しかめっつら姫は初恋の令息と仮面夫婦を演じる
「アクィラール家が長男セルジュよ、先の戦での活躍は見事だったと聞いている。褒美を取らせよう、望みはあるか? 遠慮はせずともよい」
赤い天鵞絨の絨毯が敷かれた玉座の間。
王の御前には、礼装用の軍服を纏った青年が跪いている。片手を胸に当て、恭しく頭を垂れる姿は洗練されており、彼自身の品位と王家への忠誠が見てとれた。
アクィラール家次期当主セルジュ、二十二歳。彼は戦の功労者として、国王に謁見する機会を賜ったのだ。
しかし、いかにも慎ましやかな臣下の立ち振る舞いとは裏腹に。彼が口にしたのは、あまりに大胆な望みであった。
「国王陛下の広い御心に感謝いたします。それでは……恐れながら。陛下の姫君、リナリア王女殿下を、私の妻に迎えさせていただけないでしょうか」
場に居合わせた全員が、息を呑んだ。広間の静けさは変わらずも、空気は一瞬にして張り詰める。
――由緒正しい家門であるアクィラール家は、王家に次ぐ力を持つ。建国以来王を補佐する役割を担ってきた家だが、最近は王家との「不和」が囁かれていた。
なお、これには王家の支持率低下も関わっている。他国との間に些細な火種があれば、すぐ戦に乗り出そうとする。自らの威信を示すため、宝飾や贅沢品に必要以上の金をかける……そんな国王に疑問を抱いた貴族たちの一部は、誠実で実直なアクィラール家へと、ひそかに心を傾けていった。
つまり、王家かアクィラール家か。この二家の対立及びどちらを支持するかは、目下貴族たちの関心の的だ。
そうした中、件の次期当主から不意に放たれた王女への求婚。これを国王がどう受け止めるのか、周囲は固唾を呑んで見守る。
国王は片眉をぴくりと引き攣らせ、しかしすぐに鷹揚な態度を取り戻すと言った。
「……は、感心した。なかなか豪胆な若者だ。だが余も父親だからな、娘の心に聞くとしよう。リナリア、どうだ?」
場の視線は、今度は玉座の脇に座っていた王女リナリアへと注がれる。
続いて、小鈴を振るように澄んだ声が、広間の静寂を通った。
「国の英雄とも言えるお方に望まれるとは光栄です。わたくしリナリアは、この申し入れをお受けいたします」
言葉だけを見れば、王女が英雄の求婚を受け入れるという至極めでたい場面に違いない。だが――
王女の表情が見える位置に控えていた者たちは、再びはっと息を呑んだ。
普段は優美な弧を描く彼女の両眉は、険しく寄せられて。ついぞ今結婚が決まった姫君とは思えない、とんでもないしかめっ面をしていたからである。
*
「アクィラールの若造が、リナリアとの結婚を望むとはいったい何のつもりだ!」
私室に戻った国王は、人払いが済むなり本音をぶちまけた。
そもそも王は、軍総司令が功労者としてセルジュを推したときから機嫌が悪かった。大軍を率いた将ではなく、小さな偵察部隊の働きが戦況を分けたという説明も、地味で気に入らないと。
その後、気前よく褒美を与える姿を皆に示せば、王家の株が上がると考え直したのだが。適当な土地か金品でもやっておけばいいと思っていたのに、大切な娘をとはまったく予想外だった。
王が荒れることを予想していたのだろう。私室まで付いてきた王妃は、夫に寄り添い宥めるように声をかける。
「でも、これでアクィラールと歩み寄れるんじゃないかしら? 少なくとも、あちらが王家より力を持つなんて事態にはならないでしょう」
「いや、この婚姻を足がかりに、王家を呑み込もうとまで考えているやもしれん」
「その可能性がないとは言い切れませんけれど……でも、それは」
王妃はゆったりと振り向いて、一歩下がった位置に佇む娘へと目を向ける。
「私たちの娘次第ですわ。リナリアはこんなに愛らしいのですから、アクィラールも心を掴まれ、翻ろうだなんて思わないでしょう」
