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コマンオス帰国へ

「何故、シリアとの交渉にコマンオスの帰国という条項を付け加えないのか?」

 エジプト首都アレキサンドリアでは、少年王プトレマイオス5世が宰相を詰っていた。


 プトレマイオス5世は、帰国した将兵から小アジアでのコマンオスの働きを聞いている。

 コマンオスは降伏した城将たちと共に捕虜となった。

 その後、城将たちはそのままセレウコス朝に登用され、引き続き都市を任されている。

 城将たちは軍人ではなく、市長というか地方政治家である為、忠誠というのは余りない。

 アレクサンドロス大王も、降伏したアケメネス朝の地方官をそのまま使い続けた。

 そんな感じで、同じヘレニズムの国々なので、帰属が変わっても有能ならば据え置かれる事はあるのだ。

……暴政を振るったりしたら、見せしめに処刑されるという例外はあるにしても。

 しかし、野戦部隊指揮官であったコマンオスは、捕虜となった後、シリア首都アンティオキアに連行されたという。


 現在まで、コマンオスがセレウコス朝に将軍として仕えたという情報は入っていない。

 であるならば、国の為に働いた将軍の返還を求めるのが、外交というものではないのか?


 この少年王の憤りに、宰相アリストメネスは涼しい表情である。

「大事なのは陛下と、シリアのクレオパトラ王女との婚姻。

 些事を言い出して、交渉がこじれてしまっては、意味がないではありませんか。

 それに、いずれその男はセレウコス家に仕えるでしょう。

 万物流転、人材はひと所に留まるものではありません。

 こだわる必要はありませんな」

 貴族たちも続ける。

「そのような者に拘らずとも、陛下には我々貴族から成る重装騎兵ヘタイロイが居ますぞ」

「宰相が言われるように、まずはアンティオコス殿の王女との結婚が先です。

 大層美人と聞いております。

 羨ましい限りですなぁ」

挿絵(By みてみん)


 少年王はどうにも納得出来ない。

 国の統治は、万物流転等という哲学で割り切れるものではない。

 その者はきっと、自分たちの交渉によって帰国する事を願っているに違いない。

 それを連れ戻さず、なるがままに任せろ等と、それで王と家臣の信頼が成り立つのか!

 少年王は宰相への不満を溜めながら、別口にコマンオスの帰国をセレウコス朝に呼び掛ける。

 宰相とは違う窓口、キプロス島の総督プトレマイオス(王とは同名)を通じてシリア王アンティオコス3世にコマンオス返還を持ち掛ける。




 その頃、コマンオスはシリア軍と共にトラキアの地にいた。

挿絵(By みてみん)

