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第五章 あそこで起った本当のこと 3

 いったいどうしてこんなことになったんだろう?

 奈緒子は考えていた。

 しばらくは姿を隠すつもりだ。警察は目をつけてないだろうけど、正彦やさくらにもう顔を合わすわけにはいかない。自分が涼子のふりをしていたことの説明のしようがないからだ。

 とにかくどこか遠いところに行きたかった。先のことはよくわからないけど、ここから逃げ出すことしか考えられなかった。だから成田に来た。

 それだけのお金は充分にある。後藤田たちが突入したとき、つばめがとっさに窓から捨てた三千万が今手元にある。

 奈緒子はチェックインカウンターで飛行機の搭乗手続きをすると、カートを引き摺り、出発ゲートに向かう。

 どこにでもある幸せな家庭だった。一年前のあの事件が起こるまでは。

 奈緒子は回想する。

 一年前の夏休み、家族旅行に出かけ、湖畔のロッジに泊まった。

 真夜中に覆面をした二人組の男が侵入してきた。狙いはお金の他、あたしとお姉ちゃんの体。ひとりの男がみんなに銃を突きつけて脅し、残りのひとりがあたしを襲った。

 みんなの前であたしを襲う男。それを見守る家族たち。

 男に襲われたときどうするか? 対抗する技は知っていた。子供のころからお姉ちゃんと古柔術を習っていたから。だけどなにもできなかった。……怖くて。体が石のように動かなかった。

 だけどお姉ちゃんは違った。隙を見て、あたしを助けようとした。拳銃を向けられているのに。

 でもその結果は最悪だった。凶弾がお父さんとお母さんに当たった。そしてふたりは死んだ。結局ふたりの強盗は逃げ失せ、あたしは体と魂を汚された。

 そう、あたしの魂は、そのときからどうしようもないほど、汚れてしまった。それは体を汚されることなんかよりも数倍深刻なことだった。

 自暴自棄になった。だから木更津のような男に引っかかった。

 外見上は極力変わってないふりをした。学校でも、家でも。ちょっと内気だけど、それなりに明るくて優しい中学生。だけどそれは仮面にすぎない。じっさいの心はすさむ一方だった。

 誰を憎めばいいんだろう? なにを憎めばいいの?

 誰か知らない犯人を憎む? 顔すらわからない男を?

 無理だ。目標のない憎悪は長続きしない。的がなければ狙いを定められない。

 あたしはお姉ちゃんを憎んだ。

 そうするしかなかった?

 出しゃばったために、両親が殺されたことに対して?

 違う、そんなことじゃない。あのとき、自分が相手を倒していれば結果は違ったかもしれない。それができなかったから、お姉ちゃんがああするしかなかったんだ。

 なにもできなかった自分に対し、命を賭けて行動できたお姉ちゃん。

 あたしが境遇に甘え、見た目だけごまかしつつも、どんどん自堕落になっていくのに対して、水商売に手を染めながらも保険金に頼らず懸命に生きようとするお姉ちゃん。

 なんなのよ、この差は?

 自分が惨めだった。

 誰もがお姉ちゃんのように強くなれるのだろうか? あたしだけが弱いのだろうか?

 そんなことは認めたくない。これ以上、自分をおとしめたくない。

 お姉ちゃんだって、ほんとうは弱いはずだ。もっともっと窮地に陥れば、弱さをさらけ出して、自己嫌悪して、堕落して行くに違いない。

 試してみたかった。お姉ちゃんを汚したかった。困らせたかった。

 無理矢理犯罪に荷担させられて、逮捕されたらどうなるんだろう?

 それでも、今のように毅然としていられるの?

 その答えを知りたかった。お姉ちゃんもしょせんあたしと同じだと、安心したかった。

 だから木更津を利用してこんなことを企んだ。

 だけどいったん木更津がからむと、計画はどんどんエスカレートしていった。木更津は狂言誘拐の前に、スパイ役のシンジがお姉ちゃんとくっつくようにセッティングした。そしてお姉ちゃんたちが自分の銀行を襲う計画を立てていることを知ると、狂喜してそれを利用する計画を立てた。あたしはそれを知ると、自分がますます堕落し、悪党の片割れになっていくのを自覚した。

 惨めだった。許せなかった。だからこそ、なおさら、お姉ちゃんも自分のレベルまで堕とそうと思った。

 そしてお姉ちゃんを憎む一方で、木更津に対しても激しい憎悪を覚えた。

 こいつはなに? 悪党、それも筋金入りの。

 こいつと、あたしを襲ったやつらにいったいなんの違いがあるの?