「はっ、そうだリナリア、本当に結婚を受ける気があると言うのか!? 嫌なら撤回して構わないんだぞ」
父の勢いに驚いて、リナリアはぴくっと小さく肩を跳ねさせた。けれども呼吸を整えてから、彼女ははっきり自らの意を述べる。
「いいえ、お父様。私はこの結婚をお受けしたく思います」
*
実際のところ、リナリアはこの結婚が嫌ではなかった。……どころか、むしろ。
当のセルジュこそが、幼い頃から憧れる初恋相手。これはリナリアだけの秘密だ。
父王の部屋を後にし自室へと戻ったリナリアは、鏡台の前に腰を下ろした。
先ほど大きく顔をしかめた感覚が、まだ額に残っていて。皺でもできたらどうしようと、鏡を見ながら真剣に眉間をさする。
そうして皺伸ばしにひととおり尽力してから、彼女はほう、と溜め息をついた。
広間で見せてしまったような「しかめっ面」は、何もしたくてしているわけではないのだ。強く緊張したり、体に力が入ったり。そんなとき、自分では制御できずに顔をしかめてしまう。
今日は久しぶりにセルジュの姿を見られるというだけで、朝からそわそわしていたというのに。まさか求婚されるとは夢にも思わず、驚きと胸の高鳴りを抑えるのに必死で、人生最大級のしかめっ面を作り出してしまった。
……そう、初めて彼を意識したあのときも――
十二年ほど前。当時王太子妃だったリナリアの母は、時々王宮の一角で茶会を開いていた。貴婦人同士の交流や楽しみのために開かれる、気楽な会である。中には子供を伴うご婦人もいて、茶席の横で子供同士が遊んだりする機会もあった。
その日はよく晴れており、母たちは外でガーデンパーティーをしていた。一緒に茶菓子をつまんでいた子供たちは、そのうちに飽き、体を動かそうということになった。
子供の中心は、リナリアの兄である王子ダリウス。この頃彼は、隙あらば自身の剣の腕を見せびらかそうとしていた。家臣に木刀を用意させ、庭に仮ごしらえの試合場ができあがる。ほかに女の子が来ていなかったので、リナリアはひとり退屈しのぎに兄たちの様子を見ていた。
ぼんやりと彼らの試合を眺めながら。幼いリナリアは、ふと違和感を覚える。なんだか兄ばかりが勝っているなと。お兄様は「俺が強いからだ」と言いそうだけど、でも……。
六歳のリナリアには、その違和感をはっきり説明することはできなかった。だが今ならわかる。お調子者で機嫌をそこねると面倒な兄ダリウスのため、周囲が気を遣って勝たせていたのだと。
「なんだ、皆相手にならないな。ほかに誰かいないか?」
「……では、僕がお相手になりましょう」
兄の呼びかけに対し、最後に応えたのがセルジュだった。
黒髪の、物静かな少年。リナリアにとってはそれくらいの印象しかなかった。彼はあまりこういう場に来ないので、顔を見るのは二、三度目。
その彼が、あっという間に兄の木刀を弾きとばしてしまうとは思ってもみなかった。
「はっ? なっ、お前……、王子に対して無礼だぞ!」
「……ええと、手加減すべきだったでしょうか」
「い、いや、俺は誰よりも強いはずで」
「僕は、王子殿下との勝負に全力で挑みました。わざと手を抜くほうが無礼だと思うのですが」
周囲は皆ぽかんとして。兄だけが慌てふためき、ついには「おぼえてろよ!」と捨て台詞を残しどこかへ駆けていく始末。
セルジュは動じなかったが、少しだけ困った様子で前髪をかき上げた。その間からのぞく切れ長の瞳が、なんとはなしに観衆の――リナリアのほうへと向いて。
その瞬間、リナリアは思わずぎゅっと両手を握りしめた。心臓がぴょんと跳ねたような、初めての感覚に驚いたのだ。
王子相手だからと媚びへつらうことのない、セルジュの誠実さが眩しく見えた。
こうして小さな恋が始まったのだが、同時に。彼と初めて目が合ったこの瞬間も、リナリアはしかめっ面をしていたに違いないのである。
