32 痛む傷
出展を決めたリーリエへの、エドガーのパトロンとしての仕事は早かった。
リーリエの答えを確信していたかのように、手続きは迅速に進められ、一般市民街は、『アーカンシェルの女神』の美術展への出展を受けて大いに盛り上がった。
美術展に出展する絵を描くことは、普段は看板等の塗装という依頼されたものがメインのリーリエにとっても新鮮だった。何にも縛られずに、自分の絵を描くという機会を得たリーリエは、次々と浮かび上がるビジョンに胸をときめかせ、塗装の仕事にも一層励んだ。
仕事の合間に車庫兼アトリエの屋根に従機の腕を伸ばし、バンクシー・ペイントサービスの屋根の色も新しく塗り替えた。アルフレッドを助ける際に屋根に跳躍したフェイド・ファミリーズがつけた足跡を消したリーリエは、一息吐いて愛機の操縦席に凭れながら空を仰いだ。
夏へと向かう眩い日差しが、雲の隙間から天使の梯子のように伸びている。青く澄んだ空に浮かぶ白い雲をぼんやりと数えながら、美術展で描く絵に想いを馳せていると、街頭映像盤が不意に点灯し、臨時ニュースを知らせた。
画面に大写しにされたのは、公爵家の令息アルフレッドだった。
「……アルフレッド……」
元婚約者の顔を画面越しに目の当たりにしたリーリエは、その顔に重なるように並べられた文字に目を瞠った。
「婚約……」
臨時ニュースは、アルフレッドの新たな婚約を発表している。決定ということではなく、内定という曖昧な表現ではあったが、その報せに街角の人々も歩を止め、ざわざわと驚きの声を上げた。
アルフレッドと並んで街頭映写盤に映し出されたのは、許嫁のアンナだった。ニュースは婚約内定の一報から、アーカンシェル国立美術館で行われる美術展の話題へと写っていく。美術大学の学生らのコメントがいくつか紹介されたあと、画面には再びアンナが映し出され、アルフレッドに捧げる愛の絵を描くという意気込みが流された。
「…………」
目を逸らしたいはずなのに、瞬きすらすることが出来ない。リーリエは無意識に胸を押さえ、喘ぐように大きく息を吐いた。
もう吹っ切れたと思っていたが、あの辛い出来事がありありと蘇ってくる。自分を苦しめるあの冷たい視線の数々が、どこからか向けられているような気がして、リーリエは頭を振り、記憶を振り払おうと努めた。
――俺を信じろ。
苦しみに顔を歪めるリーリエの耳に、エドガーの声が甦る。
「俺を信じろ……」
リーリエは、脳裏にエドガーの姿を思い浮かべ、彼の言葉を声に出して反芻した。
「落書きなんかじゃない……」
続いて、アスカの言葉が蘇る。その通りだと、リーリエは深く頷いた。
アルフレッドとの婚約発表の場で、あんなことがあって、スプレーアートの評価も貴族の間では更に悪くなった。だが、それこそがあの嫌がらせをしていた人物の狙いなのだ。
「嫌がらせになんて屈している場合じゃない……」
自分を奮い立たせるように呟いたが、声は震えていた。一人で立ち向かえるほど、まだ強くはないのだ。
それを痛感したリーリエは、操縦席から立ち上がり、アーカンシェルの街をゆっくりと見回して目を閉じた。
高速道路を行き交う蒸気車両のエンジン音、街の喧騒、川のせせらぎ、木々のざわめき。
沢山の音に交じり、エドガーの愛車のエンジン音が聞こえたような気がする。
「……エドガー?」
まさかね、と思いながら目を開けたリーリエは、通りの向こうにエドガーの姿を見つけて思わず息を呑んだ。
「リーリエ!」
愛車を停めたエドガーが駆け寄ってくる姿が見える。
「エドガー!」
リーリエも従機から飛び降り、エドガーに抱きついた。
「エドガー……」
その存在を確かめるように、広い背中に手を回す。日の光を浴びたライダースジャケットの革の匂いと、エドガーから感じる温かな太陽のような匂いがリーリエの鼻先をくすぐった。
先ほどまであれほど心細かったはずなのに、抱きしめられると不思議と落ち着く。リーリエが目を閉じ、安堵の息を漏らしていると、エドガーの身体が笑いを堪えているように少し揺れた。
「……いつになく熱烈な歓迎だな」
苦笑混じりに呟きながら、エドガーが頭を撫でる。
「タイミングが良すぎるわ」
「狙ったんだ」
反論しようと顔を上げたリーリエの目を覗き込み、エドガーが軽口を叩くように言った。
「すぐにとは言わない。けど、あんなヤツのことは忘れようぜ」
街頭映像盤のニュースを見て、駆けつけてくれたらしいことに気づき、リーリエは困惑に目を伏せた。
「……そうしたいって思ってるのに……」
婚約破棄という結果にはなったが、初めて愛した人だ。頭では理解していても、どうしても心が追いつかない。もどかしさに顔を歪めて呟くと、エドガーの手がリーリエの顎に添えられた。
「俺を見ろ」
エドガーがリーリエの顎に添えた手に力を入れ、強引に上向かせる。強制的に見つめ合うかたちにされたリーリエは、目を瞬いてエドガーを見上げた。
「見るだけじゃ足りないか?」
囁くような切なく優しい声がエドガーの唇を震わせる。その唇がリーリエに迫り、上唇を掠めるように触れた。
「あ……」
思わず目を瞠ったリーリエは、エドガーの胸に強く引き寄せられ、抱き締められた。
「俺が忘れさせてやる」
エドガーの心臓が早鐘のように打っているのに気づいたリーリエは、彼の背に手を回し、見た目よりも厚い胸板にぴったりと耳をつけた。
「うん……」
エドガーと同じように、自分の胸もドキドキと脈打っている。微かに触れただけの口付けの感覚が、唇にちいさな熱をもたらしていた。
「エドガー……」
「ここにいる。俺は、離れたりしない」
呟きに応えるようにエドガーが腕に力を込める。苦しかった胸の中にある黒い靄がほどけるような感覚に、リーリエの頬を温かな涙が伝っていった。





