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第七十三話 はじまりは悪魔の囁き─服部和毅─

「なんだこの書類は」


しかめっ面で俺が提出した書類を指で叩きつけて、目の前の上司が大きな声で言った。


「すみません、すぐにやり直します」


頭を下げて謝罪すれば上司は首を横に振った。


「いや、もういいよ。加藤くんに回すから。加藤くーん! この書類も頼むよ!」


「わかりました!」



アイツさえ、いなければ俺だって!



一回、二回の俺のミスで俺の仕事が加藤に回される。ただそれだけなら、嫉妬し苛立つことはなかっただろう。俺は努力している。なのに仕事のミスが減らない。ミスが増えれば増えるほど、上司は加藤の名前を呼ぶ。上司が加藤の名前を呼ぶ度、それがプレッシャーになって更なるミスに繋がる。その繰り返しだった。


加藤に唯一、秀でているところといえば、容姿だろう。俺は女に困ったことはない。日頃の仕事でのミスがストレスになり、そのストレスのはけ口が女へと向かう。一度抱いた女は二度と抱かない。俺が欲しいのは都合の良い女だけ。ずるずると関係を続けてしまえば、面倒になることは目に見えている。これでも俺は既婚者だからな。


普通は妻がいるならそっちを抱くべきなんだろうが、そういう問題じゃあない。俺が加藤よりも優れているという実感を得るために、妻以外を抱く必要があった。それに、妻との関係はすでに終わっているようなもの。書類上の関係だけにすぎない。


仕事で上司に叱られ、謝罪し、加藤に嫉妬し、女を抱き、たまに呑んでは帰宅して妻に冷たい目を向けられる。そんなつまらない日々が続いた。


そんなある日のこと。仕事を終えて会社を出て帰路へ向かう足を速めた。俺はふと路上にポイ捨てされていた空き缶が目について、ひと気が無くなった瞬間を狙って思いっきり蹴り飛ばした。


「クソッ────‼︎」


特別何かあったというわけでもなかったが、今日は特に気が立っていた。人を殺したい。上司も加藤も含めて社員全員殺してやろうか。そう思うほどに。これじゃあ女も抱けねぇ、と俺は頭をぐしゃぐしゃと掻いて舌打ちをした。ストレスのはけ口に女を抱くが、乱暴なことはしないし、処女は抱かないと決めている。女には優しくという紳士的ポリシーがあるわけじゃない。ただただ、後々面倒になるのを避けたいだけだ。


空き缶でも蹴り飛ばせば、多少は苛立ちが紛れるだろうと考えていたがそれは間違いで、空き缶がアスファルトに打ち付けられるカランカランという気の抜けた音が余計に俺の苛立ちを増幅させて身体が熱を持ちはじめた。


人通りの多いところに出て、横断歩道前に(たたず)むスーツ姿のサラリーマンに紛れ込む。横断歩道に足を踏み入れようとしていたところで、赤になってしまった信号に貧乏揺すりをした。



リン───。



突如として、鈴が洞窟に投げられたような音が鼓膜を叩きつけた。瞬間、視界がモノクロに染まり、見るもの全ての動きが静止し、俺は目を丸くした。足音、自動車の音もパタリと途絶えていた。



なんだ──これは。



正面を、左右を見て次に後ろを向く。そこで気がついた。モノクロに染まっていない人が俺以外にもう一人そこにいた。水晶を置いたテーブルの前に座る、ローブを深く被ったいかにも占い師といった人物だった。


「おや、そこのお兄さん。占ってみませんか。いや、占いじゃなく、ご相談にでものりましょう。今なら無料で」


「この現象は、アンタの仕業か?」


「えぇ、そうですとも。人より優れた力っていいですよね。だって、自分が"特別"になれた気がしますから」



"特別"か。確かに。



「力が欲しければ、差し上げますよ? お代はお兄さんの昔話でも聞かせてくださいな」


占い師は金に困ってそうなイメージなのに金はとらないのか、と俺は怪訝な顔をした。



そんな上手い話があるのか?



「生憎、お金には困っておりませんので」


ローブから覗く唇が弧を描いて占い師は立ち上がる。思ったよりも低い身長で俺は目を剥いた。相手は女、背も低いし、何かあってもすぐに逃げられるだろうと俺は肩の力を抜いた。


「ここでは落ち着いて話ができませんね。私がよく行くBAR(バー)でもよろしいです?」


俺は「あぁ」と頷いて、占い師の後ろをついて行った。



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