その後は、ほとんど会話する機会がないまま今に至る。セルジュが社交の場に来ることは少なく、またリナリアは彼を前にするとしかめっ面が出てしまうため、軽い挨拶を交わすのが精一杯だった。
きっと、求婚は政治的意図からなのだろう。母が言うように二家の関係を見直すためかもしれない。その役目はしっかり果たさないと。
リナリアは鏡の中の自分と顔を見合わせると、やや不安げに、もう一度だけ額をさすった。
*
「姫、お疲れですか?」
「……あ、いえ、大丈夫です」
アクィラール邸へと向かう馬車の中。つい先ほど夫となった人に声をかけられ、リナリアは慌てて顔を上げた。が、その視線は頼りなく彷徨う。
セルジュは差し向かいの席に座っている。憧れの人がこんなに近く、こちらを見ているという状況を、リナリアが直視できるはずがない。眉間に力が入るのをどうにか堪えようとする。
結婚準備は滞りなく進み、今日の日を迎えるまではすぐだった。先ほど宮廷教会にて結婚式を挙げたところだ。降嫁という形になるため、式は親族中心のささやかなものとなった。
今後は、王都のアクィラール邸での生活となる。田舎の領地はセルジュの祖父母が管理しており、両親は社交や会議のため王都にいることが多い。セルジュもしばらくは王都の軍施設に勤務するため、両親の屋敷に一緒に住む。
ここまで、セルジュと会話らしい会話はできていなかった。無口な花嫁のことを、彼は気遣ってくれたのだろうか。
今、自分は絶対挙動不審になっている、リナリアにはそんな自信があったが。セルジュは一度小さな微笑みをくれて、それから話を続けた。
「ご理解くださっているかとは思いますが、この結婚は政略的なものです。ここ数年、王家とアクィラールの対立が囁かれていますが、アクィラールにはそんな気はありません」
セルジュの言うことは、リナリアにも理解できた。彼は言葉を選んで真摯に話してくれたが、つまりこういうことだ。
アクィラールの人気をよく思わない国王が、国政会議の場で意見を聞かなくなった。アクィラール側は意見を押し通したいわけではなく、これまでどおり王家を支え、誠実な政治を目指したいと。子供のように拗ねた父王の姿が想像できてしまい、リナリアは少し恥ずかしくなる。
「俺が戦の褒賞を賜ることになり、いい機会だと。求婚は、アクィラール当主と相談して決めたことです。なので――」
「わかりました」
「え?」
――わかってはいたことだったけれど。
年季入りの恋心を抱えてきた身としては、いたたまれなくなった。当の初恋相手から「これは愛のない結婚だ」と念押しされるのが。
だからリナリアは、セルジュの言葉を遮って、その結論を自ら先回りすることを選んだ。
「私も、政治の場は公正であるべきだと思います。貴族たちがつまらない噂に興じるのもよくないですし。この結婚はうまくいったと、二家の関係は良好なのだと皆に示すために、協力して円満な夫婦を演じましょう……!」
「演じる……、ああ、そうですね」
リナリアが急に早口でまくしたてたので、セルジュは少々面食らったようだった。
しかし彼が静かに頷くのを見て、リナリアは確信する。ああ、これは形だけの結婚なんだ、と改めて。彼は、手を焼かされる国王の娘となど結婚したくなかったのだろう、と。
アクィラール邸に到着し、馬車から降りる際に手を貸してくれる仕草も、彼自ら部屋を案内してくれたことも。セルジュは終始優しく紳士的だったけれど、その優しさが、リナリアにはかえって切なくも思えた。
*
リナリアの新婚生活は、いたって順調だった。
アクィラール家当主の奥方は、上品で落ち着いた美しい女性。黒髪に涼やかな顔立ちで、見ればセルジュの母だとすぐわかる。彼女は、「うちは男の子ばかりだから娘ができて嬉しい」と、リナリアを刺繍やお茶の時間に誘ってくれた。
