ボロボロのプトレマイオス朝
「貴様が軍医か」
派遣されて来た新兵を閲した後、クスシヘビの巻き付いた杖を持つ男を見て、司令官は話しかける。
アレキサンドリアから一人軍医が追加派遣される事は聞いていた。
その証が、1匹の薬師蛇が巻き付いた杖、「医神の杖」である。
なお、2匹のクスシヘビが絡み合った杖は「ヘルメスのケーリュケイオン」と言い、ヘレニズム国家で広く使われていた。
この軍司令官も、「ヘルメスのケーリュケイオン」を描いた旗の下に立っていた。
このプトレマイオス朝エジプト軍司令官は、その名をスコパスと言う。
彼もエジプト出身ではない。
ヘレニズム諸国の一つ、マケドニア南部のギリシャ西部諸都市で作られたアイトリア同盟という、都市国家連合体の出自だ。
彼の経歴は華々しい。
アンティゴノス朝マケドニアとの「同盟市戦争」において、スコパスはアイトリア同盟軍の将軍を勤める。
まずはアカイア市の軍勢を、カピュアイの戦いで撃破。
続いてマケドニア本国に侵攻し、ディオン市を破壊する。
攻撃一辺倒でアイトリア同盟諸市の防衛を怠った為、そこをマケドニア軍に襲われた責任を問われ、一時将軍職から追われていたが、やがて復職し、ローマ共和国の法務官マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスとの同盟を締結した。
そしてアカルナニア市を征服するも、これは救援に駆け付けたマケドニアのフィリッポス5世によって奪還される。
紀元前210年にはアンティキュラ包囲戦でローマのラエウィヌスと組み、これを陥落させてアイトリア同盟領とした。
そんなスコパスは、マケドニア戦争終結後にエジプトの軍司令官として迎え入れられる。
……アイトリア同盟内で政治家として活動したが、彼も政治的には無能だった為、憲法改正に失敗した後に国を去ったものだが……。
このような輝かしい軍歴を持つスコパスを迎え入れたエジプトだったが、この国は今、窮地に陥っていた。
紀元前202年、エジプトのコイレ・シリア総督が、セレウコス朝シリアに寝返った。
それをきっかけに、セレウコス朝シリア国王のアンティオコス3世は、ガザ州を含む属州を全て制圧する。
新任のコイレ・シリア総督スコパスは、反撃に転じて、セレウコス朝からコイレ・シリアを奪い返していた。
世に「第五次シリア戦争」と呼ばれる、プトレマイオス朝とセレウコス朝の戦争は、既に始まっていたのだ。
第五次シリア戦争と記した。
であるなら、第一次から第四次も在ったという事である。
直近の第四次シリア戦争では、プトレマイオス朝エジプトが、セレウコス朝シリアに大勝している。
この大勝利の立役者は、エジプト人である。
エジプト人がプトレマイオス朝の為に戦う、これは当たり前の事ではない。
ヘレニズム諸国は、マケドニア人、ギリシャ人の国であり、エジプト人は被征服者に過ぎない。
エジプトという国号ながら、実際はマケドニア王国エジプト属州であって、その軍は重装歩兵による密集隊形での戦いを主力としていた。
この重装歩兵の構成は、マケドニア人やギリシャ人傭兵である。
だが、第四次シリア戦争のラフィアの戦いにおいて、プトレマイオス朝はエジプト人やリビア人を重装歩兵として組み込んだのだ。
専横の宰相アガトクレスの仲間であるソシビオスの策なのは意外であろうか。
ラフィアの戦いでは、プトレマイオス朝軍の戦象部隊がセレウコス朝軍の戦象部隊に敗北し、左翼部隊が壊滅するという被害を受けるも、中央のエジプト人を含む部隊が奮闘し、最終的に大勝利を収める。
セレウコス朝は兵1万を失い、4千人の捕虜と80頭以上の戦象鹵獲という打撃を受けて、戦役そのものでも敗北した。
だが、そんな大功績にも関わらず、エジプト人の地位は向上しなかった。
一方でアンティオコス3世も諦めていない為、コイレ・シリアを巡る対立も解消しない。
エジプトはこの地の防衛に、莫大な国費を割き続ける。
その上で、浪費家であるプトレマイオス4世と、その宰相アガトクレスやソシビオスによって膨大な国家予算が消費された。
その皺寄せはエジプト人に行く。
ソシビオスはエジプト兵の功績を無視し、何らの待遇改善もしなかった。
政治家も官僚も軍人も全て、相変わらずマケドニア人やギリシャ人が独占。
その上、税金は極めて重い。
そしてエジプト人の我慢は限界を超える。
アケメネス朝ペルシャ帝国に占領されて以降、エジプト人は自信を失っていたのか、従順だった。
しかしラフィアの戦いで自信を取り戻したエジプト人たちは、現状打破を願い、上ナイル地方で反乱を起こした。
プトレマイオス4世の死亡直後、ホルウェンネフェルという男が「偉大なるエジプト復興」を掲げて蜂起、ナイル川上流地域を占領し、古都テーベにおいてファラオを称し即位する。
