第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争/ダネヴェルク防衛線
1864年戦争総図(ドイツ語)
☆ ミスズンデの戦い(1864年2月2日)
戦争が始まる半月前の1864年1月中旬。D野戦軍を任されたクリスチャン・デ・メザ将軍はダネヴェルク堡塁群を至急実戦態勢に持って行くよう命じ、動員なった全軍の半数以上をこの地に張り付け防御を高めます。
中世からドイツ人の侵入を防いで来たダネヴェルクの堡塁群は国土防衛の第二陣となるデュッペル堡塁群と並んでデンマーク人が信頼する防衛第一線でしたが、当時は既に旧弊で象徴的な意味でしかない土塁と中間点に設けられた「肩墻」砲台だけの「長城」でした。
兵営は絵図の上に記されるだけで実際に存在せず、駐屯兵たちはユトランド半島の厳しい冬に耐えながら野営を強いられ、堡塁間を結ぶ連絡塹壕道も消えて久しくこの1月の急造工事でも間に合いませんでした。それは堡塁自体を護る野戦築城施設も同じで、工事途中で放置されたものが多くありました。
おっとり刀で動員され、多くが15年前の戦争を経験していない新兵たちはツルハシやシャベルで大地を掘り起こしますが、地面は堅く凍結し作業は捗りません。実際8キロ以上に延びたダネヴェルクの長城は例え1個師団・12,000名(当初は第3師団の3個旅団)が配置されていても掩蔽も少ない土塁沿いに薄く展開することしか出来ない防衛線だったのです。
ミスズンデの部落はシュレスヴィヒ市の東10キロ、シュライ・フィヨルドの南岸にあった20軒余りの漁村です。
この寒村はダネヴェルク堡塁群の防衛線東側にありますが、この場所はシュライ・フィヨルドの重要な渡渉点の一つで、フィヨルドはここで大きな湖状のシュライ「川」となり、北上する独軍が必ず狙うであろう軍事拠点でした。そのため、第一次SH戦争でも初期と最終期に戦闘が発生し最初は普軍が、二回目はD軍が勝利しています。
シュライ・フィヨルドと同河川はD軍にとって大切な自然の防塞で、それ自体がダネヴェルク防衛線の一部でしたが、加えてミスズンデはその両側にあるシュライの渡渉点・シュテックヴィヒ、リンダウニス、アルニス、カッペルンなどを護る拠点でもあり、D軍はこの防衛拠点を是が非でも護らねばならない立場にありました。
ミスズンデの堡塁
ミスズンデにはいくつもの独立した堡塁が設置されており、D軍はそこにシュアルフェンベルク大佐の第2旅団からC.A.ヴォークト少佐率いる第18連隊の4個中隊とハラード・クリスチャン・ヘルテル大尉率いる要塞砲兵第6中隊を派遣し、予備として2キロ北のブロダースビーに第3連隊の3個中隊を置き、独軍の接近を知らされたシュアルフェンベルク大佐はカッペルン(ミスズンデの北東20キロ)在の本隊から1個中隊を向かわせていました。また付近にはブロウ大尉率いる竜騎兵1個戦隊(第4竜騎兵連隊から。約100騎・中隊相当)が駐屯しています。
ミスズンデ防衛の堡塁群は部落の周辺に設置された半月堡からなっていました。
ダネヴェルク堡塁群と一連の番号で呼ばれていたこれら防衛施設で最も重要だったものは第59と第60号堡塁で、ミスズンデの南側、部落に至る街道(現在のミスズンダー通り)の両側にあり、残りの堡塁は部落から北へシュライ湾へ突き出す半島に3個(第61a、61b、61c号)、その先端・北岸への軍仮設橋「砲兵橋」の前にあった第62号、そしてシュライ湾北岸に並んだ6個(第63a、63b、63c、63d、63e、63f号)でした。
