第二章(8)
「ならば……!」
驚いている時間も惜しいとばかり、アリーシェはすぐさま次の『魔術』を練り直す。
その間徐々に、エリスの息が上がってきていた。間断なく回避をし続けているのだ。もはや体力は限界に近いはず。
対するアドレーは、顔色ひとつ変えていなかった。この程度、奴にとっては軽い運動量なのであろうか。
「グラヴィティホールド!」
アリーシェが解き放ったのは、先ほども使用した重力を加算する術だった。
しかし狙いはアドレー自身ではない。奴の持つ剣へ、だ。
袈裟がけに振り下ろされる最中、局地的に発生した高重力に引っ張られ、大剣の軌道が下方へズレた。
生じる地響き。
「!」
アドレーは驚いて顔をしかめる。大剣は狙いを大幅に外し、エリスのかたわらの地面へと深々と突き刺さっていた。
その瞬間、鉄壁を誇っていたアドレーにスキが生まれた。近寄ることすらできなかったふところが、がら空きになったのだ。
「あとでキスしてやってもいいぞっ!」
援護に対する感嘆と謝辞を乱暴に述べながら、エリスは迷うことなく直進した。
ふところに入ってさえしまえば、巨大な剣も使い物になるまい。無用の長物というヤツである。
「今度こそ燃えろぉっ!」
エリスはそのまま跳躍。振りかぶった剣から紅蓮の炎が噴き上がった。
先ほどと同じ攻め方なのは、ある種の意地もあったのだろう。
「オーバーっ……!」
「攻撃とはっ!」
斬り込もうとした瞬間。エリスの声をさえぎるように叫びながら、アドレーは大剣からするりと手を離す。
「こうするものだ!!」
そして握った右拳を、まるで稲妻のような速さでうち放った。
鈍い音が響く。
直撃。
アドレーの岩石のような拳が、飛びかかったエリスの顔面へとまともにねじり込まれたのだ。
息を呑むアリーシェ。
エリスはもんどり打って、まるで投げ捨てられた人形のように地面を転がった。
振り抜いたアドレーの拳から、真っ赤な血がどろりと滴る。
意識を失っていたのは果たしてどれくらいだろうか、と。
のろのろと立ち上がったエリスは、まずそんなことを思った。
しかし足腰に力が入らず、とてもじゃないが自力で立っていられない。剣を杖のようにして体を支えるのが精一杯だった。
妙にぼやける視野で、周りの状況を見る。意識を吹っ飛ばされる前と、ほとんど変わっていないようだった。
ゆっくりと、余裕をみなぎらせた様子で、なかば地面に埋まった大剣を引き抜くアドレー。
血相を変えて走ってくるアリーシェ。
意識を失っていたのは一瞬に近かったのだろうか。
「…………」
はたから見ると、エリスはひどい有り様だった。
直撃を受けた顔面……恐らく折れてしまっているであろう鼻の辺りからは、粘度の高い血がとめどなくこぼれ落ちている。弱々しく荒い息。ぐったりとした全身。地面で擦ったのか、肌の至るところも血がにじんでいた。
……まぁ最後のは、生地面積の狭い服装を好むが故の自業自得であろうが。
どこをどう見ても、もはや戦える状態ではなかった。立っていられるのさえ不思議なくらいだ。
「……一撃で……」
エリスは血を吐きながら、声にならない声で呟く。もしかしたら見た目以上にダメージは深刻なのかもしれない。
そんな彼女を眼下に捕えて、アドレーが大剣を振りかざした。
まるで断頭処刑でもするように切っ先が天へ向けられる。
「口ほどにもなかったな」
エリスは言葉の代わりに、視線を奴へと送り返した。
満身創痍。目も当てられない状態になっているのにも関わらず、彼女の目は、まだ強い闘志に満ちていた。
戦う者の目。相手にスキがあればすぐにでも飛びかかろうかと、そんな意志を感じさせるような眼差しだった。
その視線を、駆けつけたアリーシェの背中がさえぎる。
かまわず、まっすぐ大剣を振り下ろすアドレー。
アリーシェは片手を前に突き出し、
「リジェクションフィールド!」
手の先に半円球の『光の壁』を作り出した。
打ち込まれる大剣。
しかし刃は、ふたりの体にも地面にも到達していなかった。
何もない空中……アリーシェの手の先で、まるでアドレー自身が寸止めしたかのようにピタリとその動きが止められていた。
「なにっ……!?」
アドレーは思わず驚愕を口走る。
いくら力を込めて大剣を押しても、そこから少したりとも刃が進まないからだ。恐ろしく頑丈な壁がそこにあるかのように。
「動けないの!?」
アリーシェは防御の『魔術』を維持したままで、背後のエリスへ問いかける。
「……エリス・エーツェルをなめんなよ。……ちょっと休んでるだけだ……」
エリスは虫の息で言い返した。問うまでもなく、休めばどうにかなるという次元ではあるまい。
「……たかたがパンチ一発……んな地味で攻撃でやられてたまるかよ……」
口端に血を垂らしながら、言葉を続ける。