 同じだ。自分の欲望のために、他人を踏みにじることになんの躊躇もないクズ。

 計画が煮詰まっていくにつれて、その思いがふくらんでいく。

 どんどんどんどん、まるで風船に悪意を詰め込んでいくように。

 はち切れそうになった憎悪は、計画実行の当日、爆発した。

 こいつはあいつらと同じだ。金のために平気で人の心を傷つける。

 あいつらと同じ。木更津とあいつらは同じ。同じ。同じ……。

 当日、トイレで会うと、あたしを抱こうとしてズボンを下ろした。欲情してたまらないといって。

 まさにケダモノだった。あのときのあいつらと同じ。その思いは頂点に達した。

 あいつらと同じ? いや、……そうじゃない。そうだけど、そうじゃない。つまり、そのものだ。

 あいつは姿を変えてあたしにつきまとう。こいつはあいつだ。

 一見馬鹿げた考えだけど、あたしは確信した。あいつは形を変えて一生つきまとう。葬り去らない限り。

 もう二度と同じ過ちは犯さない。

 喉を思い切り突いてやった。あのときもこうすれば良かった。

 声が出ないのをいいことに、肩を外してやった。あのときもそうすれば良かった。

 もう片っ方の肩を外すときは、ぞくぞくと喜びすら感じた。

 もう止まらなかった。そのまま顔を便器に突っ込んで足で押さえつけた。

 一年前も、……一年前もこうしてやれば良かったんだ。

 おまえのせいで家族は崩壊した。おまえのせいであたしの魂は汚れた。おまえのせいで、おまえのせいで……。

 気がつくと、木更津はぴくりとも動かなくなっていた。

 出ようとしたら、あいつの足が当たってドアが開かなかった。

 邪魔よ。

 あたしはあいつの足を引っ張りあげると、ドアを無理矢理開いて、外に出た。

 どうしてそれが密室殺人になったのか自分でもわからない。

 銀行から出るときに、さくらさんたちとすれ違ったけど、顔を見られないようにそらした。あたしはもともとお姉ちゃんに似てるし、変装もしてる。たぶん気づかれなかったはずだ。

 予定外のことをしたけど、後悔は微塵もしなかった。むしろ木更津を殺したことで魂が解放された気分だった。こんないい気持ちはまさに一年ぶりだった。

 そしてそのときは、自分のやったことがなにを意味するのかよくわかっていなかった。

 つまり、木更津殺しをお姉ちゃんたちに押しつける格好になることを。

 姉を落とし入れ、自分の男を殺し、三千万を奪い取る。

 そういう結果になったことがさらに自分を卑しめる。

 あたしは金の亡者だ。

 金のために、人を操り、裏切り、……殺す女。

 一年前には想像すらつかなかった汚れた自分がここにいる。

 そう思いながらも死ぬことすらできず、汚れた金を持って生き延びることを考えている最低の女。あまりにもひどすぎて、自虐的に笑いたくすらなる。

 そんなことを思っているうちに、奈緒子は出発ゲートに辿り着いた。

 見覚えのある顔があった。

「警部?」

 きょうはジーンズにポロシャツ姿ではなく、くたびれたグレイのスーツ姿だった。しかしその大柄な体、短い髪に熊のような髭面。それはまちがいなく銀行の外で指揮をとっていた警部だった。

「やあ、涼子ちゃん……じゃなくて奈緒子ちゃん」

 警部は笑っている。

「どうして?」

「どうして? 正規のパスポートを使って、本名でチケットを予約しただろう?」

 でもどうして、あたしが犯人だって?

「不思議そうだな。不思議でもなんでもない。飛原涼子の身内を調べたら、妹の君が一週間前から学校を休んでいる。すぐにぴんと来たよ。あのとき、銀行の前で俺がしゃべっていた少女は君だって。そこまでわかれば十分だろう」

「でも、それだけじゃあ、あたしが犯人だって……」

「じゃあ、一から俺の推理を話して聞かせようか」

 奈緒子は無言で首をふった。

「警部さんって、見た目より優秀だったんですね」

「見損なうなよ、それくらい素人だってわかるぞ」

 警部はプライドを傷つけられたのか、少しむっとしていた。

 その態度がおかしかった。少し笑った。何ヶ月も笑ってなかったような気がする。

 それにしても、事件のあと、頭がまともに働いていなかったらしい。そんなかんたんなことにさえ気づかないとは。いや、ひょっとしたら無意識のうちに捕まることを望んでさえいたのかもしれない。だから警察がどう動くかを考えることをやめてしまったんじゃないだろうか?

「ひょっとしてあたし、包囲されてるんですか?」

「いいや、俺ひとりだ。まさか、逃げるつもりか?」

 警部の口調がきつくなる。

「いいえ、汚れるのにももう疲れました」

 本音を吐いた。誰でもいいから助けて欲しかった。

 これ以上汚れるのも、誰かを憎むのももうたくさんだ。

「お姉ちゃんにごめんなさいって伝えてください」

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