※ミスズンデの戦い当時の防衛施設
○第59号堡塁(ミスズンデ南西・街道沿い西側)
12ポンド前装滑腔青銅カノン砲x4門・24ポンド前装滑腔青銅榴弾砲x4門
○第60号堡塁(ミスズンデ南西・街道沿い東側)一番大きく重要な堡塁。
12ポンド前装滑腔青銅カノン砲x4門・24ポンド前装滑腔青銅榴弾砲x4門
○第61b号堡塁(ミスズンデ北の半島・シュライ南岸)
12ポンド前装滑腔青銅カノン砲x2門
○第61a号、第61c号堡塁(ミスズンデ北・シュライ南岸)
設置砲なし
○第62号堡塁(ミスズンデのシュライ対岸の半島先端部・シュライ南岸)
設置砲なし
○第63a号堡塁(ミスズンデ対岸・シュライ北岸沿い)
12ポンド前装滑腔青銅カノン砲x2門
○第63b号堡塁(ミスズンデ対岸・シュライ北岸沿い)
24ポンド前装滑腔青銅榴弾砲x2門
○第63c号~63f号堡塁(ミスズンデ対岸・シュライ北岸沿い)
設置砲なし
ミスズンデの戦い戦闘図(青が普軍)
対する普軍の野砲は主力が61年に正式化したばかりのクルップ社製後装鋼鉄製施条砲の6ポンド野砲で、装填速度と着弾の正確さ、そして射程では従来の前装滑腔砲より格段の差がありましたが、D軍は要塞にも設置されている12ポンドと24ポンド砲で、威力では普軍の野砲より相当勝っていました。また、普軍が遮蔽のない大地から砲撃するしかないのに比べ、D軍砲兵は周辺地理を良く知った上で、土で出来ているとはいえしっかりした遮蔽のある砲兵陣地から砲撃出来ました。
このように「にわか」とはいえ準備のなったD軍の要衝に対し、独軍司令官ヴランゲル元帥はカール親王率いる普軍本隊を何の捻りもなく正面から堂々向かわせており、元帥は墺軍と普近衛部隊がダネヴェルク堡塁群を攻撃している間にこの拠点を奪取してシュライを渡り、シュレスヴィヒ市を後方から叩いてあわよくばD軍本隊を挟撃しようと考えていたのです。
2月2日の早朝。前日にエッカーンフェルデをほぼ無血で占領したカール王子の軍勢は前進を再開し、先ずはコーゼル(ミスズンデの南西3キロ)を目指し、午前8時45分にはコッヘンドルフ(コーゼルの南3キロ)を落とします。
ここを無血で占領した普軍前衛部隊は、既に街道沿いからD軍が撤退しこの先しばらく敵が存在しないことを報告しました。
カール王子は機会を逸することなく前進を続けることを命じ、午前中にミスズンデに至るよう麾下に発破を掛けました。
普軍は3個旅団を先に、残り3個旅団は予備として前進を続け、午前9時30分過ぎ、先鋒の第24連隊フュージリア大隊*はミスズンデの南郊外に至り、ここで大隊長のカール・クリスチャン・ゲルダス・アルフレド・フォン・クローン少佐(ホルシュタインで生まれ育ちモルトケ同様デンマーク軍から普軍に移った人で第一次SH戦争でもSH軍士官として活躍していました)は前方の街道際に堡塁がありD軍が構えていることを望見するのでした。
※当時、普軍の野戦歩兵連隊は3個大隊制で第1、第2大隊はムスケーディア(マスケット銃)大隊と呼ばれる集団戦術の戦列歩兵大隊、「第3大隊」は先兵として散兵戦術を取ることが多いフュージリア(フリントロック式銃)大隊でした。
この時、クローン少佐は自身の大隊の他に第15連隊の第11,12中隊(フュージリア兵)と猟兵第7大隊の第2中隊、そして驃騎兵第3連隊の第3中隊を指揮する「前衛支隊」を率いていました。
