいいことでもあった?」
「いいこと、かどうかはわかりませんが、楽しみなことがあるんです」
「へえ。どんなことなのか、聞いてもいい?」
「ええ、もちろん。今日、父に来客の予定があるのです。どんな方なのかと楽しみで」
うきうきとしたアンヌマリーの笑顔に、リヒャルトも口もとをほころばせた。
「そうなのか。楽しい人だといいね」
「はい」
リヒャルトが自分のことのようにうれしそうに微笑むのを見て、反対にアンヌマリーは何だか少し心が苦しくなった。心優しいこの王子さまがこんなふうにくったくなく笑うのは、随分と久しぶりのような気がする。この頃はいつでも彼女の前では心配そうな、申し訳なさそうな顔をしてばかりだった。
アンヌマリーの一家を気にかけるあまりに心労が尽きなかったのだろう、と思い至ってしまうと逆に申し訳なく、身が縮む思いだ。リヒャルトは、もうすでに十分以上のことをしてくれている。彼にこれ以上の心配をかけることのないよう、この先はできるかぎり予言にまつわる話をしないよう心がけよう、とアンヌマリーは密かに誓った。
学校が終わり、そわそわしつつまっすぐ帰宅すると、メイドに父からの伝言を伝えられた。
「お着替えをお済ませになりましたら、すぐに応接室においでくださいませ。旦那さまから大事なお話がおありになるとのことです」
「わかったわ。ありがとう」
メイドはアンヌマリーからカバンを受け取り、彼女の制服の上着を脱がせる。
「お着替えは何をご用意いたしましょうか」
「淡い藍色のモスリンの、飾りが少なめなのがあったでしょう。あれを出してくださる?」
「かしこまりました」
ヨゼフが平民の船乗りなのは聞いているが、こちらが招く客人である。礼を欠くことのない服装でなくてはなるまい。だが平民が相手なら、必要以上に飾り立てたら相手に威圧感を与えるばかりで却って失礼になるかもしれない。そう考えて、アンヌマリーは手持ちの中では最も落ち着いてすっきりした形のものを選んだ。
結果的に、彼女は自分の判断に感謝することになる。
なぜならヨゼフは「孤児院出身でランベルトよりひとつ年上の船乗り」という事前情報からアンヌマリーが想像していたのとは、だいぶかけ離れた人物だったからだ。




