19 輝きの喪失
アスカを大学に送ったリーリエは、自宅に戻り自室のベッドに潜り込んだ。
閉ざしたままのカーテンから、外の光が薄く差し込んでいるのに背を向けて瞼を伏せると、微睡みがゆっくりとリーリエの意識を包んでいった。
「リーリエ!」
深い眠りに落ちていたリーリエを呼び覚ましたのは、アスカの明るい声だった。
外から響いたその声にリーリエが窓辺に寄ると、鮮やかな虹色の三輪蒸気車両が倉庫の前に停まっているのが見えた。蒸気車両の荷台には、大きなキャンバスがくくりつけられている。アスカはリーリエの姿を確認すると、助手席から飛び降りて、荷台のキャンバスの紐を外し始めた。
「それ、どうしたの?」
「大学の自由課題。せっかくだから、共作にしようと思って」
窓辺から身を乗り出すように問いかけたリーリエを、アスカがにこやかに見上げる。
「こういう時は、ぱーっと発散しよう!」
そう言いながら両手を大きく広げたアスカは、身振り手振りでキャンバスの大きさを描くようにリーリエに主張してみせる。
「そっちに行くわね」
リーリエも頷き、倉庫に降りると、内側から鎧戸を開いた。
アスカの同級生の手を借りて、背丈ほどの高さのキャンバスが倉庫のアトリエの中に運び込まれる。イーゼルに収まりきらない巨大なキャンバスは壁に立てかけられ、さながら真新しい壁のようにその場に収まった。
アスカとの共作は、いつ振りだろう。何を描こうか考えながら、リーリエは塗料の並ぶ棚の前に立った。色やビジョンは浮かばないが、身体は絵を描く感覚を取り戻している。
「よし」
自分自身に言い聞かせるように呟いたリーリエは、商売道具のエアブラシを用意して、真っ白なキャンバスに向き合う。アスカもリーリエに倣い、塗料の入ったスプレー缶を手に取った。
「じゃあ、何書こっか」
スプレー缶を振りながら、アスカが問いかける。リーリエはキャンバスを眺めてから目を閉じ、絵のイメージを瞼の裏に描いた。
「……あれ……?」
だが、なにも見えなかった。
気のせいだと思い込もうとしていた違和感が、不安の種となって芽吹き始める。ぱちぱちと瞬きをし、もう一度自分の描こうとしているものを探ったが、結果は変わらなかった。
瞼の裏には真っ黒な闇が広がるだけで、煌めくような光のビジョンは何一つ見えて来ない。
数え切れないほどの鮮やかな色で溢れていたリーリエの世界は、目を開くとまるで灰を被ったような鈍色に濁って見えた。
「あ……」
キャンバスに重なっていた自分の絵のビジョンが、見えなくなっている。
その不穏な感覚に、リーリエは父を亡くしたばかりの頃、暗い色彩を選びがちだった自分を思い出した。その時の感覚に少し似ている気がしたが、何かが決定的に違っていた。
「リーリエ?」
不安げに問いかけるアスカの声に、リーリエは冷たい汗が背を伝って行くのを感じた。父を亡くした時よりも、今の状態は、もっと酷い。それが直感で伝わってきた。
「…………」
エアブラシを手に、キャンバスの前に歩み寄ってみる。そこにはただ白い布地があるだけで、やはり何も浮かんでは来なかった。
輝き――。
微かな火花を散らすように煌めき、浮かんでは沈みながらリーリエの心を捉えて離さないあの輝きが全く見えなくなってしまっていた。
あのビジョンが見えなければ、絵は描けない。父を失った時でさえ、ビジョンが見えなくなることなどあり得なかった。頼りないながらも、リーリエのなかに輝きはあり続けていた。けれど、今は――
「リーリエ? どうしたの?」
「アスカ、ごめん……」
リーリエは俯き、エアブラシを胸に抱くようにして握りしめた。
絵を描くことが自分の表現の場であり、感情表現の手段でもある。その絵が描けない自分というものに、リーリエは激しい動揺を浮かべてアスカを見つめた。
「私、なにを描けばいいのかわからなくなっちゃった」
困ったと眉を下げたつもりが、大粒の涙が零れ始める。どうにか笑おうと努めたが、上手く行かなかった。
「…………」
リーリエの悲痛な告白を受けたアスカは、黙ってリーリエを抱きしめる。その腕の中で、リーリエは声を上げて泣いた。