普軍の先兵は午前10時、D軍前哨陣地から銃撃を受け、激しい銃撃戦が開始されます。これは短時間で数に勝る普軍前衛が圧倒し、陣地のD軍はミスズンデ部落へと後退しました。
クローン少佐はD軍が半月堡に重砲を構えているのを確認すると深追いせずその場で待機し、後方へ伝令を放って状況を報告させます。
正午頃、普軍の砲兵隊が前衛に追い付き、付近の丘陵に弧を描く様な砲列を敷きました。
この時点で普軍はクルップ6ポンド野砲4個中隊(24門)と前装青銅製の12ポンド砲4個中隊(24門)を展開し午後12時45分、ミスズンデと敵半月堡に対し砲撃を開始します。午後1時過ぎには2個と3分の2中隊・16門の砲兵(種別不詳)を率いて砲兵第3旅団長のルイス・コロミエ大佐が到着し、64門に膨れ上がった普軍の強力な砲陣は間断なく砲撃を続けました。
一方、D軍は20門の12ポンドと24ポンド砲(第59、60、61b号)が応戦しこの砲撃戦はかなり激しいものとなります。普軍側は最大で1門300発の榴弾を放ちますが、ミスズンデでは午後に入って霧が出て、更に間断なく激しい双方の砲撃による砲煙が付近一帯に濃く漂ったため、お互いの位置が判別出来ずに狙いは相手の砲炎を見て定めるという状態になります。
午後2時になるとD軍の砲撃が衰え始め、コロミエ大佐は中央に配した4個中隊の12ポンド砲兵に150から180mほど前進するよう命じます。これで普軍榴弾砲列はD軍の半月堡(第59と60号)からわずか600mしか離れていないことになり、D軍はこの砲列に砲撃を集中させたため普軍砲兵に死傷者が出始めました。
ミズズンデを砲撃する普軍
この間、普軍は歩兵も前進させ、D軍前哨がいた塹壕陣地を占拠するとここから部落と半月堡を銃撃し、特に土塁が低かった第60号堡塁ではドライゼ銃による死傷者が砲撃によるものより多く出ます。
一方のD軍ではミスズンデが攻撃されているとの急報を受けたD第3旅団本隊が宿営地を発しますが到着には3時間以上を要するため、シュライ北岸に待機していたD第3連隊の2個中隊が急ぎ砲兵橋を渡って南岸の陣地へ増援に駆け付けました。
普軍砲兵の到着とほぼ同時刻の正午にはD軍の第10野戦砲兵隊がシュライを隔ててミスズンデの北西岸に砲列を敷きますが、霧と砲煙による視界不良で同士討ちを恐れたため積極的な砲撃は行われませんでした。
第60号堡塁では目前の塹壕に潜んで銃撃を行う普軍フュージリア兵を追い払おうとD第18連隊の1個中隊が視界不良を活かして前進し普軍塹壕の直前まで進みますが、ここで発見され普軍の統制された銃撃により撃退されます。逆に普軍は残りの野砲を12ポンド砲の砲列左右に前進させ、砲撃を再開させました。第60号堡塁では3門の砲が砲撃によって破壊されましたが、激しい集中砲撃の割には損害はこの程度で、その理由は距離が短か過ぎたため普軍の榴弾が半月堡を越えて後方で破裂したためと思われます。このため砲弾は部落内に着弾するものが多く、ミスズンデの部落ではあちらこちらで火災が発生していました。
ミスズンデに火災が発生し砲列が前進したことで普軍歩兵部隊も前衛のフュージリア兵を先鋒に塹壕を出て前進し、堂々敵堡塁の前を横切って部落に向かおうとしますが、これは余りにD軍を嘗めて掛かる無謀な挑戦で、D軍の砲はブドウ弾(子弾多数をキャニスターに詰めた散弾)を発して普軍歩兵をなぎ倒し、部落前のD軍歩兵も必死で銃撃を行ったため、幾度か行われた普軍の突進は全て阻止されてしまいます。
