第六十二話 帰宅し
兄貴と情報交換を終えた俺は、自宅に戻った。
さっきの兄貴の必死な顔を思い出し、俺は口を押さえ、腹を抱えて笑う。飯の誘いは、病み上がりの俺を引き止めるためだったのだろう。
滅多に来はしないが、訪問者が兄貴の家を訪ね、そのとき不自然に思われてしまっては面倒だから俺は帰宅することにしたのだ。
まぁ、鶏胸肉ばかりの飯を食いたくないというのは本音だが。
今頃、兄貴は変な方向に考えを巡らせているに違いない。俺は能力を発動し、共有で兄貴の思考に耳を傾ける。
「ふ、はは」
その内容に思わず吹き出し声を出して笑ってしまった。
「オイオイ、鶏胸肉のレパートリー増やしてどうすんだよ。鶏胸肉以外を増やせって言ったつもりなのに」
予想していた通りの思考だったが、しばらくの間、笑いが止まらなかった。
***
ソファに腰を下ろし一息つくと、俺はズボンのポケットからあるものを取り出す。取り出したのは、手作りの御守りだ。
表にはクマのぬいぐるみをモチーフにしたイラスト、裏にはクマのぬいぐるみが壊れてボロボロになったイラストが縫われていた。これは、小さい頃、父さんが俺にプレゼントしてくれたものだ。
幼かった俺は、そのボロボロになったクマのイラストを見て、可哀想だど号泣した。いまだに思うが、これはないだろと見るたびにため息が溢れる。
けれど、このイラストには意味があるのだと気がついた時に、俺は兄貴に伝えるべきか否か迷った。
結局、未だに話していないがな……。
***
うちの兄貴は、よく俺のことを『天才だ!』と褒めながら頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、屈託のない裏表のないニカッと太陽のような笑みを俺に向けてくる。
でも、俺は兄貴が言うほどの天才の類いではない。兄貴がアホ過ぎるから、俺が天才に見えるだけだ。アホな兄貴から見りゃ凡人な俺はさぞかし天才に見えてしまうのだろう。
事あるごとに、『おまえ天才だな!』と言う兄貴に対して、俺は神経内科と眼科に行ってこいと言いたくなったほどだ。
診てもらうのは脳みそだけでいいと思うが、目も腐ってる可能性もあるからな。
別に、俺は兄貴を毛嫌いしているわけじゃない。アホで面倒くさい兄貴だが、尊敬もしている。
俺は損得を考えて人付き合いをしたり、時間は自分のために使う。対して兄貴は、損得考えず分け隔てなく色んな人と接して、友人のために時間を使ったりする。
まぁ、おかげで兄貴の勉強が疎かになったともいえるが。さらに言えば、勉強という現実逃避したいがために、遊んでばかりになったのかもしれないが。
兄貴は、よく苛めっ子と衝突していた。
友好関係の広い兄貴だが、多人数でぶつかり合ったりはしなかった。人数合わせも考えているようで、昔から正々堂々とした勝負しかしない。
しかし、兄貴さえいれば百人力。人数合わせ自体、意味をなさない。勉強は全くの皆無だが、体育はいつも五段階中の五。つまり、スポーツ万能で身体能力が飛び抜けて高いのだ。
昔から裸足で駆け回っていたせいもあるかもしれないが、生まれつきも関係していると思う。
だって、いつも一緒にいた俺は全然、体力がつかなかったしな。
性格も得意分野も正反対で、双子であるにも関わらず、共感できないことが多々ある。
だが、今となってはそれが武器になっているから逆に良かったと俺は思う。
アホで裏表のない人柄の兄貴は、周囲の人間達に受け入れられやすい。まさか兄貴が警察学校に不正入学したなんて思ってもいないのだろう。
学力は俺が、実技は兄貴が引き受けた。勿論、兄貴の身体でだ。
双子なのに正反対の性格で、得意分野までもが正反対だったからこそ、二人で一つの完璧に近い人間が完成したわけだ。
何度も言うが、俺は凡人だ。入学試験だって、真面目に勉強してりゃ受かる。因みに成績は、上位十位に収まる程度。トップを取ったことは一度もない。高校は、普通の公立高校。だから、ヤンドアを作ったのも、人感知センサー付きの自動ガラス戸を作ったのも俺じゃない。
