上エジプトのファラオ
紀元前198年、プトレマイオス朝の軍がコイレ・シリア地方のほとんど喪失したという報は、上ナイル地方にも伝わったようである。
「神託が下りた!
今こそ、偉大なるエジプトを外国人の手から奪い返す時なるぞ!」
古代エジプトの都テーベにて、ホルウェンネフェルという男が叫んでいる。
ホルウェンネフェルは、プトレマイオス朝の内乱の指導者である。
新王国時代の王国首都で、その時代に太陽神ラーと一体化した最高神アメンを祭る都市テーベ。
ホルウェンネフェルはそのテーベのアメン神官の一族であった。
プトレマイオス朝はマケドニア人、ギリシャ人の王朝である。
彼等は下エジプト、ナイル川河口の三角州にアレキサンドリアという都市を築いて、そこで政治をしていた。
これがテーベの者には面白くない。
そしてプトレマイオス朝は、エジプトの強力な王権や、儀式などを取り入れつつも、王侯貴族や軍人、総督や地方官、そして官僚に到るまでマケドニア人、ギリシャ人、ペルシャ人等で固めた。
現地エジプト人は無視され続ける。
そんな被征服者エジプト人だが、彼等が覚醒する出来事があった。
それが紀元前217年のラフィアの戦いである。
約2万人のエジプト人が、それまでの荷物運びから一転、重装歩兵として参加して勝利に一役買う活躍をしてのけた。
かつては圧倒的な力のペルシャ帝国に敗れて屈服し、そのペルシャ帝国を打倒したアレクサンドロス大王の部下、プトレマイオス1世によって支配され、エジプト人は自信を失っていた。
しかし、その強いマケドニア人と肩を並べて戦った事により、エジプト人は自信を取り戻す。
そしてプトレマイオス朝に対し、エジプト人の権利拡大を求めた。
しかし、プトレマイオス朝はそれに応えない。
時の王は、政治的な事に無関心で、贅沢と哲学論争が好きなプトレマイオス4世。
その宰相としてアガトクレスという男が、重税を課して国民を苦しめる。
この状況に、エジプト人たちは蜂起した。
その反乱を纏め上げたのが、ホルウェンネフェルという男というわけである。
ホルウェンネフェルには、人を束ねるだけの能力があった。
まず彼は、エジプト人から尊敬を集めるアメン神官の家系である。
そのアメン神官でもある彼は、自分をファラオを称し、復古的なエジプト風を演出した。
神像を神輿に戦い、打ち倒したマケドニア人やギリシャ人の地方官を神の生贄に捧げ、戦死者はミイラとして復活を約束する。
自らは何処から引っ張り出したのか、黄金で装飾された戦車に乗って前線を駆け、伝統的な軍装のエジプト歩兵でプトレマイオス朝の軍を蹴散らす。
解放地に対し、独裁者としては振る舞わない。
代わりに神託を出し、神の意思として統治する。
ファラオと神の国エジプトという社会の復活に、エジプト人たちは酔った。
彼個人にも、カリスマというものが漂っていた。
頭を丸めた神官姿の彼は、どこか神々しさが感じられる。
話す言葉も深遠であり、生々しい事は言わず、どこか神の世界の事のように語る。
「プトレマイオス朝を倒せ!」
とは言わない。
「エジプトは、ヒクソスにも海の民にも、アッシリアにも最後には勝って来た。
アメン・ラーはエジプトを決して見放さない」
と言って、エジプト人を納得させる。
様々な外国勢力に、一時的に占領されても、最後には独立を取り戻す。
エジプトは不滅、そう人々に思わせた。
だから反乱勢力は彼を崇拝した。
反乱において、各地にリーダーが多数居るのだが、その精神的な支えこそファラオ・ホルウェンネフェルであったのだ。
「下エジプトへの侵攻は止めた方が良いかと。
今まで我々が勝って来られたのは、敵の主力では無かったからです。
あの連中が本気で戦えば、装備に劣る我々は負けるでしょう」
そのようにホルウェンネフェルを諫めているのは、テーベ地方の軍閥・アンクマキスだ。
南方クシュ王国のヌビア人の血を引く彼は、実務家であり、かつ熱心なアメン信徒でもある。
故に、アメン神官でもあるホルウェンネフェルに忠義を誓っている。
煌びやかで目を引く事しか出来ないホルウェンネフェルの軍事活動において、その補佐をして来たのはこの男だ。
彼もエジプト第一主義者であり、その面でホルウェンネフェルを支える気持ちにブレはない。
しかし、軍閥の長であるアンクマキスは、神官王ホルウェンネフェルよりも現実が見えている。
伝え聞くパニウムの戦いの戦いで、プトレマイオス朝は大敗し、その主力であるマケドニア人重装歩兵は相当数が失われた。
確かに弱体化しただろう。
しかし、どうにも不安でならない。
プトレマイオス朝が弱ったのは確かでも、自分たちはもっと弱いのではないか?
