ケーニヒグレーツの戦い/戦場の弔砲
墺予備騎兵たちが数倍の敵に立ち向かっていたのと同じ頃。
普軍と墺軍後衛との戦いも短いながら激しいものとなっていました。
墺第1軍団の潰走を追ったのは、普第1師団(グロースマン中将)の前衛部隊である第1旅団(指揮官ヨハン・メイナード・アウグスト・ヴィルヘルム・アドルフ・フォン・パーペ少将。名前がそっくりでややこしいのですが、近1師のアレクサンダー・アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・パーペ旅団長大佐とは別人です!)と近1師ケッセル大佐旅団とクナッペ大佐旅団の一部部隊でした。
これらの部隊はロズベリックで墺ポシャッハー旅団の残留兵と一時激しい銃撃戦を演じますが、普11師団ホフマン少将の第22旅団がウェセスタルの北、ホリク=ケーニヒグレーツ街道まで突進しその退路が絶たれると、墺軍兵士は最早これまで、と投降し捕虜となりました。
ロズベリックの南には墺第1軍団の砲兵も軍団の後退を援護し最後まで残っていましたが、普ホフマン旅団と普第1旅団の急進により逃げ遅れ、ドライゼ銃の一斉射撃で大損害を受けると大砲を遺棄し、辛うじて逃走しました。
その南東1キロ、ウェセスタルでは墺第3軍団諸旅団の後衛たちが混在して守備に付き、自軍団や第1、第6軍団の後退を援護していましたが、ホフマン旅団は北西から南東におよそ1キロの細長い村の北端に取り付き部落を縦断しこれを粉砕しました。
ほぼ同じ頃にカール・フォン・ハンネンフェルト少将率いる普第21旅団もウェセスタルの東1キロにあるシュウェティ部落に突入、潰走した第4軍団の後衛、ヨーゼフ大公旅団の二個大隊と戦います。この後衛は僅かな抵抗の後、部落から撤退して行きました。
このウェセスタルとシュウェティ間の高地には、敵が指呼の間に迫るまで残っていた砲兵部隊もいました。
墺北軍総予備の進撃と後退の間、効果的な支援砲撃を加えていた第6軍団の砲兵隊は、普11師団が迫るとほとんどが高地を降り、ケーニヒグレーツ郊外へ後退していましたが、未だに予備砲兵中隊一個が残り、またクルム東高地の砲台から後退して来た墺北軍直轄砲兵の二個大隊もここで踏み留まっていました。
ここにウェセスタルからはホフマン旅団が、シュウェティからハンネンフェルト旅団が挟み撃ちの形で同時に襲撃し砲列に乱入、砲兵隊の多くは砲や馬、弾薬車を遺棄し命辛々退却しますが、その多くは捕虜となってしまったのです。
墺軍予備騎兵がストレセティクとランゲンホーフから退却した後、普軍に対する歩兵部隊は第1軍団の後衛、アベル旅団のみとなりました。
この旅団は第1軍団後退後も墺軍全体の後衛としてウェセスタルの西に残り、墺軍の撤退で目標がなくなった普軍砲兵から盛んに砲撃を浴びてしまいます。多くの兵をこの砲撃で失うものの、最後まで踏みとどまった旅団は、普11師団の二個旅団がウェセスタルに近付くことで退路を塞がれそうになってから、秩序を保ちつつ後退を始めます。
アベル旅団がロスニック郊外に達した頃、遂にウェセスタルは陥落します。これで普軍はケーニヒグレーツの北西側入り口を窺う形となりました。アベル旅団は包囲される前に猟兵大隊を後衛にして、更にケーニヒグレーツへと後退して行くのでした。
墺軍予備騎兵が後退すると、普軍の各部隊もこれを追って前進を再開します。
ロズベリックには近衛軍団と第1軍団砲兵、それに第7師団の数少なくなった歩兵部隊が前進し、その砲兵隊はクルムの東高地の墺軍工兵隊が築いた砲台やその周辺に砲列を敷き、南への砲撃を再開しました。
第1軍団(第1、第2師団)はロズベリックを通り過ぎて南下、ブリザの森を目指し進軍を続けます。また、第5軍団は遂に戦場に現れてマスロウェードに到着、そのままロズベリック方面へ進みました。
第6軍団の第12師団は尚も支隊がロヘニックを保持し、本隊はネデリストを通過してシュウェティに向かいます。
近衛軍団はロズベリック周辺で隊を整えた後、ランゲンホーフへ進出し、第1軍団の後に続きます。
このケーニヒグレーツの戦い終盤、墺軍歩兵がほとんど戦場から撤退した午後5時以降も戦場に残っていた墺軍部隊がありました。
墺北軍の最後尾となり、戦場の東と西で味方の撤退を援護したのは軽騎兵の二個師団と予備騎兵の一個師団でした。
カール・ザイツェク・フォン・エグベル少将指揮の墺予備騎兵第2師団は午後3時過ぎまで一切の命令がなく、あの同僚の二個師団(予備騎兵第1、第3)が血を流したストレセティクやランゲンホーフ南での騎兵戦の最中も忘れ去られたかのようにブリザ部落の南で待機を続けていました。
彼らは4時過ぎ、朔軍と第8軍団が目前を退却するのを追って来た普エルベ軍の前衛に対し砲兵部隊が砲撃することで戦闘に参加します。