その旗には、エジプトの象徴「コブラ」が描かれていた。
マケドニア王国の分家であるプトレマイオス朝を否定した、純然たる古代エジプト王国の復帰を宣言したようなものである。
こうして上ナイル地方を失ったプトレマイオス朝だが、下エジプト・ナイル川デルタ地域にある首都アレキサンドリアでも混乱が発生した。
既に語ったトレポレモスによるアガトクレス殺害と、翌年のアリストメネスによるトレポレモス追放劇である。
上ナイル地方の反乱、首都の混乱を見て、セレウコス朝シリアが動き始めた。
それが先代のコイレ・シリア総督の寝返りに始まる、第五次シリア戦争へと繋がる。
「知っての通り、我がエジプト軍はシリア軍との戦争を行っている。
負傷者が多数出る事だろう。
軍医にはしっかり仕事をしてもらいたい」
スコパスは厳めしく、そのように告げる。
新任の軍医コマンオスは、無表情にそれを受け止める。
(なんとも気迫の無い男だな)
スコパスはそう思い、少し喝を入れようと思った。
「軍医といえども、自分の身は自分で守る事だ。
敵に襲われた時、助ける余裕などない場合もある。
それが戦場だ。
そこは分かっているな」
「当然でしょうな」
「そんな緊張感の無い感じで、よく当然などと言えるものだな」
「緊張感が無い、そう見えるのですか?」
「違うのか?」
「さて、俺にもよく分からないもので」
「では言おう、明らかにだらけている。
気が抜けておる。
そんなんでは、この戦場で生き抜けん!
貴様自身が軍医による治療を受けるようでは、来た意味が無い!」
「そうですな」
「貴様、さっきから緊張感の無い返事、どうにかならんのか!」
「なりません。
これが自分のいつも通りなので。
緊張もしませんし、恐怖も無い、興奮する事も無い……」
言い終わらない内に、スコパスは剣を突き付けた。
「これでも緊張しないのか?」
コマンオスは怯える事もなく、平然と、いや若干呆れ気味に言い返す。
「将軍、それじゃ喉を切れないでしょ。
脅しなのは見え見えです。
肘を曲げて、衝くなり引くなりしないと刃物は役に立ちませんよ」
「知ったような事を言うな」
「俺も刃物を使う事には慣れていましてね。
人の切り方はよく知っているんですよ。
切る目的は違いますがね」
「ふむ……」
スコパスは剣を引き、鞘に納める。
斜に構えた青年かと思いきや、どうやら度胸がある部類の人間なようだ。
恐怖や緊張にとらわれず、いつでも平然としている類の人間らしい。
「分かった。
言ったように、いざという時は自分の身は自分で守れ。
必要ならば兵士として、俺の命令に従って敵を殺せ。
それ以外の時は、医者として負傷した兵士を治せ。
それが貴様の仕事だ」
「心得ました」
スコパスは下がれと、手を振った。
そして、早速コマンオスは軍医として辣腕を振るう。
プトレマイオス朝軍とセレウコス朝軍は、小競り合いをあちこちで繰り返している。
戻って来た部隊の負傷者を治療する野戦病院では、コマンオスのぶっきらぼうな感じで丁度良い。
「痛えよお」
「怪我してるから当然だな」
「治してくれよ、骨が、肉からはみ出てる……」
「骨が突き出たくらいじゃ、人間死なないから安心しろ」
「ワインなら布じゃなくて、俺の口にくれよ!」
「黙れ、これは傷口を拭く為のものだ」
「軍医の癖に、兵士長である俺に対し生意気だ」
「じゃあ治さんぞ」
軍営ではこれくらいで良い。
優しく接するよりも、手っ取り早く、治すというより「直して」戦線復帰させるまで。
統計上「効果がある」薬草を使う事や、経験での骨の修復、傷の手当、焼灼による止血といった原始的な治療しか出来ないのだ。
それでも次第に、このぶっきらぼうな軍医は兵士たちに受け入れられていく。
「調子良い事言わないで、出来る事、出来ない事、ハッキリしてるんだよな、この先生は。
だから、治るって言われたら絶対治るって思って安心する」
「……手遅れだ、って言われたら絶望しか無いけどな」
「違いない」
兵士たちはそう言って笑い合った。
(どうやら、ここが俺の医者としての居場所かもしれない。
もっと患者に気を使えだの、お世辞の一つでも言えだの、そういう事は無い。
俺の天職は軍医なのかもしれないな)
コマンオスは、コイレ・シリアの砂塵でくすんだ空を見上げながら、何となくそう思っていた。
だが、結果から言って、彼には軍医以上の天職がある。
間も無くそれを理解する事になる。
紀元前200年夏、プトレマイオス朝エジプト軍は、後にゴラン高原と呼ばれる地域に向けて進軍をしていた。
画像はAIのcopilotを使って、作者が作成させました。
オリジナル(?)です。
今回の企画では、自作の画を貼りまくりましたので、もしかしたらスマホ読者は重くなるかも?
第3話は明日の17時にアップします。