 セレウコス朝は、事実上「アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)」争いの勝者と言えた。

 アンティゴノス朝マケドニアがローマに敗れ、プトレマイオス朝エジプトはシリアに敗れた。

 セレウコス朝シリアは、一時は国土を相当に失ったものの、アンティオコス3世がほぼ旧領を回復。

 アレクサンドロス大王とほぼ同じ領域を勝ち取った。

 大王と呼ばれるようになったアンティオコス3世の次の野望は、アレクサンドロス大王同様、ヨーロッパにも自領を持つ事である。

 それでこそ、完全なる「アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)」と言えよう。

 第二次マケドニア戦争の後、ローマはギリシャの地から引き揚げた。

 この隙にアンティオコス3世はヘレスポントス海峡を渡り、トラキアを手に入れる。


 このヨーロッパ遠征軍には、新たに王の軍事顧問に収まった、「カルタゴの雷光」ことハンニバルも密かに加わっている。

 ハンニバルは来るローマとの対決に向けて、この地の地形調査に余念が無い。


「この隘路において、お前ならどう布陣する?」

 ハンニバルは、王の斡旋で彼に弟子入りしたコマンオスを教育している。

 コマンオスは即答せず、ハンニバルに対し想定する彼我の兵力を尋ねた。

 コマンオスは医者上がりであり、問診のように彼我の状態を知ろうとする。

「熱があるけど、薬はどれを出す?」

 という師の問いに、それ以外の症状をろくに聞かずに薬の名前を答えたら、怒られるだろう。

 まずは問診である。

 それと同様、自軍と敵軍の置かれている状況を知らずには答えられない。

 ハンニバルはその態度に満足し、様々な状況を設定して問う。

 敵が少数ならば、自軍は敵に先んじて隘路を突破し、出た先に布陣する。

 敵が大軍ならば、隘路の入り口、敵から見たら出口だが、そこに凹形陣を敷いて迎え撃つ。

 ハンニバルはその模範解答に、相手がローマの場合の対処法を付け加えた。

 山岳戦にも慣れたローマ軍は、隘路を作る崖の上に登り、そこから投槍(ピールム)で攻撃して来る事も考えられる。

 だから、断崖の上にも伏兵を置く必要があるだろう。

 あるいは、先んじて崖の上に味方の兵を置き、弓矢を撃ちかけて登らせない選択肢もある。


 コマンオスはこのように、ハンニバルの戦術を実際の地形を元に教え込まれる。

 と同時にコマンオスは、アンティオコス3世の戦い方も学んでいた。

 大王から学べるものは、戦術ではない。

 大王から学べるのは、大軍の統率術である。

 座学でハンニバルから聞いてはいたが、実際に大王の傍で見ると、より具体的なものが見えて来る。

 今現在アンティオコス3世は、トラキアの諸部族との戦いに勝利し続けている。

 セレウコス朝軍が大軍で、敵は少数なのだから、戦う前から勝ちが決まったようなものだ。

 敵を圧し、抵抗を押し潰して勝つも、その後には寛大な処置で配下に組み込んでいくのだ。

 これはトラキアだけの話ではない。

 かつてアンティオコス3世は、パレスチナのユダヤ人に対しても同じように対応し、彼等の支持を得ていった。

 長年エジプト領だった地も、今は大王に忠義を誓って、エジプト回帰を求めたりしない。

 こうやって「領土」を拡大していくのだ。


 そして大王は政治を疎かにしない。

 彼はヨーロッパの陣中に在りながら、そこでも政治を行っていた。

 この軍勢には書記官も従軍している。

 必要に応じて、首都から担当者もしくはその使者がやって来て、王の決裁を求めていた。

 プトレマイオス朝との和平条約についても、この地で色々と詰めている。

 そんなある日、コマンオスはアンティオコス3世に呼び出された。


「お呼びでしょうか、陛下」

 大王はコマンオスに椅子に座るよう促してから、用件を告げる。

「エジプトが君の返還を求めて来た。

 プトレマイオス5世王が特に、君を帰国させたいと懸命なようだ。

 そこで聞きたい。

 君はどうしたい?

 帰国を選んでも、余は恨まぬ。

 残るというのであれば、将軍の職を用意しよう。

 どうする?」

 王からそう言われたコマンオスは、少しだけ考えた。

 すぐに目を上げ

「帰国させていただきたく存じます」

 と、ハッキリ答えた。

 この返事に、大王は特に驚いた感じも、失望した感じも無かったが、それでも

「理由を聞かせてくれないか?

 余の君への待遇は悪かったのか?」

 と尋ねて来る。

 コマンオスは、首を横に振り

「陛下の厚遇には感謝をしています。

 自分のような敗軍の将を辱める事もなく、ハンニバル将軍のような一流の師をつけてくれました。

 感謝に耐えません」

 コマンオスは、おべっかや追従を言わない人間だから、これは本心からの感謝である。

「では何故?」

 大王の重ねての質問に、コマンオスは意外な回答をした。

「陛下は自分を将軍として迎えると言われました。

 しかし、それは止めた方が良いでしょう。

 ハンニバル将軍を軍事顧問に迎えましたが、既にこれまで陛下に仕えていた将軍たちが不満を持っています。

 陛下は、自分が帰国を選ばず、陛下にお仕えすると答えたなら、自分にも将軍職を本当に用意されるでしょう。

 しかし、それでは軍の結束を更に損ねます。

 だから、自分は去らねばならないのです」


 人心を見るのに鈍感だったコマンオスも成長していた。

 あるいは、軍事的に冷静に見た結果、人の和を崩すと戦争に負けると判断したのかもしれない。

 とにかくこの回答は、アンティオコス3世の意表をついた。


「それは……気付かなかった。

 なるほどなあ、そういう事もあるのか。

 うん、有り得るなあ……。

 ありがとう、軍中の様子に気を配る事にする」


 コマンオスの物語からは少し離れた話だが、実際後年、ハンニバルがセレウコス朝の軍を率いて戦った際に、他の将軍が彼の命令に従わず、連携が取れずに敗戦する事になる。

 人材の交流が盛んで、陣営を変えて将軍や宰相になる事例もあるヘレニズム時代だが、それでも人の心というのは中々に難しい。

「自分の方が長年仕えていたのに、王は余所者を上位に据えられるのか!」

 そう思う者だって存在するのだ。


 回答に意表を衝かれたアンティオコス3世だったが、彼はコマンオスがエジプト帰国を選ぶ事は織り込み済みである。

 自分の敵にならなければ、それで良い。

 自分と親しい将軍を送り返せば、エジプトに恩を売れるだけでなく、ローマに対抗する者をそこに置き、敵意を分散させる事も出来るからだ。

 だからアンティオコス3世は、コマンオスの帰国を認めると告げた。

 そして

「約束してくれ。

 君がどのような活躍をしようとも、その軍才を余に向ける事はしないでくれ。

 それが君を友と思う、余への恩返しだと思ってくれ」

 と語りかける。

「友、ですか」

 戸惑うコマンオス。

「そうだ、友だ。

 離れようが、君は余の友だ」

 どこまで計算で言っているかは分からない。

 アレクサンドロス大王も、将軍たちを友と呼び、それで自身への忠誠度を高めていた。

 それに倣ったものかもしれない。

 だが、大王の言葉は、今度はコマンオスの意表を衝いた。

 彼は今まで、友と呼べる人間を持っていなかったのだから。

 朴念仁な男であったが、何か心に響くものがあったようである。

 コマンオスは大王に跪き、

「約束します。

 仮に今後、エジプトとシリアが再び戦う事になろうと、自分は陛下に剣を向ける事はしません、と」

 アンティオコス3世はコマンオスを立たせ、抱擁を交わす。


 かくしてコマンオスは、プトレマイオス5世と結婚する事が本決まりとなったクレオパトラ王女の護衛の任に就き、そのままエジプトに帰国する事となった。

 紀元前194年の事である。

一応、クレオパトラ1世の彫像を元に

「少女漫画風に再現して。

 この時期はまだギリシャ・マケドニア風で」

という指示を出して作ったので。

よくあの鼻の欠けた彫像から、このデザインになったな、と思いましたよ。

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