「……やられんなら、『アレ』でぶった斬られてからだ……。じゃないとかっこつかねぇだろうが……」
「こんな時になにをっ……!?」
アリーシェは困惑するように眉根を寄せる。
そんなボロボロの状態で。こんな危機的な状況で。どこにそういう軽口を叩く余裕があるというのか。
もう諦観してしまったということなのだろうか。勝利をあきらめて、抗うことを放棄したか。それとも気が触れたか……。
しかし横目で彼女の表情をうかがった時、アリーシェは自分の考えが的外れだったことに気付かされる。
エリスの目には、まだ炎が灯っていた。彼女の心は折れていない。不屈の意志に満ちあふれていた。
「すぐに望み通りにしてやろう!」
アドレーは大剣を構え直し、再びアリーシェめがけて叩きつける。
直接受けてはいないものの、アリーシェの顔に苦々しい色が走った。
一度だけでは済まない。アドレーは何度も何度も、執拗に防御障壁を打ち続ける。
攻撃が加えられる度に、アリーシェの表情が目に見えて曇っていった。息も徐々に激しくなり、にじむ汗の量も増えていく。
物理的な衝撃をすべて防いでいるのだ。やはり力の消費は大きいのだろう。
「……お互い、覚悟を決めたほうがよさそうね」
アリーシェは険しい表情でそう投げかけた。
限界は自分自身で把握している。
ここが瀬戸際なのだ。
……恐らくエリスを見捨てさえすれば、アリーシェだけは助かるだろう。まだ逃げる力くらいは残っている。
だが彼女の頭の中に、その選択肢は存在していなかった。
『モンスター』に虐げられている人々を救う。守る。それがアリーシェ・ステイシーの本懐だ。信念と言ってもいい。だから戦っている。
背にしたエリスも、そんな守るべき人間のひとりに変わりはない。どうして見捨てていけようか。
仮に自分がここで倒れようとも、同じ志を持つ仲間が、必ず自分の思いを遂げてくれる。そう信じているからこそ、アリーシェはその場を動かなかった。
命尽きるまで、この身この信念を貫き続ける。
「短いあいだだったけど……あなたのこと、好きになれそうだったわ」
アリーシェが、微笑むようにささやきかける。それは彼女なりの別れの言葉だった。
「もう少し、じっくりとお話ししてみたかった」
その表情には、ありありと諦念が浮かんでいる。
「……早すぎんだよ、あきらめんのが……」
それを察したのか、エリスは叱り飛ばすように声をしぼり出した。
「体ひきちぎられて血ヘド吐いて、手足動かせなくなって……目の前真っ暗になって。あきらめんのはそれからだろうがっ……!」
実際、そうなりかけているエリスである。
しかしなりかけているだけで、なってはいない。だからまだエリスはあきらめていないということなのだろうか。
こんな状況になっても、まだ。
アリーシェは力なく笑いをこぼす。驚きを通り越して呆れてしまったのだ。
彼女はエリスのことを、恐ろしく精神の強い人間だと思っていた。だがその認識を、今少し改める。
単なるバカなのかもしれない、と。
しかしその心意気だけは感心する。その不屈さ、不折さは。感銘に値する。
そんな人間で出会えてよかった。最後に、と付くのが残念だけど。
諦観しきったアリーシェが視線を前に戻した、その時。
「……そうね」
なかば死にかけていた彼女の表情に、わずかな光が舞い戻った。
「たしかに、あきらめるのはまだ早かったわね」
「なかなかどうして、しぶとい」
アドレーはまるで楽しむように、アリーシェの防御壁へ大剣を打ち続けている。
刃は相変わらず彼女の身まで至らないが、打ち込むたびに彼女の顔がしかめられていくのが見て取れた。
如実に弱ってきている。あとひと押しだろう。
「だが悪あがきもこれまでだ!」
大剣をさらに大きく振りかぶった時。ななめ後方から、なにかが風を切る音がアドレーの耳に飛び込んできた。
アドレーは反射的に、そちらへ向けて剣を振る。
手応えはあった。甲高い音を鳴らしながら、刃がなにかを弾き返す。
地面に落ちたそれは、一本の矢だった。
が、それで終わらない。文字通り矢継ぎ早に、二の矢、三の矢が次々に飛来する。
それらをやすやすと払い落とすアドレー。
「スラッシュショットっ!」
その彼の足に、地をはう衝撃波が命中した。
さらに背後から、屈強な男が飛びかかる。頭上に掲げた大斧が力強く振り下ろされた。
「それで攻撃のつもりか!」
が、アドレーは自分の体を回転させるように剣を振り回し、大斧の一撃ごと男を跳ね返した。
アドレーは遠方、地面に転がる手下たちへと視線を送る。
「やられただと……? 情けない!」
そして怒りをあらわに、自分を取り囲む人間たちへと向き直った。
「貴様ら……! 我らに牙をむいた報い、我が同胞を手にかけた報い、オレが直々に臓腑の底まで思い知らせてやる!」