夕方になると普軍歩兵は激しい銃撃と砲撃で前進することがままならなくなりますが、普軍側も半月堡から部落と歩兵の塹壕へ目標を切り替えた砲列の活躍でD軍を部落を越えた半島部へ後退させることに成功し、普軍前衛はようやく第60号堡塁の東側を進んで部落直前まで到達するのです。
第60号堡塁で奮戦するヘルテル大尉
この危機にD軍はシュライ北岸から野砲2門を対岸へ渡し、これをミスズンデ南の街道上に配して街道を直射出来るようにすると全軍に着剣が命じられ、普軍の突撃に備えました。
時間は刻一刻と過ぎ、夕闇が迫ります。このまま夜戦に突入か、と思われましたが、これ以上普軍は動きませんでした。
前線の様子を知ったカール王子は、抵抗を止めないD軍と夜戦に至った場合の損害を考慮して攻撃を中止するよう命じたのです。
ミスズンデ部落とその先の橋梁は犠牲を覚悟し正面から強襲すればその兵力差から言っても確実に占領することが出来そうでしたが、戦争は始まってまだ3日目、カール王子やヴランゲル元帥にして見ればこの先を考え出来るだけ損害を押さえたい心情となるのは致し方ないことだったのです。
午後4時。普軍は後退を開始しミスズンデは(この時は)救われました。
この戦いによる損害は、普軍が死傷199名、内33名が戦死、D軍の死傷は141名、内38名が戦死でした。
☆ ケーニヒス・ヒューゲル「王の丘」の戦い(1864年2月3日)
2月1日に右翼側普軍主力と同時にシュレスヴィヒ国境を越えた墺軍は、カール王子の普軍と並列してシュライに向けて進撃し、翌2日にはアイダー川を渡河してレンズブルクの西郊外まで進みます。しかし、カール王子の普軍団がミスズンデの防御帯を突破出来ず撤退したため、この日はこれ以上の進軍を諦めました。
翌3日。墺軍は右翼・東側にトーマス旅団、左翼・西側にゴンドルクール旅団を配し、それぞれの後方にノスティッツ、ドルムス両旅団が続きます。
墺軍司令官ガブレンツ中将はこの日、トーマス旅団に対しシュレスヴィヒ市の面前で湖状になったシュライの対岸にあるファードルフ(シュレスヴィヒ市の東南東2.6キロ)まで進むよう、また、左翼を進むレオポルト・ゴンドルクール准将率いる旅団にはダネヴェルク堡塁群東端を臨むオーバーゼルク(シュレスヴィヒ市の南4.5キロ)付近まで進むよう命じました。
この日(3日)、トーマス准将の2個連隊はダネヴェルク堡塁群に近いゼルク(オーバーゼルクの東隣1キロ)を避け、無理をせずシュライ沿いに迂回して東から進みファードルフを無血占領しました。
一方のゴンドルクール准将は目標のオーバーゼルクに向け直進し、その前衛は歩兵4個大隊と驃騎兵連隊3個中隊となっています。
※2月3日の墺ゴンドルクール旅団の前衛支隊
○猟兵第18大隊
○戦列歩兵第30連隊の2個大隊
○戦列歩兵第34連隊の1個大隊
○リヒテンシュタイン驃騎兵連隊の3個中隊
○4ポンド騎砲6門
ゴンドルクール旅団の前衛支隊は早朝、宿営地から順調に行軍し午前10時にはブレーケンドルフ(レンズブルクの北13キロ)を占領すると休まずに北上を再開、午後12時15分、オーバーゼルクの手前でD軍の前哨線に遭遇しました。
D軍前哨は周辺広野に走る境界の生け垣を利用して散兵線を敷いており、墺軍猟兵を率いるフォン・トビアス中佐は自身の左翼(西)側へ進み、反対側には第30連隊の1個大隊が進み出て大隊規模のD軍前哨を挟み撃ちにしようと試みました。
