39 公爵家からの依頼
アーカンシェル国立美術大学によって、注文された秀作としてリーリエの絵は、特注のキャンバスに合わせて新たに作られた白い壁のオブジェとともに飾られていた。
建物の二階の半分ほどの高さに相当するオブジェには、遠目からもわかる鮮やかな色彩が施されている。リーリエの絵に感化された美大生らが、街の壁をイメージした壁のオブジェを、それぞれの完成で彩った結果だ。
だが、一階の天井ほどの高さのキャンバス――リーリエが、かつて『アーカンシェルの女神』というテーマに従って描いたその絵は、無残にも真っ黒に塗り潰されていた。
「酷いね。最悪じゃん……」
「でも、ここは一応他の人も描いていいって……」
壁のオブジェと一体となっている姿からも、その目的は想像できる。塗りつぶしを免れたキャンバスの端々は、壁に描かれたモチーフや色彩などと見事な調和を示していたはずだった。
もちろん、アートの『上書き』自体は、リーリエも許容している。そうして生まれる調和の方を大学側は意図していたことを知っていたからだ。
「だから、これも――」
「違うよ」
だが、不穏に黒く塗りつぶした絵を前に、気丈に紡いだ言葉は、アスカによって鋭く遮られた。
「共作じゃなければ、上書きでもないよ。だって、リーリエの絵を活かせてない。こんな黒塗りにするのは……」
アスカはそこまで言い、頬を擦りながら困惑に顔を歪めている。その後ろに控えていたエドガーが前に進み出て、険しい顔で黒い塗料を睨み付けた。
「まるで侮辱だな」
冷たい声で言い、エドガーが苛立ったように壁に手を当てる。塗料が既に乾いていることを目視で確認したリーリエは、少し下がり、エドガーの隣に並んだ。
「一体誰が……」
呟く声から、エドガーの苛立った様子が伝わってくる。リーリエはエドガーの横顔を見つめて、努めて明るい声を出した。
「また上から描けるわ。すぐには無理だけど」
「……怒っていいよ、リーリエ」
アスカの声は泣き出しそうに震えている。自分の代わりに内心では激しく怒っているであろう親友の発言に、リーリエは苦笑して頭を振った。
「私は大丈夫。もう、自分を見失ったりしないから」
絵を描いているときのように軽やかに身体を動かし、黒塗りの絵に背を向ける。犯人の目的がなんであれ、その人物を最も喜ばせるのが、再び絵が描けなくなることだろう。だとすれば、自分は何事もなかったかのように絵を描き続けるしかない。
幸か不幸か、アルフレッドとの婚約披露のあの場で受けた仕打ちが、経験としてリーリエを奮い立たせていた。
「……お前がそう言うなら、大丈夫なんだろうな」
「うん。こういう時こそ、発想の転換じゃないかな。バニッシュペインターの宣伝にもなるかも」
「ははは、そりゃいいな。あれなら一発で消せる」
どうにか自分を納得させようと、顔を歪めたまま複雑に笑うエドガーに頷いて見せ、リーリエは再び塗りつぶされた絵に向き直った。
思いつきだったが、バニッシュペインターなら、この色を全て消せる。悪くないアイディアだ。
「……はぁ。そんなことより、いい報せだけ持って行きたかったぜ」
エドガーも壁の絵に向き直ると、頭の後ろを乱雑に掻きながら呟いた。
「いい報せって?」
「これだよ」
エドガーが差し出したのは、蜜蝋で封がされた、公爵家からの書簡だ。
「なんて書いてあるの?」
「聞いて驚け。人々の注目の高さ、商業区域への貢献と栄誉に敬意を示し、街の大事な『壁』へのアートを依頼する、ときたぜ」
エドガーによると、その壁は街の入り口付近、貴族街と一般市民街の境界に当たる部分が指定されている。
その依頼にリーリエは、アルフレッドの言葉を不意に思い出した。
『父上も私も、君と君の御父上が商業区域に新たな息吹を吹き込んだことに注目しているんだ。それに、私と君との出逢いは、そうした誤解を解く切っ掛けになるんじゃないかと――』
アルフレッドのあの言葉と、先日の謝罪の言葉は本物だったのだ。
「……公爵家からの、正式な依頼だ。選択肢はこっちにある。……どうする?」
「やるわ」
今度こそ、アルフレッドの期待に応えたい。元婚約者という立場ではなく、彼とその父である公爵が自分と亡き父にかけていた期待を感じ、リーリエは大きく首を縦に振った。
美術展で自分の絵を知った人の心に、自分らしい表現を届けたい。なにより、亡き父の愛したアーカンシェルを、芸術都市としてもっと発展させていきたい――。公爵家の依頼で描く壁の絵は、その先駆けになるはずだ。
「大丈夫なのか?」
「……不安がないわけじゃないわ。でも、やりたいの」
「それなら、やろうよ! やり遂げて見せよう!」
リーリエの意志を尊重して、アスカが力強く声を上げる。その視線を受け、エドガーは改めて決意したように頷いた。
「そうだな。俺がお前を守ってやる。リーリエ、お前の絵はこの街の意志であり、誇りだ」
「エドガー……」
エドガーの真摯な視線と言葉に、胸に熱いものが込み上げてくる。黒塗りにされた絵を目の前にしていても、強い不安はもう感じなかった。
「俺を信じろ」
もう、一人ではない。自分には頼りになる幼なじみがいるのだ。