当主であるセルジュの父は、公の場で会うのと同じ、寡黙で堅い印象。だが、ある日リナリアとセルジュの母とでケーキを焼いていると、さりげなくやって来て味見をしていた。その口元は綻んでいて、母君によれば「あの人、甘いものには目がないのよ」とのこと。
世間で聞く「王家との不和」とはいったい何なのかと思うほど、リナリアはアクィラール邸にて快適で完璧な日々を送っていた。
ただひとつ、セルジュと本当の夫婦ではないことを除けば、だが。
セルジュはいつでも優しい。顔を合わせれば微笑んで、リナリアのことを丁寧に扱ってくれる。
けれどもそれはどこか他人行儀で、夫というよりは王女に仕える騎士のよう。
もちろん初夜も何もなかった。「円満夫婦」を演じるため、週に何度かはセルジュが夫婦の寝室を訪れるという取り決めをしたが、彼は毎回ソファーで寝ているのだ。しかも彼はたいてい夜遅く、リナリアが眠ったあとにやって来る。
――私との結婚、そんなに嫌だったのかしら……。
寝室の隅に置かれたソファーを見ながら、リナリアは溜め息をついた。今夜あたりセルジュの訪問があると予想しているが、まだ来ていない。
「軍経験があるので、俺はどこでも寝られます」と彼は言うものの、週に何度もソファーでは疲れが取れないだろう。ベッドを使ってくださいと、次こそ言うつもりだった。
夜は刻々と更けてゆき、今夜は来ないのかも……そう思ってベッドに潜り込んだときだった。
扉が開く気配を感じ、リナリアは思わず飛び起きる。
「……すみません、起こしてしまいましたか」
「い、いえ、その……眠れなくて」
「温かい飲み物でも用意しましょうか」と、彼はまた気遣いをくれる。しかしリナリアはこれを断り、思い切って本題に入った。
「あの、ベッドで寝ていただけませんか。ずっとソファーでは疲れが取れないはずです。私の隣がお嫌でしたら、私がソファーで」
「いえ、あなたをソファーで寝かせるなんてできませんよ」
「でしたら、こちらで、ちゃんと半分あけますので……」
リナリアは自分の枕を掴み、ベッドの片端へ大きく下がった。
しばしの間、彼は無言でこちらを見ていた。が、おもむろにベッドまで歩いてくると、リナリアがあけた空間へ腰かける。
「あなたは、優しいですね」
「えっ……?」
ベッド脇の棚に置かれたオイルランプが、室内をぼんやり照らし出す。
セルジュは普段やや長めの髪を襟足で結わえているが、今は解かれ、顔まわりにはらりと落ちていた。寝室でしか見ることのないその寛いだ雰囲気は、どこか気怠げで。橙色の灯りが彼の整った顔に陰影をつくり、無自覚な色香を放っている。
切れ長の瞳に射抜かれ、リナリアの身体にはつい力が入る。顔がこわばる感覚と戦っていると、彼は穏やかに言った。
「護身術をお教えしましょう」
「……え…………?」
なぜ急にそんな話になったのか、わけがわからない。
「あなたに心配をかけ続けるのはよくない。ベッドの半分はありがたく使わせてもらおうと思いますが、俺も男です。間違いがあってはいけない」
「は、はい……?」
「たとえば、手を貸していただけますか」
リナリアが戸惑いながら片手を差し出すと、セルジュはその手首をそっと掴むようにした。
「こうして手首を拘束されたら、まず手のひらを開いてください」
「……こう、ですか」
「そう。で、向きは真横、親指が上に来るように。親指の付け根が俺の手を押す形になり、拘束がゆるみやすくなります。一瞬相手のほうへぐっと体重をかけたら、今度は上方へぱっと振りはらう」
「はい……」
「一度練習してみましょう」というセルジュに従い、リナリアは夫の手を大きく振りほどく。いったい寝室で何をしているのだろうという戸惑いよりは、彼に手を触れられたことに対する緊張が勝った。