この朝、D軍ではスタインマン中将の第3師団から3個大隊と野砲4門を派出してダネヴェルク堡塁群の東端に展開させ独軍を迎撃しようとしており、その前線はファードルフ~ノオール(現・ロープシュテット。ファードルフの南西2キロ)~ゼルク~アルトミュール(ゼルクの南2キロ付近)~ヤーグ(同南西3.6キロ)まで延伸していました。D軍は広く薄く展開していたものの、墺軍が迂闊に正面突破を謀ろうものなら手痛い損害が発生しかねない防衛線ではありました。しかしゴンドルクール准将は臆することなく前衛を進め、前衛は短くも激しい銃撃戦の後、午後1時までにオーバーゼルクを占領、午後1時30分にはゴンドルクール准将自身占領直後のオーバーゼルク部落に到着します。
この状況にダネヴェルク堡塁のD軍も増援を発し、午後2時にはゼルクの防衛線に3個大隊が駆け付けました。
※2月3日・ゼルク防衛線のD軍部隊
*元より展開していた部隊
◯D第11連隊第1大隊(リスト少佐/オーバーゼルク周辺)
◯D第20連隊第2大隊(タルブリッツァー大尉)
◯D第9連隊第1大隊(ノルガ少佐)
*増援
◯D第20連隊第1大隊(シャック少佐/ケーニヒス・ヒューゲルへ)
◯D第21連隊第1大隊(ハッケ大尉/ヤーグへ)
◯D第21連隊第2大隊(サビー少佐/ヤーグへ)
オーバーゼルクの戦い
独語で「王の丘」を意味するケーニヒス・ヒューゲルは古墳のある小高い丘のことで、オーバーゼルクの北西600m付近にあります(因みにレンズブルクの西郊外、ホーン空軍基地北西にある同名部落と間違わないよう願います)。
この丘は付近で最も標高のある土地(と言っても標高は100m前後です)で、ダネヴェルクの防衛線を俯瞰することが出来、従って両軍共に重要な拠点となり得る場所でした。
攻撃側・墺軍のゴンドルクール准将が最前線であるオーバーゼルクに到着した頃、D軍の防衛線は前述通り表面上24個中隊に強化されており、単純な歩兵の兵力差は墺2に対しD3と逆転、そこでゴンドルクール准将は旅団の砲兵隊長モドリッキ大尉に部下を展開させ直ちに砲撃を開始するよう命じます。
モドリッキ隊長はシュレスヴィヒ市へ向かう街道(現・ブレーケンドルファー・ラント通り)の東・オーバーゼルクの北側の小丘(現・アム・コーグラーベン)に砲列を敷き、ちょうどケーニヒス・ヒューゲルの高地に砲を展開し始めたD軍に対し砲撃を始めるのでした。
一方、墺軍の最左翼(西側)では第34連隊の大隊がヤーグに向けロットルフ(オーバーゼルクの南2.5キロ)で南北に延びる鉄道線を渡って前進し、午後2時30分、ヤーグの前面でD軍と遭遇し戦闘が開始されます。この攻防は墺軍有利に展開し最終的に銃剣突撃によってD軍をヤーグから撤退させますが、この攻撃成功は墺軍左翼を進んでいた普近衛混成師団から近衛擲弾兵第4「王妃アウグスタ」連隊の第10中隊(フュージリア兵)が機会を得て参戦したことも大きな理由でした。
その後、ゴンドルクール旅団に後続していたノスティッツ旅団から先行したシュタイアーマルク公国(オーストリア南部)出身兵による墺第9猟兵大隊がD軍左翼(東)を攻撃したことをきっかけにD軍2個大隊はダネヴェルク堡塁群へ撤退するのでした。
ケーニヒス・ヒューゲル方面では午後の3時間に渡って激しい攻防が続きましたが、効果的な砲撃を続ける墺軍砲兵により、D軍シャック大隊は奮戦するものの次第に銃撃が弱まり、午後4時、遂に墺軍のボヘミア出身兵による第18猟兵大隊が突進し、短時間の激しい白兵でD軍を高地から追い落とし重要な高地には墺軍旗が翻るのです。
