12 おかしな心音
「綺麗な空気の中で飲む紅茶はこんなに美味いのだな」
バルトロメウスがエーレンフリートと同じ感想を述べたので、アリシアはここぞとばかりに、紅茶の隣にそっと焼き菓子を出した。おやつの時間に出された物を棚の中に保管していたのだ。
バルトロメウスは「ああ」と素っ気なく手を振った。
「菓子はいい。俺は甘い物を食べないから」
「でもこれ、すっっごく美味しいので、是非!」
バルトロメウスは興味の無さそうな顔でアリシアを見上げたが、あまりに爛々とした顔がそこにあったので、少し仰け反った。
「だって、バルトロメウス様は丸一日お食事をされてないないですよね? お腹がすいてしまいます!」
「腹は減ってないんだが……」
バルトロメウスは小声で返事をしつつも、押されるように焼き菓子を手に取った。眉を顰めて観察した後、男性にしては、かなり小さく齧った。
予想通り。バルトロメウスは一瞬思考を停止した後に、菓子をゆっくり味わって、呟いた。
「美味い……何だこれは?」
「はいっ! アーモンドとバターが香る、フィナンシェで御座います!」
アリシアはまるで自分が作ったかのごとく、勢い良く自慢した。
「美味しいですよね!? 私もこんなに美味しいお菓子を食べたのは初めてで、感動したんです! 宮廷にはすんごいおやつがあるんだなって……」
感動を共有しようと饒舌になるアリシアの右手を、バルトロメウスはそっと支えた。あの倉庫で強く握った手首と違って、優しい手つきだった。アリシアは心臓がドクン! と跳ねて、緊張で絶句した。
「この手はどうしたんだ?」
「え? あ、ああ、あの、染料で黒く染まってしまって……あ、でも、だんだん薄くなってきたので」
「いや、この怪我は?」
アリシアの両手は真っ黒に染まっていているが、よく見るとあちこちが酷く擦り切れていた。あの大量の洗濯物を押し付けられた日に痛めつけた傷だ。
「それはその、洗濯のしすぎですね……」
バルトロメウスはアリシアの手を離すと、紅茶を飲んだ。
「明日、ベルに治癒してもらうといい」
「あ、は、はいっ」
バルトロメウスは焼き菓子と紅茶を堪能しながら綺麗に召し上がって、席を立った。
「水を飲みに来ただけだったんだが……もう一眠りする」
「は、はい! 私もお休みさせて頂きます」
バルトロメウスはドアに向かい、背を向けたまま行ってしまうかと思ったが、振り返った。
「おやすみ。アリシア」
「お、おやすみなさいませ!!」
宙色の瞳が視線の余韻を残して、バルトロメウスは去った。
ドアが閉まってシンとしたリビングで、アリシアの心臓の音だけが大きく響いていた。
アリシアは夢遊病のようにふらふらと茶器を片付け、ホウキを持って自室に戻ったが、鼓動は平常に戻ってくれなかった。
これといって重大な会話をしたわけではないのに、バルトロメウスの目線や声や仕草が、どれもアリシアを支配するように印象に深く刻まれていた。
アリシアは自分の興奮を否定するように、ベッドの中で強がった。
「ふ、ふうん。あれが宮廷魔術師……ラスボスの迫力ってヤツね」
おかしな心音に耳を澄ませながら、アリシアは眠れぬ夜を過ごした。
♢ ♢ ♢
「……シア~……アリシア~」
拙く可愛らしい声が遠くから聞こえて、アリシアはにやけた。
「むふふ……ベルく~ん……ッハ!?」
アリシアは夢心地のベッドから飛び起きた。
時計はとっくに、起床時間を過ぎていた。
「ひっ、寝坊した!!」
アリシアは昨夜のバルトロメウスの件で明け方まで眠れず、メイドにあるまじき寝坊をしでかしていた。
そのままベッドを飛び降りて慌ててドアを開けると、びっくりした顔のベルと、それを抱えようとしていたエーレンフリートがギョッとした顔でアリシアを見上げていた。
アリシアはすぐに、自分がパジャマワンピースの姿であるのと、頭が寝起きのまま爆発しているのに気付いて、速攻でドアを閉めた。
「ごごごごめんなさい! 私、寝坊しちゃって!」
「いえ、お気になさらないでください」
ドアの向こうで冷静なエーレンフリートの声が返ってきて、アリシアは自分の顔を手で覆った。昨晩、半裸で登場したバルトロメウスと同じ事をやらかしていた。いや半裸よりマシだろうと自分を慰めながら、アリシアは急いで着替えて、髪を整えた。
「お待たせしました!」
ホウキを持ってメイド服姿で登場したアリシアを、ベルが熱烈に迎えた。
「アリシアがきた!」
「ベル君、お待たせしてごめんね」
リビングを見回すと、ディアナを始め王宮のメイド達が数人立ち入って、室内を掃除していた。アリシアはディアナに駆け寄った。
「私もお手伝いします!」
「通常の清掃は私達の仕事ですので、アリシアさんはごゆっくりしていてください」
「いやいや、ごゆっくりだなんて……」
「今朝方、会議にお出かけになるバルトロメウス様から、アリシアさんが特別なお掃除に集中できるよう、他の仕事を負担させないようにとご指示を頂きました」
アリシアは出勤するバルトロメウスを見送れなかった上に、擦り切れた手の配慮までしてもらったとわかり、恐縮した。
テキパキと掃除をしているメイド達の邪魔にならないよう、アリシアはベルを連れて、バルコニーから庭のテラスに出た。
その瞬間に、ドン! と爆発音がしたので、アリシアは飛び上がった。
「何!? 爆発!?」
すわ、魔物の襲撃かと身を屈めたが、空には魔術で構築した防御壁があるので、そんなワケは無かった。
視界の先には、エーレンフリートの背中が遠くにあった。
手にはあの大きな魔法の杖を持っていて、さらにその先には、いろんな高さの的が設置されていた。
一瞬、エーレンフリートの構える杖に円形の光が見えたかと思った瞬間に、ドン! と再び爆発音が鳴った。次いで、遥か遠くの的が砕け散っていた。
「うわあ、凄い……あんな遠くの的を!」
目を見開いて爆撃の訓練を傍観するアリシアを、ベルは見上げた。
「エレンはすごいんだよ。がっこうでいちばんなの」
「学校?」
「いちばんだから、ここにきたんだって」
「通ってた学校から、ここに弟子入りしたって事かな?」
「うん。ひみつのがっこうだよ」
ベルが小声で教えてくれたので、アリシアは「うんうん」と頷いたが、実のところ、まったく意味がわからなかった。
爆撃の訓練を終えたエーレンフリートが戻って来たので、アリシアは
「秘密の学校」について聞いてみた。
「バルトロメウス様が運営している魔術学校です。秘密というか、公にされていないだけで……魔力に秀でた子供が集められて、魔術を学んでいます」
「エーレンフリート様は一番だって、ベル君が」
「ええ。まあ。学業の成績に優れ、魔術の精度が認められると、バルトロメウス様の弟子として魔法宮に入るのを許されます」
エーレンフリートは自慢もせずに、さらっと説明した。
「す、凄いんだねえ……」
「ね~」とベルも頷いた。就学前にここにいるベルもかなり凄いのだが、ベル本人はよくわかっていないようだ。
アリシアは徐々に明かされる魔法宮の実態と、バルトロメウスと弟子達の凄みに驚かされるばかりだった。