「あとはとにかく体の固い部位を使って、相手を攻撃する。肘とか膝とか。この距離感なら、頭突きが効果的でしょう。あなたの額を傷つけたくないので練習はしませんが、脳裏に留めておいていただければ――」
こつん、と。不意に額と額とがぶつかった。
というか、緊張が最大にまで達したリナリアが、混乱のすえ頭突きを放ったのだ。それを頭突きと呼ぶにはあまりにも、無力で頼りない一撃だったけれど。
「……っ……、姫、これでは敵を倒せません。……なんというか、逆効果というか」
リナリアは、頭突きの際にぎゅっと閉じていた瞼を開ける。と、思ったより至近距離にセルジュの顔があった。
咄嗟に目をそらし、勢いよく後ずさる。一瞬見えた彼の表情は、なんだかとても困っている様子だった。
「実戦のときは全力でぶつかってきてくださいね」、そんな彼の言葉を、きちんと理解する余裕もないまま頷いて。
いつまでも収まらない胸の鼓動を抱え、その夜リナリアは、ベッドの片端にはりついて眠った。
*
――きっと、嫌われているのだろうと思っていた。
セルジュは自室の椅子にかけ、片肘をついて、妻となった人のことを考えていた。
国政を正すために持ちかけた政略結婚。彼女は理解を示してくれたが、結婚自体は望まないものであったはず。
夫婦を「演じ」ようという言葉、目が合うたびにこわばる表情から、これは本格的に嫌われているなと。
はじめは、彼女はアクィラール家への降嫁が不本意なのだと思った。だが、セルジュの両親とはうまくやっているようだ。母と自然な笑顔で談笑するリナリアを目撃したとき、セルジュは僅かな寂しさを覚えた。
元々、政略結婚以上の何かを相手に求めるつもりはなかったが、徐々に信頼を築いていけたらと考えていた。しかしここまで嫌われているならと、こちらから歩み寄るのは控えたのだ。
夜遅くまで寝室に行かないことも、ソファーで眠るのも、セルジュなりの配慮だったのだが。
――かえって、気を遣わせてしまったのか。
可憐で、慎ましやかなお姫様。けれども自分の意見はしっかり持っている。挙式後この結婚について話をしたときは、父王に忖度することなく国政への考えを述べていた。
昨夜も、自ら声を上げ、夫婦とはいえ嫌いなはずの相手にベッドを譲って…………ただ、あれは。
リナリアの頭突きを思い出し、セルジュは片手で頭を抱えた。
何を思って彼女があの頭突きを繰り出したか知らないが、あれは駄目だ。あんな可愛らしいことをされては。嫌いなら嫌いで鉄壁の防御を貫いてくれないと。
セルジュは前髪をかき上げながら、机上のカレンダーを見やった。
数日後に、王家主催の夜会がある。結婚式以来、人前で初めて「円満夫婦」を演じることになる場だ。
*
煌めくシャンデリアの灯りの下、貴族たちはめいめいの話に花を咲かせている。
夜会会場の片隅で、リナリアはひそかに胸を撫で下ろした。アクィラール家次期当主の妻として、初めて臨む公の場。夫婦で会場内をまわり、挨拶や軽い会話を交わすといった務めを、今ひととおり終えたところだ。
――自然に、振る舞えたはず……。
王女のリナリアにとって、社交は慣れたものである。場にいる貴族の名は全員知っているし、微笑は作らずとも浮かぶ。
唯一、笑顔での対応が難しい相手がセルジュなのだが。今夜彼は夫として隣に並んでいるため、目が合いづらい立ち位置になるというのは、意外にも好都合だった。
和やかに挨拶をしてまわる新婚夫婦を見て、周囲は納得してくれたように思う。どうやら二家の結婚はうまくいったらしいと。
会のはじめに感じた窺うような視線は、徐々に減っていった。皆いつしか他愛ないおしゃべりに夢中、貴族たちの興味などそんなものだ。
そうして、リナリアがふと気を緩めたとき。
