46 リーリエの願い
巨大な従機の影が太陽に照らされて、北へと伸びる。
飛翔するように広げられた腕は、さながら大きな鳥の翼のように人々の頭上を覆った。
「下がれ、下がれ!」
突如として現れたリーリエの姿に、人の波が動き出す。
リーリエは、高所作業用の足場が組まれた壁の上を、錨の鉄線と空気圧縮機を駆使して舞う。噴射されたエアスプレーが、リーリエの宙を踊るような動きに合わせて流れるにつれ、アーカンシェルの壁にはそれまでなかったはずの絵が浮かび上がる。
「バニッシュペインター……、バニッシュペインターだ!」
エドガーの驚嘆の声がざわめきの中から一際大きく響き、リーリエは口許を綻ばせる。
(見ていて、みんな)
人波が動き、賛辞の声が上がり始める。対立を深めていた人々の視線は、今やリーリエに注がれている。その注目を感じながら、リーリエは錨を掛け替え、空気圧縮機を駆動させながら、壁にありったけのバニッシュペインターを吹き付けた。
絵が描かれた範囲を軽やかに舞うリーリエの動きに合わせ、アーカンシェルの壁に描かれていた巨大な絵の全貌が見る間に明らかになっていく。
「アーカンシェルだ……」
「アーカンシェルの女神だ……」
浮かび上がる絵は、人々が見守る中、リーリエの踊るような動きに合わせて輝きを増す。その場に集まった人々は、すっかり争いを忘れ、その絵に見入っていた。
壁に描かれていたのは、リーリエのビジョンに浮かんだアーカンシェルの女神だった。
舞い降りた女神が、アーカンシェルの豊かな自然を穏やかに見守り、平和と自由を謡っている。アーカンシェルの中心を流れる川は美しく煌めき、光に溢れた世界が鮮明に壁を彩った。
平和と自由を訴えるその絵の出現に、拍手が巻き起こる。
貴族側からも拍手が起こり、境界に立っていた警察部隊も武器を下ろして惜しみない拍手を送っていた。
リーリエは壁にかけた錨を下ろして従機を降下させ、足場の下に着地した。そのまま従機の操縦席に立ったリーリエは、防護用のゴーグルとマスクを外して人々を見下ろした。
リーリエの長い髪を靡かせる風が、割れんばかりの拍手を運んでくる。その拍手にどよめきとざわめきが混じったかと思うと、警察部隊の人垣が割れ、アルフレッドが単身、リーリエの方へと向かってくるのが見えた。
「アルフレッド、戻りなさい!」
「いいえ。戻りません」
金切り声を上げるエリザベートに反抗し、アルフレッドはリーリエへとまっすぐに駆けてくる。その姿にリーリエが従機から飛び降りると、アルフレッドが今にも泣き出しそうな笑顔でリーリエを受け止めた。
「……アルフレッド!」
「やはり君は、女神だ。アーカンシェルの女神だよ、リーリエ……」
リーリエを讃える声を上げながら、アルフレッドが民衆へと向き直る。
「その者はもう、婚約者でも何でもないのですよ!」
「それがなんだと言うのです? このような困難の元にあってもなお、自身に与えられた『仕事』を全うした彼女を讃えるべきです」
「あなたの立場で、そのような発言をするなど……」
つかつかとアルフレッドに歩み寄るエリザベートの顔が憤怒に歪んでいる。アルフレッドはリーリエを庇うように前に進み出ると、怯まずに続けた。
「あなたの個人的な感情や、過去の出来事は彼女には関係がありません。それでもなお、彼女への非礼を続けるのであれば――」
「あんな落書きで壁を飾ること自体が、間違ってるのよ!」
エリザベートのヒステリックな声が響き渡る。その声に人々のなかから、批判の声が上がり始めた。
「いい加減にしろ!」
「あの絵を見ても何も感じねぇのか!? てめぇの目は節穴か!?」
「芸術に対する認識を変えるべきは、我々の方だ!」
一般市民と貴族の両方の民衆から上がる意見に、エリザベートは顔を真っ赤にして醜く唇を歪めた。
「あんなものは、落書きよ。私は、私は認めませんよ! あんなものは、やっぱり塗りつぶしてしまうべきなのよ!」
「……民の反応をご覧になっても、なおそのような言葉を使うのですね」
エリザベートの悲鳴のような声に、アルフレッドが低く悲しげな声を発した。
「リーリエ、本当に済まなかった……」
呟くようにリーリエに謝罪の言葉を告げたアルフレッドは、母親に向き直り、忌むような視線を向けた。
「たった今、私の中の疑惑は確信に変わりました。……一連の『黒塗り事件』を起こしていたのは母上、あなただったのですね」
「な、なにを根拠に!? 息子といえども、その失言は聞き逃せませんよ!」
「リーリエのドレスです」
毅然としたアルフレッドの言葉に、その場は水を打ったように静まり返った。
「……ドレス……」
貴族街の方から誰かの呟きが上がる。その声は次々と伝播し、ざわめきに変わっていく。人々の疑惑の視線が、エリザベートに向けられていた。
「あのドレスも黒く塗られていた。全てはあの時から始まっていたのです」
「ほほほ……。そんな空想で実の母を侮辱するなど、なんて愚かしいこと。私がそんなことをするはずがないでしょう!?」
金切り声を上げながら、エリザベートが反論する。だが、アルフレッドの考えは揺るがなかった。
「ええ、そうですね。実行したのは、母上……あなたではないでしょうが――」
「そこまでだ、アルフレッド」
『黒塗り事件』を巡る二人の発言を止めたのは、公爵クロード・リヒテンブルグの鋭い一言だった。
「父上!」
「実の息子とはいえ、もう我慢出来ませんわ。あなた、どうか――」
「黙っていなさい」
威厳を持って二人を制した公爵が悲しげに目を伏せる。それから改まったように顔を上げ、リーリエを見つめた。
「リーリエ」
「…………」
婚約発表を兼ねた舞踏会。あの日に最後に向けられた視線とは違う、悲しげな視線がリーリエを真っ直ぐに見つめている。リーリエが無言で頷き、呼びかけに応じると、公爵は困ったように眉を下げ、歪な微笑みを浮かべた。
「やっと私も、目が覚めたようだ。妻、エリザベートの度重なる非礼、どうか許してほしい」
「あ、あなた……なにを……?」
戸惑いの声を上げるエリザベートの元に、警察官らが近づく。その後方に警察官に拘束されたアンナと美術大学の仲間の姿が現れると、エリザベートの表情は瞬く間に青ざめた。
「お義母さま、ごめんなさい。私、私……」
「ち、違うわ。私じゃない。私は関係ない!」
「調べは、もうついている。とても残念だ」
公爵が背を向けると、それを合図に警察官がエリザベートを取り囲んだ。
「あ……あ……」
前後左右を警察官に取り囲まれ、エリザベートが拘束される。悪事の全てを暴かれたエリザベートは、ヒステリックな声を上げることさえ出来ずに項垂れ、連行されていった。