父さんのことは、小さいながらも結構はっきりと覚えていた。
あのテロがあったせいで、忘れられなかったのではと言われてしまえば、それまでだが……。
大人という生き物は子供の疑問に全ては答えてはくれず、「大人になればわかるから」「もう少し大きくなったらわかるから」と好奇心旺盛な子供の関心や興味を削ぐ生き物だと思う。
だが、父さんは違った。
父さんはどんな疑問にも応えてくれた。
父さんがわからない疑問であれば一緒になって考えて図書館に行って調べたりもした。
子供の疑問をそのままにせず、また、面倒だというそぶりもしない人だった。
そして、
"意味のないことを決してしない人だった"
そんな父さんだったからこそ、ずっと疑問に思っていたことがある。それが、この御守りだ。
このイラストについて聞いたとき、「大きくなったらわかるから」と言ったのだ。父さんもあの大人たちと一緒になってしまったのかと絶望したが、それはそれっきりで以降はいつものように疑問に応えてくれた。
だからこそ疑問だった。
だからこそこの歳になるまでずっと覚えていた。
あのときだけ、なんで父さんは答えてくれなかったのだろうか。
これをもらったとき、父さんと四つ約束したことがある。
一、この御守りは父さんと俺だけの秘密にすること。
二、この御守りのことを兄貴には絶対に言わないこと。
理由は兄貴は単純で良くも悪くも嘘がつけないからだそうだ。
三、五年くらい経過したら開けること。
五年かいつかはわからないが、それくらいになったら使い道がわかる年齢だと思うからだそう。
四、肌身離さずもっていること。
これは、二人を守るものだからだそうだ。
あのときはさっぱり意味がわからなかった。今もわからないことの方が多い。
俺は掌の御守りを見つめ、眉間に皺を寄せた。
ヤンドアも人感知センサー付きの自動ガラス戸も俺は作っていない。これらは、この御守りの中に入っていた紙に記載されている『シークレットサービス』から俺の家に届けられたものだ。
父さん、アンタ一体、何者なんだ?
父さんは、自分の身に何が起こるのか知っていたのか?
もしかして、父さんは────。
と考えたところで俺は首を横に振った。父さんがあのテロで生きているはずはないのに、もしかしたらと希望を抱いてしまいそうになった。
父さんはあのテロで死に、母さんは父さんが実行犯にされてしまい、日々マスコミに追われ精神を病みうつ病のような症状がではじめ、やがて家で首を吊って自殺した。
母さんの葬式で、はじめて喪失感というものを覚えた気がする。それは、父さんの死体が家に届かなかったせいで死というものが実感できなかったためだろう。死体をひとめだけでも見れば、そんな希望など抱かずに済んだのに──。
いつだったか、父さんにどんな仕事をしているのか聞いたことがあった。飽きっぽいから職を転々としていて、どう答えたらいいのかわからないと俺に話した。話したというよりはぐらかされたのかもしれない。
思い返してみれば、母さんは専業主婦で父さんは職を転々としていて長続きしないのに、生活に困ることなど一切なかった。住む家を一から建てたのは父さんのお金かららしい。
母さんにも聞いたことがある。いまはどんな職に就いているのかと。そしたら、母さんもよくわからない、ヤクザとか危ない仕事じゃないから安心していいと言っていた。
だが、たった一度だけ、父さんの職場を見せてもらったことがあるらしく、その時は高級レストランのシェフをやっていたらしい。
御守りの約束はテロの前、シークレットサービスから届いたヤンドアと人感知センサー付きの自動ガラス戸、伏せられた父さんの職業、届かない死体───それらが父さんの生存を示しているのではないかと思えてならない。
「生きてんなら、とっとと出てこいよ」
返事がこないとわかっていても、そう呟かずにはいられなかった。
感情が乱れたせいで、兄貴の生活音と視界が陽炎のように揺らぐ。
俺は掌の御守りを元のポケットにしまい、それ以上考えるのをやめにした。




