おまけ
「気に食わない」
「奇遇ね。私もあなたが気に食わないわ」
ジャンヌとセドリックはお互いにしかめつらを向け合っていた。
日が暮れはじめ、病院から帰ろうというころ。私を迎えに来たセドリックとジャンヌが鉢合わせてしまったのだ。
二人はどうも、相性が悪いらしい。私から見ると、一種の同族嫌悪にも見える。
お互いに気に食わないと思いながら、前夜祭でデートをした仲だ。腹の黒さが、なんとなく似ている気がする。
「君に気に食われなくとも、リディは僕を気に入ってくれているから結構だ。――さあリディ、君のお父上が待っている。屋敷へ戻ろう」
「ぐぬぬぬぬ……!」
ぬぬ、とジャンヌは唸る。彼女の頭で、子竜もギギギと唸るように鳴く。こっちは別に、セドリックに向けた声ではない。真似しているだけだ。
「リディ!」
彼女は憤怒の顔のまま、私の腕を取った。ぐっと自分に引き寄せると、セドリックから遠ざける。
「ジャンヌ、私戻らないと」
「すぐに済むわ。ちょっとだけ話をさせて」
――まあ、ちょっとなら。
そう思う私の返事を、ジャンヌは待たない。
「攻略対象の話。ニワカのあなたはどうせあまり知らないだろうけど、どんなキャラか知ってる?」
「い、一応……」
六人の攻略対象は、一通り覚えている。説明書にもあったし、公式サイトにもボイスと差分付きで載っていた。
「騎士団長、神官長、女装神官、王子殿下、宰相の息子のセドリック。……あとは、天の神」
「そう!」
ジャンヌの声は、ひそひそ話でも力強い。
「マゾヒスティックマッスル、略してMM騎士団長。純粋無垢美中年、手のひらくるくる神官長。女装ナルシストの三下美少年神官。二重人格の躁鬱王子殿下に、ド人外思考の邪悪な天の神」
――え、ええ……。そうなの?
ジャンヌの頭の上で、天の神こと子竜が抗議するように彼女の額を叩いている。しかしジャンヌは気にしない。
「まともな人間がいないのよ、このゲーム」
たしかに。ゲームだからキャラ設定は濃い目が基本だけど、まとも枠も数人はいるはずだ。爽やか好青年とか、生真面目すぎて不器用とか。
もちろん、色物限定ゲームもあるけど。攻略対象がすべて中年だったり等々。
「このままだとセドリックだけ、キャラが薄いでしょう」
――そう……かしら?
セドリックの属性は、ジャンヌの言う通りなら腹黒。まあ、定番の設定だ。一人はいないと文句が出る。
「というか、マゾがいるならいないとおかしい設定があるでしょう」
ぎくりとする。嫌な予感。
ジャンヌは背後のセドリックを一瞥すると、小声で私の耳元に囁いた。
「セドリックは、サディストの設定持ちよ。……もちろん、ゲームの中の話だけど」
〇
サディスト。
――よ、よくある設定だわ!
むしろ人気の設定だ。腹黒とも相性がいいし、ゲームの設定なのだから本物のサディストというよりは、もっとマイルド。嗜虐というよりは、意地悪――――そう、ちょっと意地悪という程度だ。
――それに、ゲームの中だけの話よ。本物のセドリックは優しいし、怒ったりしないし……。
考えながら、ちら、と私は隣のセドリックを見上げる。
フロヴェール家の屋敷に向かう馬車の中。私とセドリックは並んで座っていた。馬車の中には他に誰もない。二人きりだ。
ドキドキしている私とは裏腹に、セドリックは落ち着いている。進度を確認するように、窓の外に目を向けるセドリックの横顔を、私はそっと見つめていた。
こんなときでも、セドリックは私に触れようとはしない。手を握ったり、腕を組むなんてもってのほかだ。
その原因が父にあることを、私はもう知っている。婚約の条件としてセドリックに提示されたのは、結婚するまで接触厳禁。破ったら白紙に戻すという、非常にストイックなものだった。セドリックはそれを、忠実に守ってくれているのだ。
先日のキスなんて、まるで夢だった気さえしてくる。でも、夢じゃない。その一件で父は部屋にこもりきり、あわや婚約破棄の騒動まで起きたのだ。
今も婚約していられるのは、私の希望と、セドリックの働きかけがあったからこそ。
――フランソワも言っていたわ。『あの男、先日の騒動をうやむやにする代わり、今回の件は見逃せですって!』と。
弱みに付け込んで、なんて卑怯な。私たちに気がついた時点で、こうするつもりだったのですよ! フロヴェール家への脅迫ですよ! 脅迫!――とも。
――………………えーと。
目の前のセドリックを透かして、私は先日のセドリックを見る。蟻を踏む幼子のような、見たこともない楽しそうな顔をしていた彼は、少し、かなり怖かった。
「……リディ? どうかしたかい?」
無言の私の視線に気がついて、セドリックが首を傾げる。窓の外を見ていた目は、今は私に向いていた。
「ええと、いえ、なんでも…………」
言いかけた言葉を、私は飲み込んだ。少し前まで、誤解ですれ違っていたのだ。ちゃんと疑問は口にしないと、また同じことになる。
だから私は、膝に手を置き、背筋をぐっと伸ばし、まっすぐにセドリックに向いた。
「セドリック。……あなた、嗜虐趣味があるの?」
セドリックは瞬いた。本気で驚いているらしい。しばらくの間、声も出なかった。
そして長い間のあと、彼は深いため息をついた。
「………………あの女の入れ知恵だね。君には悪い友達ができてしまったな」
「ジャンヌは関係――――ないこともないけど。でも、私が気になったのよ!」