「妹を借りてもいいかな?」
振り向くと、兄ダリウスが立っていた。一緒にいるのは、兄と親しくしている伯爵令息ファビアン。少し話がしたいと言う。
夜会は挨拶の段を過ぎ、人々は自由な交流へと移行している。リナリアは夫のそばを離れ、兄とファビアンに付いて別の一角へと移動した。
「リナリア王女殿下……いえ、もうそうお呼びするのは失礼にあたりますね。とにかく、久しぶりにお話できて大変光栄です」
ファビアンから向けられた満面の笑顔に、リナリアは微笑でもって応える。彼のことをどうとも思っていないからこそ出せる、完璧な淑女の笑みである。
なお、離れた場所から様子を窺う夫の視線には、リナリアは気づいていなかった。
いくらか世間話をしたところで、兄ダリウスが新しい話題を持ちかける。
「そう言えば、ファビアンの御父上の後援で作っていた庭園の噴水が、この間完成したんだ。見事なものだから、リナリアも見てきたらどうだ?」
「ああそうですね、是非ともご覧いただきたい! どうか私に案内させていただけませんか?」
ファビアンの家は商家との結びつきが強く、特にここ何代かで財力を増している。その財を王家への忠誠の証と称し、よく美術品等の寄贈をしてくるのだ。
正直さほど興味はなかったが、断る理由も見つからず、リナリアは仕方なく頷いた。
が、しかし。
「では、二人で見てくるといい。ファビアン、妹を頼んだぞ」
「……えっ?」
当然兄も行くものと思っていたので、リナリアは驚いた。夫以外の男性と会場を抜けるのは……と戸惑いつつセルジュの姿を探すも、彼は遠くのほうで軍部の面々と歓談している。
結局、「すぐ近くですから」と言うファビアンに押されて、リナリアは庭園へと足を向けた。
「殿下、こちらです。どうぞご覧ください! 噴水上部の彫像に象嵌しているのは、西の鉱山でしか採れない希少な鉱石で……」
「ええ、とても素敵ですね……」
庭園へ出て少し歩いたところに、新しい噴水が建っていた。水瓶を持つ天使像には宝石が嵌め込まれ、ファビアンの言うとおり豪華で立派なものだ。
だがそんなことよりも、リナリアは、周囲に衛兵が少ないことが気にかかる。
――もしかして衛兵たちは、気を遣って距離を置いている……? 彼とはそんな仲ではないのだけれど……。
早く会場に戻らなくては。しかし、リナリアがそう決心したのと、ファビアンが動いたのは同時だった。
「ところで殿下、結婚生活はいかがですか? 対立する家への降嫁、本当はお嫌だったのではないかと」
「……いえ、そんなことはありません。とてもよくしていただいています」
「私の前では我慢なさらずともよいのですよ。夜会でご夫君との様子を拝見しておりましたが、全然目が合っていなかった。実は、うまくいっていないのでは? 後悔していらっしゃるなら、まだ間に合います。私の家と縁を組めば、王家へさらなる支援も可能になりますし……」
「え、何を……」
人のよさそうな笑顔のまま、ファビアンは距離を詰めてくる。本能的な不安から、リナリアは思わず後ずさった。けれどもファビアンの腕が伸びてきて、あっという間に手を掴まれてしまう。
離して、と、上げたつもりの言葉は、声にならなかった。恐怖がリナリアの声を奪ったのだ。逃げなくては、助けを呼ばなくてはと思うのに、身がすくんで一歩も動けない。
「きっと私のほうが殿下を幸せにできます。あんな男との縁はさっさと切って、私と……」
リナリアが何も言わないのをいいことに、ファビアンは不躾に言い寄ってくる。頭が真っ白になる。掴まれた手に力を込めようとするが、こんなときに限ってまったく動かない。
今や恐怖でしかない相手の笑顔が、じりじりと眼前に迫る。男性がこんなに怖いものだとは知らなかった。
――嫌、やめて、これ以上近づきたくない――……!