ケーニヒス・ヒューゲルに向かう墺軍猟兵
これでゴンドルクール旅団はこの日の目標を奪取・命令を完遂するのですが、准将はオーバーゼルクの拠点を維持するためには突出するケーニヒス・ヒューゲルを維持することが重要と認識し、丘の周囲に居残るD軍への攻撃を続行させました。
しかしD軍の諸大隊は広野に延々と続く生け垣を利用する散兵線から効果的な銃撃を続け、平坦でせいぜい畑地に積み上げた藁塚の陰くらいしか遮蔽のない土地柄、少しでも身を隠そうと苦労しながら銃撃を行う墺軍を牽制しつつ、臨機に限定的な銃剣突撃を行って墺軍の前進を阻止し続けるのです。
この銃撃戦で墺軍はD軍諸大隊をケーニヒス・ヒューゲルの北側へ退けますが、損害もまた大きなものとなりました。この損害の一部はダネヴェルク堡塁群からの銃砲撃によるもので、特に遮蔽が少なく堡塁群から丸見えのケーニヒス・ヒューゲルを死守っしていたボヘミア猟兵に大きな損害を与えていました。
その後夕闇が深くなったことで攻防は自然と終了し、ゴンドルクール旅団はノスティッツ旅団を後方第二線に、ケーニヒス・ヒューゲルからヤーグに掛けて展開し夜を迎えました。
この「ケーニヒス・ヒューゲルの戦い」による損害は、約5,000名が最前線で戦った墺軍が戦死96名・負傷302名・捕虜9名・行方不明25名で、約1,000から1,500名が最前線で戦ったD軍は戦死42名・負傷124名・捕虜201名・行方不明52名を記録しています。
この日の戦闘に勝利を収めたことで、連合軍側はダネヴェルク堡塁群を間近に臨む地域を獲得し、ケーニヒス・ヒューゲルなどの高台に重砲を配置して堡塁を叩くことが可能となりました。
ダネヴェルクは前述通り甲冑を纏った騎士が活躍した中世以来、ドイツ人の侵攻を阻止するため機能して来ましたが、今や防御施設としては時代遅れとなっていました。それは単なる長城風の土塁と砲撃に耐えうる遮蔽のない露天堡塁の集合体で、要塞重砲によって簡単に破壊される代物でした。また、堡塁をつなぐ塹壕は少なく短く、堡塁の多くは孤立して相互連絡・援護すら容易に出来ない代物でした。なにより真冬の2月初旬、氷点下の夜に耐えなくてはならない将兵の体力は急速に消耗して行きます。これらの芳しくない環境はデ・メザ将軍を始めとするD軍首脳陣も痛感しており、これが次に発生したデンマーク国内で激論を巻き起こすD軍による俄には信じ難い行動のきっかけとなるのです。
☆ D軍によるダネヴェルク堡塁群からの撤退(1964年2月6日)
D軍総司令官のクリスチャン・デ・メザ将軍は2月2日から3日に掛けて敵・独連合軍によりダネヴェルクの防衛線に肉薄され、その結果防衛計画を大幅に見直す必要に駆られました。
ダネヴェルク堡塁群は独連邦との関係が再び悪化し始めていた1861年、国家防衛計画の一環として強化工事が始まり64年の年頭までに27個の主要堡塁と38,000名が配置可能な防衛施設として生まれ変わります。また、付近では掘削工事による人工の谷間が作られ、そこはシュライ・フィヨルドから水を引き込んで湿地帯や水壕となるように設えられました。ダネヴェルクの西側は視界が開けた天然の湿地で、こちらからは大軍が侵入出来ないものと思われていました。D軍の工兵たちは限られた時間内で出来る限りの手を尽くし、前哨の哨所も幾つか設置されます。
