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◆鳥が飛ぶ空③

リリには、分かっている。

ブライアの怒りが、復讐の心が、既に消えてしまっていることを。彼はただナターシャとその後ろにある組織に利用されているだけ。国に捨てられた王族が、世界に復讐する。そんな自分に酔っているのだ。


でも、ブライアがあの笑顔を見せる以上、あのときの彼が残っている以上、裏切ることはできない。見捨てることはできないのだ。


「五分後、フィオナが戻ってくるはずだ。頼んだよ、リリ」


高速鉄道に用意された王族用の車両。その座席で、隣のブライアが微笑む。


あのときの、美しい少年の笑みがわずかに残るだけで、その表情は悪意に満ちている。


「……分かりました」


車両にはフィオナの言葉がスピーカーから流れていた。


「アッシアによる侵略は、暴力によって悲しみを振り撒くものです。私たちは、それに立ち向かい、戦争を最小限に抑え、終わらせなければなりません。そして、この世界の平和を未来永劫に守り続ける。そのために、勇者たちよ、私に命を預けてください」


リリは耳を塞ぎたい気持ちになった。戦争が始まると同時に、フィオナを暗殺。精神的支柱を失い、出鼻を挫かれたオクトとアッシアの戦いは泥沼に陥る。それが組織の目的らしい。


ブライアとフィオナ。どちらが人を救うのだろうか。どちらが、美しい鳥たちが飛ぶための空を守るのか。……分かっている。分かっているのに。


「長かったオクトの生活も終わりか」


ブライアが呟いた。

イロモアに到着すると、組織が迎えにきてくれるそうだが、本当だろうか。


自分はもちろん、ブライアも切り捨てられるのでは?


そうなったら、今度こそ自分は地獄の果てまでブライアを守らなければ。


護衛と共に戻ったフィオナに、ブライアが声をかける。


「お疲れ様。到着まで少し休むといい」


通路を挟んだ隣の席に腰を下ろすフィオナ。いつもなら、迷わず隣に座って甘い声で話しかけるところだが、どうも大人しい。やはり、警戒しているのだろうか。


無言の時間が続いたが、フィオナはしきりにスマホを触り、誰かと連絡を取り合っているようだった。スマホを耳に当て、何やら音声を聞いているようにも見える。


(まさか、メメが失敗したか……)


責任感の強いメメのことだ。

もしかしたら、既に自ら命を絶ったかもしれない。リリは目を閉じて姉のことを想う。そして、覚悟を決めなければならなかった。


フィオナが立ち上がり、こちらに向かってきた。リリはフィオナの護衛、二人を背にして、出口への道を塞いだ。


「どちらへ?」


「なぜ、王女である私がそれを話す必要がある? お兄様の使用人とは言え、無礼は許しませんよ」


この車両から脱出するつもりだ。やるしかない。


リリは全力でフィオナを突き飛ばす。軽い女だ。体は宙に浮いて後方に倒れ込む。


背中に忍ばせていたナイフを取り出し、一気に護衛の方へ飛びかかった。想定してなかった襲撃に、護衛は反応が遅れる。


その間に距離を詰め、心臓へ一刺し。背後から、もう一人の護衛が接近する気配があったが、リリは背中から二本目のナイフを引き抜いて、振り向くことなく後方へ投げ付けた。銀の煌めきは空を裂いて、護衛の喉元に突き刺さる。


護衛が声も出せずに崩れ落ちると同時に、


リリは立ち上がろうとするフィオナの方へ駆けた。


驚愕の表情で顔を挙げるフィオナの口元へ手を突き出す。口を塞ぎながら押し倒し、


ナイフを振り上げるリリだったが――


ブザー音が聞こえ、手を止めた。


どうやら、何者かがこの車両に尋ねてきたらしい。ブライアが静かに立ち上がり、外につながる通信装置を操作した。


「……誰かな?」


「あの、すみません。アミレーン出身の勇者、綿谷華と言います。フィオナ様はいらっしゃいますか?」


訪ねてきたのは勇者らしい。

ここで見つかっては、やや面倒だ。ブライアは冷静に答える。


「フィオナは休んでいるよ。疲れているみたいだから、しばらくはそっとしておいてほしい」


外の勇者が黙り込む。もしかしたら、この勇者も何かに気付いているのだろうか。


「少しだけでも、お姿を見せていただけないでしょうか?」


「どうして?」


「……先程、フィオナ様から五分後に来るよう、言われていたので」


ブライアがこちらを見た。どうやら、勇者を招き入れて、始末した方が面倒がないと判断したのかもしれない。


「立て」


フィオナを立たせ、喉元にナイフを当てる。ブライアが扉を開けるボタンを押すと、女勇者の姿が。赤い髪の女。確か綿谷華と名乗っていたが、フィオナの姿を見て、この状況を理解したようだ。


「騒がず、中に入れ。一言でも口を利いたら、王女の喉を裂く」


綿谷華はリリの指示に従って、車両の中に入った……


が、その目は闘志がこもっている。何かあれば飛び付こう、という考えだろう。


綿谷華が呟いた。


「……誠が言っていたのは、こういうことか」


誠と言ったのか?

神崎誠。あのとき、鳥を一緒に埋めてくれた、あの勇者と知り合いなのか?


一瞬の動揺。

目の前にいる綿谷華は、それを見逃してくれるほど、ぬるい勇者ではなかった。


素早い踏み込みで接近すると、ナイフを持つリリの腕を取る。そして、凄まじい力で捻り上げ、フィオナを引き剥がした。


リリは仕方なく、最後のナイフを取り出す。小ぶりのナイフだが、喉を裂くには十分だ。しかし、綿谷華の反応は速く、リリを突き飛ばして距離を取った。


「フィオナ様、ブライア様、車両の外に出て誰かを呼んできてください!」


綿谷華が叫ぶが――。


「違います! 綿谷華、後ろを!」


フィオナの警告に綿谷華が振り返ったが、彼女の目の前にブライアの手の平が。


パンッ、と空気が弾けるような音の後、綿谷華の体が崩れた。


「王族の前だ。騒がないように」


ブライアによる空間を震わせる魔法だ。あれを間近で、しかも頭部に受けてしまったら、暫くは立てないだろう。


「お兄様……本当に私の命を狙っていたのですね」


死の恐怖に震えているかと思ったが、フィオナは毅然としている、ように見えた。そんな彼女の質問に、ブライアは答えない。


「使用人、答えなさい。なぜ、私の命を狙う。誰の指示か?」


「私は何も知りません。ただの暗殺者です」


「私が死ねば、オクトは戦争に呑み込まれる。この国を地獄にしてまで、望むものは何だ?」


望むものは……何だ?


分からない。

何を望んでいるのだろうか。


思わず、リリはブライアの方を見た。わずかな困惑の表情を浮かべて。


それに対し、ブライアはただ笑顔を返す。あのときの、美しい少年の笑顔を。


それを見て、リリの意識はあの日まで遡っていた。自分たち姉妹を助けてくれた、純粋な少年の笑顔。きっと、彼はあのときと同じ純粋な気持ちで、フィオナを殺そうとしている。


だとしたら、自分は……

応えなければならない。あのときの彼を裏切るわけにはいかないのだから。


「私たちは世界を正すため行動するだけです。フィオナ様、お覚悟を」


ナイフを握りしめ、リリは完全に迷いを捨てた。

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