上半身裸か、布を巻いただけの歩兵が、木の盾と、槍や鎌状刀だけで戦うエジプト歩兵。
暑いからそれが合理的なのだが、いざ戦闘になったら、金属の鎧を纏い、長大な長槍を持つ重装歩兵に勝てるとは思えない。
ファラオを名乗っていても、かつての偉大なファラオ、トトメス3世やラムセス2世のような大戦車部隊を持っているわけでもない。
戦車はテーベの神殿や宮殿地下に隠されていた骨董品があるくらいだし、専用の戦車兵の訓練だってされてはいない。
南のヌビア人との連携も万全とは言えず、戦力になるヌビア騎兵という援軍も十分には得られていない。
準備が全く出来ていないのだ。
そんな中、神託があったからと言って、下エジプトを攻めて良いのだろうか?
「アンクマキスよ。
アメン神を疑ってはならない。
アメン神を疑うと、我々はエジプト人たるを失うぞ」
ホルウェンネフェルはそう窘める。
「私とて、アメン神を疑ってはおりません。
疑っているのは、王の戦争の手際です」
神を否定出来ない以上、アンクマキスは王という人間の資質を問う。
ホルウェンネフェルは困ったように微笑んだ。
「確かに余は戦争など出来ん。
それゆえに、そなたが居るのではないか」
そう言われると、アンクマキスも面映ゆい。
信頼されている。
自分が王の足りない部分を補えば良いのだろう。
「分かりました。
では、私が力の限り王をお支え致します」
そう言って退出したアンクマキスではあるが、軍閥の長である彼はそれで終わらない。
部下を呼ぶと
「下エジプトで暴動を起こせ。
その際、ファラオを名乗る者を多数用意せよ。
粗末なものであっても、馬車に乗せよ。
奴等を各地に散らせ。
我が王の前に立ちふさがる兵力を、少しでも減らせ」
そう命じた。
更に
「自分の縁を使ってクシュ王国にも援軍を求めよう。
彼等もアメン神を崇める民、手を貸してくれるよう、手を打たねば……」
と独り言のように、ブツブツ言っていた。
今からでも打てる手は打つものである。
紀元前197年、各地で暴動を扇動しながら、例の黄金に煌めく戦車に乗ったファラオ・ホルウェンネフェルは、ナイル川に沿って北上して来ている。
美男の御者が長い鞭を振るってみせ、倍乗者は美声でファラオ復活を告げる。
ファラオの世が良かったのかどうかは分からない。
最後の古代エジプト・第30王朝がペルシャに占領されてから約150年、もうその時代を知る者は生きていないのだから。
だがギリシャ人から下層民扱いされる今よりも、きっと輝かしい時代だったに違いない、民衆はそう錯覚した。
錯覚したかった。
夢を見られるなら、それで良い。
エジプト全土は沸き立ち、一般入植マケドニア人たちは震えながら彼等の都市に立て籠る。
ホルウェンネフェルは、軍事的には何も行動をしていない。
ただ民衆に神々しい姿を見せながら、移動して来ただけなのだ。
何もしていないのに、民が従い、歓呼の叫びが上がる。
まさに今がホルウェンネフェルの絶頂期であった。
「あれが敵の首魁だ。
帰国したばかりで申し訳ないが、このまま引き下がっては我々が弱かったと思われてしまう。
我等、アイトリア同盟傭兵団の強さを、再び示そうではないか!」
そこには、コイレ・シリアから帰国したばかりのコスパス将軍と、6千の傭兵団が立ちはだかる。
これは反乱軍の軍事指導者アンクマキスにも意外であった。
敗軍の将たるコスパスが、失脚もせず、国外に逃げもせず、司令官としてやって来るとは思わなかったのだ。
「全軍撤退!
分散して逃げろ!
都市に入り、壁を盾に戦え!」
アンクマキスの命令と
「神に見放された男である、このまま神罰が下るのを明らかにせよ」
と前進を命じたホルウェンネフェルの声が交差する。
反乱軍は混乱した。
ただでさえ、上下エジプト各地から集まって来た人民で膨らんだ雑軍である。
十万に達しようという兵力であったが、たった6千のギリシャ人部隊に蹴散らされていった。
目立つ戦車に乗っていた神官王ホルウェンネフェルは、何が何だか分からない内に、敵兵に殺到されてしまう。
「愚か者どもが!
余はアメン神、天空神ホルス、女神イシスの寵愛を受け、この国を束ねるファラオなるぞ!」
そう怒鳴るも、ギリシャ人には効果が無い。
セレウコス朝の軍に敗れた屈辱を、反乱鎮圧で晴らそうと、気が立っていた。
ファラオを自称した男は、「生け捕りにせよ」という司令官の言も無視した傭兵によって、無惨にも殺されてしまう。
「逃げろ、逃げろ!
生きていれば再起も出来る。
奴等にテーベを落とす力は無い。
テーベに戻って、もう一度やり直すのだ!!」
アンクマキスは騎馬を走らせながら、兵や民たちに叫んだ。
失敗だ。
指導者を失ってしまった。
彼はその様を、少し離れた所で戦いながら見てしまった。
自分が付いていながら不甲斐ない。
だからこそ、このエジプト再興の戦いを、ここで終わらせるわけにはいかないのだ。
アンクマキスの心、いまだ折れず。
エジプトの反乱は、指導者を失っても終わらない。
おまけ:
ホルウェンネフェルとアンクマキスは、親子とか同一人物とか、諸説ありました。
神官出身とかヌビア人の血筋とか、出自も色々でした。
よく分からんから、神官王と地方軍閥の長という事にしました。
史実を元に書きましたが、分からんところは創作したので、所詮小説と割り切ってお読み下さい。