しかし根本的にダネヴェルクの設備は古過ぎ、最新の装備で迫る普墺の攻撃に長時間耐久出来るかについては疑問符が付いていたのです。特に普軍には速射に優れたドライゼ銃と破壊力があるクルップ製の野砲や要塞重砲があり、ミスズンデでは失敗したもののじっくりと時間を掛けて攻城作戦が行われた場合にはD軍敗北は確実と言えました。また、この年(64年)の冬は特に厳しくシュライ・フィヨルドは大部分が凍結しており、歩兵ばかりか軽装の騎兵でも簡単に渡渉可能、同じくダネヴェルク西方の湿地帯も凍結して行軍可能となっていたのです。
この時点で、ミスズンデの突破に失敗した普軍は敵を拘束するため11,000名を残した後、23,000名余りがシュライ・フィヨルドを左手にアルニスの渡渉点を目指して北上中、ダネヴェルクの目前には少なくとも26,000名の墺軍と普軍が展開しつつありました。
ダネヴェルク堡塁群
デ・メザ将軍は4日、午後5時にシュレスヴィヒ市のプリンゼンパレ「王子の宮殿」に置いた司令部に麾下将官全員と上級士官を招集し、戦時評議会を開きました。
出席した主な高級士官は次の通りでした。
総司令官 クリスチャン・ジュリアス・デ・メザ中将
参謀長 ハインリヒ・アウグスト・テオドール・カウフマン大佐
砲兵総監 マティアス・フォン・リュッツオウ中将
第4師団長 カイ・ヘーガーマン=リンデンクローネ中将
第3師団長 ペーター・フレデリク・ステインマン少将
第2師団長 ピーター・ヘンリク・クロード・デュ・プラット少将
歩兵予備団長 フレデリク・カール・ヴィルヘルム・カロック少将
工兵団長 ヨハン・クリストファー・フレデリク・ドレイヤー中佐
参謀(会議準備担当者) シギスムント・ルートヴィヒ・カール・フォン・ローセン大尉
副官 シュレーダー少佐
副官 ワーグナー少佐
デ・メザ将軍と幕僚たち
正にD野戦軍の首脳ほぼ全員が出席したこの会議では1時間余りでダネヴェルク防衛線を放棄し一斉後退することが決まります。砲兵総監のリュッツオウ将軍だけが異議を唱えますが、これは総退却に従うと配備した多くの砲を破棄するしかなくなるからで、砲兵責任者として簡単に賛成する訳にはいかなかったから、と伝わります。
後日デ・メザ将軍は国王と政府に対しこの決断に至った理由を弁明しますが、それは以下の7点と言われます。
*D軍がダネヴェルク防衛線に頼ったのはアイダー川とシュライ・フィヨルド、そして湿地帯と人工の洪水による障害があったからで、現状は堡塁群周辺に設置された人工の谷に引き入れたシュライの浸水だけが障害となっており、厳寒により河川・湖沼は凍結し防御効果が著しく劣っている(敵は簡単にダネヴェルク防衛線を迂回・包囲が可能)。
*同じく厳冬により露天の野営や立哨は非常に困難となっている。
*元よりダネヴェルクの防衛線には最低でも4、5万の兵員が必要だが、現状は35,000名だけで護られている。
*その兵員も新兵が殆どで訓練が十分でない。
*敵独軍は少なく見積っても5万の将兵が進撃中で、防御のためには堡塁群正面の前哨線を確保すべきだが、3日の戦闘でそれも失ってしまい、既に敵は優位な高台に砲兵を展開し始めている。
*敵が防衛線に攻撃を開始した後では現状秩序ある後退戦闘は望めない。
*去る1月22日に示された軍上層部の指示では、防衛戦闘の条件として「野戦軍が存続危機に陥るまでの戦闘は望まれない」とされている。
デ・メザ将軍は将兵が訓練不足で経験も浅いことを鑑み、思い切りよく重装備と野戦資材を全て放棄し個人装備だけの身軽になって後退することも命じました。
後退は6日早朝(午前零時過ぎ)から開始されることが決められ、会議は終了します。