「そういうことを、本人に聞くのか」
セドリックは苦笑する。怒っているわけではないらしい。
非常識だとは、私もわかっている。立派な青年に対して、「嗜虐趣味がありますか?」なんて、どう考えても無礼だ。
「だって、セドリックのことだもの。知っておきたいの」
嗜虐趣味があってもなくても気持ちに変わりはないけど、こう、心構えが変わるのだ。
それに、一度疑いを持ってしまった以上、ずっと悶々とし続けることになる。だったらはっきりと答えを聞いてしまいたい。
「まいったな」
セドリックは頭を掻く。苦笑いのまま、思案するように視線をさまよわせ――その視線が天井に向いたとき、妙案を思いついたらしい。
「……そうだな。じゃあリディ、ちょっと目を閉じてみてもらえるかい?」
「目を?」
いぶかしむ私に、セドリックが頷く。いつもの穏やかな表情からは、彼の考えはさっぱり読み取れない。
「別に、いいけど」
無防備なまま目を閉じるのは少し怖いけど、馬車の中だし、すぐ傍にはセドリックがいる。だから私は、私はおずおずと目を閉じた。
視界は真っ暗だ。馬車の揺れと車輪の音、馬のいななきが聞こえてくる。空気の流れがいつもより鮮明で、セドリックの身じろぎも感じられるような気がした。
「リディ」
暗闇の中から名前を呼ばれる。声がいつもより近い。でも、距離感がつかめない。
「君は本当に、驚くほどに素直なひとだ」
「セドリック?」
「もともとただの政略結婚。僕も君も、互いに誰でもよかったはずなのに」
手のひらになにかが触れる。驚いて手を引いたら、引いたところを握りしめられた。
見えていなくてもわかる。セドリックの手だ。大きくて、少しひんやりしている。
「いつの間にか僕は、君に感化されている。君たちの思い描く僕がどういう人間なのかは知らないけど。――――リディ、僕は君に会って、きっと元の僕から、すごく変化しているんだよ」
首元に息がかかる。え、と思う間もない。
首筋に髪が触れる。くすぐったい。首元に柔らかいものが触れる。吸われている。
握りしめる手に力がこもる。でも、痛くないくらいに加減してくれている。
「せ、セドリック! なに! な、な、なに!?」
耐え切れずに目を開けば、下から私を見上げるセドリックがいる。彼は少し意地悪そうに笑っていた。
「い、今の、関係あるの!? さっきの話と!?」
セドリックの手を振り払い、私は自分の胸に手を当てる。心臓の動きが手のひらにまで伝わってくる。忙しなくて、うるさいくらいだ。
顔が赤くなる。頭に熱がのぼる。セドリックがいるからと安心していたけど、もしかして一番安心できない相手は彼なのではないだろうか。
「内緒」
「内緒!?」
――これだけして、内緒!? 目をつぶらせたのはなんだったの!?
セドリックを睨みつけても、彼は涼しい顔だ。空色の瞳は深くて、つかみどころがない。
「結局、どっちなの!? 嗜虐趣味、あるの? ないの!?」
「それは、君自身で判断してごらん。僕は答えるとは言わなかったでしょう?」
くすくすと笑いながら、セドリックは意地の悪いことを言う。私はぐっと両手を握り、恥ずかしさと悔しさを込めて叫んだ。
「ず、ずるい! ずるいわ!!」
セドリックは笑う。私の抗議さえもおかしそうに。
「リディ。君、いつの間にか敬語が抜けているね」
嬉しそうに。
私と同じく、少し頬を赤らめながら。
〇
屋敷に帰ったら大騒ぎだった。
最初に気がついたのは、やはりフランソワだ。
「旦那様へ報告を!」
彼女は私を見るなりそう言った。他の使用人がばたばたと父の引きこもる部屋へと駆けていく。
残されたフランソワは、甲冑の持つ剣を手に取った。
「私は害虫の処分に行ってきます」
「フランソワ! 待ってフランソワ! どういうこと!?」
慌ててフランソワの手をつかむが、彼女は止まらない。私の声も聞こえているのかわからない。
見かねたメイドが、私の傍にそっと近寄り、鏡を見せてくれた。
鏡を見せつつ、彼女は自身の首元を指さす。ここを見てください、ということなのだろう。
言われたとおりに、私は鏡の中の自分を見やる。夏だから、少し開き気味のドレスの、素肌の首元。
そこにあるのは、虫に刺されたような赤い跡。でも虫刺されではないことぐらい、さすがの私にもわかる。
鬱血の跡だ。前世的にはキスマーク。中学生でも知っている。だってゲームの中にもたまに出てきたから。
――――セドリック!!
屋敷からぞろぞろと、武器を構えた父の側近が出てくる。戦争が起きかねない。屋敷の奥からは、「おおん」と獣の鳴くような声がした。それが父の泣き声だということは、このときの私は知らない。
「待って! なにもないから! 待ちなさい! 待ちなさ――――い!!」
今すぐ焼き討ちに向かおうという人間たちに、私は必死で叫んだ。
――なんてこと。なんてこと……!!
セドリックはわかってやっていたのだろうか。
わかっていたに決まっている。じゃなきゃ、こんな目立つ場所に跡を残すはずがない。
くすくすと笑うセドリックが目に浮かぶ。
私には優しいけど、優しいだけでは決してない。
やっぱり……!
やっぱりセドリックは腹黒の意地悪だ!!
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
現時点で、私の持てる甘味をすべて出し切りました。
次はもっと振り切った甘々を書きたいです。