「リナリア!」
鋭い声が、夜の庭園を走った。
それから――ごつん、と。鈍い音がリナリアの周囲に響き渡ったのは、ほぼ同時だった。
「ゔっ……」
目を開けると、ファビアンが額を押さえて呻いていた。必死に放ったリナリアの頭突きは、しっかり効果を上げたようだ。
窮地は脱したと気づくも、気力は限界。へなへなとその場にくずおれそうになる。そんなリナリアのもとへ、駆けつけたセルジュが身体を支えてくれた。
「遅くなって申し訳ありません。見事な頭突きでしたが……あなたにそんなことをさせてしまい、夫として不甲斐ない」
「セルジュ様……」
リナリアは、ぼんやりと夫の顔を見つめる。頭突きの直前リナリアの名を呼んだ鋭い声は、彼のものだった。その声に導かれるように、リナリアは勇気を振り絞ることができたのだ。
背中に回された彼の腕は優しく、力強く。こちらを向く瞳は心配そうに揺れていて、胸の奥がきゅっと掴まれるような気持ちになる。
「護身術、使えました。私……、ちゃんと守れました。この身はセルジュ様のものです」
張り詰めていた不安から解放され、涙が一粒こぼれる。体の力が全部抜けきっていたため、しかめっ面は出なかった。
「……っ……、そんな表情でそんなことを言われては……。嫌われていると知っていても、いろいろと抑えるのが難しい。姫、あなたは次に、俺に対して護身術を使うことになりますよ」
「え、嫌われて……?」
「あなたはいつも、俺にだけ険しい顔をしていらっしゃるでしょう」
「ち、違うんです、私……!」
リナリアが慌てて声を上げると、彼は目を見張る。
「緊張すると、顔をしかめてしまう癖があるんです。目が合うとどきどきしてしまって……本当は私、ずっとセルジュ様のことが――」
続く言葉は、言葉にならなかった。柔らかな何かがリナリアの唇を塞いで。
それがそっと離されると、目の前には穏やかに微笑む夫の顔があった。
「……続きは、二人のときに聞かせていただけますか? こんな人前では勿体無い」
「は、はい……」
今何が起こったのかを理解して、リナリアの頬は燃えるように熱くなった。周囲にはファビアンと、異変に駆けつけた衛兵たちがぽかんと立ち尽くしている。
リナリアの告白を「人前では」と遮ったわりに、彼は、今……。結婚式の誓いのキスも頬に軽く触れただけだったというのに。
なんとなく抗議したいような気持ちになって夫を見上げる。
と、彼は切れ長の瞳でちらりと視線を寄越し、悪戯っぽく微笑んだ。
「俺たちの仲が円満だというのは、これでしっかり見せつけられたでしょう」
*
橙色のランプに照らし出された寝室で、リナリアはセルジュと向き合っていた。
剣の鍛練を重ねて硬くなった彼の指が、リナリアの額をそうっと撫でるように滑っていく。頭突きで痛めたところへ、薬を塗ってくれているのだ。
「はい、できました。どうですか、染みます? 痛いですか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます……」
瞼を開け、視界に飛び込んできた夫の顔に、リナリアは懲りずに慌てふためいた。
眉間に力が入るのをどうにかしようと、今度は歯を食いしばってみる。が、かえってひどい表情になっていそうで泣きたくなる。
「無理しなくて大丈夫ですよ。嫌われているのではないとわかったので、あなたがどんな表情をしていようと俺は嬉しいです」
「でも私、セルジュ様の前で自然な表情ができるようになりたいです。一緒に笑い合って、少しでもいい妻になりたい」
「……まったく、あなたは」
抱き寄せられて、その逞しい胸にリナリアは身を預ける。どきどきと耳元で聴こえる鼓動は、もしかして。
「俺だって緊張しています。あなたがあまりに可愛らしいから。時間はたっぷりあるので、ゆっくり本物の夫婦になっていきましょう」
「はい……!」
*
アクィラール家の次期当主と、彼のもとへ降嫁した王女は、誰もが羨む仲睦まじい夫婦だ。そんな噂が広まるのに、時間はかからなかった。
噂好きの貴族たちは両家の不和などすっかり忘れ、若く美しい夫婦を社交界の華と称えて熱狂した。
人々がそうした噂に興じられるのも、この国が平和である証だった。アクィラール家は目立ちたがり屋の国王をうまくいなし、その後何代にもわたって影から国政を支え続けたということである。
(了)
お読みいただき、ありがとうございました。