敵エルベ軍はこれに対し第16師団のシュラー・フォン・ゼンデン大佐のヒュージリア(銃兵)旅団が前進してシャルブシックの西高地に進出、ブリザ森から南西、プリム森の東縁にかけてを占拠すると砲兵部隊が前進して、墺軍予備騎兵に対し砲撃を開始しました。
ここでしばらくの間、激しい砲撃戦となりますが、エルベ軍の歩兵たちがブリザ森より出て南下を始めると、ザイツェク将軍も騎兵に戦闘陣形を取らせ、迎え撃つ姿勢を見せました。
しかし、ここで後述する理由から普軍は前進を止めて騎兵と対陣する形となり、このにらみ合いは午後7時まで続きます。
雨は止み曇天の空にうっすらと太陽も見えましたが時は既に夕暮れ時、夜戦は不利となる騎兵部隊は徐々に後退を始め、墺予備騎兵最後の部隊もこうしてケーニヒグレーツ郊外へと退いたのでした。
積極果敢な根っからの驃騎兵将軍、エデルスハイム少将に率いられた軽騎兵第1師団もまた、最後まで戦場に残った部隊でした。
せっかく敵エルベ軍の右翼側に回り込めそうだったのに転回し、東で苦戦する第2、3、4の各軍団を援助せよと命じられたエデルスハイム将軍と麾下の騎兵たちは、ステゼル(スチェジェリ)まで引き返してみれば既に全軍が退却を始めてしまったのを知り愕然となりました。
エデルスハイム将軍はこれを知るや命令を無視、直ちに進撃を止め、オリヴァー・グラーフ・ワリース大佐の旅団をクラコーへ進めて予備騎兵第2師団の左翼と連絡させ、イグナス・フォン・フラトリックセヴィックス少将の旅団をステゼル南郊外へ北西向きに展開させ、敵エルベ軍や北方から進撃してくるはずの普第一軍、第二軍を待ち受けたのです。
師団の残り、ヨハン・フォン・アッペル大佐の旅団は別命を受けてオーベル・プリム方面へ前進し、砲兵部隊を前線に展開、ちょうど友軍予備騎兵へ砲撃を始めた敵16師団に対し対抗砲撃を加えます。
この間、エデルスハイム将軍に指揮が預けられたままの朔軍第2騎兵旅団は師団予備としてステゼル郊外に留まりました。
アッペル
この時、アッペル大佐の砲撃は、ちょうど敵の砲列の側面を突く格好となり、また、大佐の砲兵隊は敵より高度が高い場所に構えたため、普軍砲兵はなかなか対抗することが出来ず、その大砲は沈黙がちとなってしまいます。うるさい砲撃にたまらず後退する砲兵部隊もあり、これによって敵エルベ軍は一時進撃を止めざるを得なくなりました。
普16師団のゼンデン旅団も手を拱いてばかりいた訳でなく、その歩兵をアッペル旅団砲兵に向かわせますが、アッペル大佐も目ざとくこれを発見すると驃騎兵を突進させて敵の歩兵を蹴散らしたのでした。
こうして一時間ばかり敵を拘束したエデルスハイム師団でしたが、普軍は次第に部隊を集結させ、また砲兵も応援を得て次第に増えて行き、アッペル旅団砲兵も圧倒されて行きました。
同じ頃、ステゼル部落の南で北西側からやって来る普軍に対抗して戦っていたフラトリックセヴィックス旅団も押され始めたため、エデルスハイム少将は最早これまでと撤退を決意し、命令を発します。
アッペル旅団もフラトリックセヴィックス旅団も実に反応が早く、冷静かつ素早く持ち場を離れると秩序を維持したまま見事に敵前を去りました。
ワリース旅団と朔軍の第2騎兵旅団もこの後を追い、6時過ぎにはエデルスハイム将軍はプラスカカ(プラスカチカ)を目標に戦場を後にしたのです。
同じ頃、ネデリストの南でも墺軽騎兵第2師団が退却に移りました。彼らは普第12師団の後衛と対峙し、戦場に取り残された第2軍団の落伍兵が必死で退却して行くのを最後まで見守っていたのでした。
最後の兵士がエルベ河畔へと向かうと、師団長のエメリッヒ・ツーン・ウント・タキシス少将はようやく撤退を命じたのでした。
ツーン・ウント・タキシス
こうして後衛も戦場を去り、墺軍は自らこの大会戦の幕を引いたのです。
普軍の占領地に残されたのは多くの負傷兵や馬、馬車、大砲で、街道といい田舎道といい、その路端や泥濘でぬかった田園には無惨な人馬の遺体や放置された車両が点々と見えていました。
しかし、普軍も昨日深夜から続く行軍と戦闘で疲れ果て、墺軍後衛の頑張りもあってモルトケが目指した最終段階、「墺軍の包囲殲滅」など到底不可能でした。
普11師団はウェセスタルを占領すると、最後まで墺第2予備騎兵師団のいたブリザとロスニックに向かい、これを占領します。
また、エルベ軍の16師団はブリザ森から南下してシャルブシック(ハルブジツェ)を占領しました。
彼らはこの夜、これ以上は南下することなく、この最前線で野営の準備を始めたのです。
この急速に暗くなって来た戦場で、尚も抵抗を試みる取り残され孤立した墺軍兵士や大砲があり、戦いは勝敗が決したとは言え、深夜まで散発的に銃声や砲声がこだまするのでした。
それはまるで戦場に鳴り響く弔砲のようでした。
ケーニヒグレーツ 砲兵陣地の跡(画 Rudolf Otto Ottenfeld)