翌5日正午、デ・メザ将軍はシュレスヴィヒ市のビェルケ宮殿から戦事省と国王宛にそれぞれ電信を発します。しかし反対を恐れてからか、それとも「敵を欺くにはまず味方から」なのか、この時点では総退却の方針は示されませんでした。
「敵との間で緩慢な砲撃戦が続いています。前哨同士の小競り合いは報告されておりません。しかし敵は着々と我が防衛線に近付いております。兵士等は凍傷を恐れています」
電信を発信した後、デ・メザ将軍は司令部に参謀長のカウフマン大佐を残し、総退却の受け入れを指揮するためにフレンスブルクに向かいます。
午後9時50分、後を託され撤退準備を完了したカウフマン大佐はシュレスヴィヒ市から最後となる電信を戦事省と国王宛に送りました。
「先日、デ・メザ将軍により戦時評議会が開催され、司令部はダネヴェルク防衛線の放棄を決定しました。野戦軍は今夜フレンスブルクに向けて出立します。軍需資材一切は破棄されます」
直後に電信線は切断され通信は不可能になりました。驚くべき電信を受け取った軍部首脳や政府は直ちに撤退中止を命じましたが、受け取り手は既に無く全くの手遅れでした。
カウフマン
前線では断続的に砲撃が続いていたため、独軍は撤退の兆候を掴むことが出来無かったと伝わります。しかしD軍砲兵の撤退は計画より6時間も早い午後6時に始動していました。彼らは次第に砲撃を止め、砲撃を止めた大砲の火門には大釘が打ち込まれ、または砲架を破壊し敵が即座に使用出来ないようにして放棄され、砲兵たちは敵に気付かれぬよう少人数ずつ段階的に砲台を後にしました。
一方で歩兵や騎兵の撤退も静寂を第一に着々と進行します。
シュレスヴィヒ市の東方、シュライ・フィヨルドの北岸に展開していたD第1師団は午後8時に行軍を開始しました。師団はシュライの南側にいる普軍と対峙しており、翌朝には敵がシュライ湾口で渡渉する可能性が高まっていたため、こちらも翌朝まで待つことなく宵に行軍が開始されたのです。その1時間後には予備となっていた第4師団と砲兵もシュレスヴィヒ市周辺の宿・野営地を静かに後にしています。この人家に近い地域に展開していた諸隊は、近隣の住民(独語を話す者が殆どです)に撤退を悟られぬよう慎重に少人数ずつ、いかにも任務に赴くような感じで宿営を出て行ったのでした。
ダネヴェルクの西側防衛線に展開していたD第2師団は夜間シュビー(シュレスヴィヒ市の西5.5キロ)に宿営していましたが、こちらは午後10時に撤退を始め、シュレスヴィヒ市の北にあるイトシュタイナー森で集合するとフレンスブルクへの街道(現・フレンスブルガー通り)に沿って無言で行軍して行きました。
ダネヴェルク堡塁群に駐屯していたD第3師団も午後10時に撤退を開始します。師団の撤退は第9旅団から始まり、将兵は静穏に前哨地帯を離れると後方で待っていたスタインマン少将と砲兵・騎兵らと合流、急ぎ北上して行きました。続いて9キロ程度の間隔を開けて第7、第8両旅団の歩兵が前線と宿営から消えて行きました。この両旅団はD軍の殿となり、半日後「ザンケルマルク(オイーヴァセ)の戦い」の主人公となります。
デンマーク軍が去り喜ぶシュレスヴィヒ市民
これらの撤退行軍は慣れない新兵には非常に苦しいもので、重装備を置いて行くことにしたとはいえ、零下15度前後の極寒と暗闇の中、戸惑う兵士たちを導く士官たちは迷子を出さぬよう緊張しながら進みました。
恐れていた通り兵士たちは折から降り出した雪・夜半には一時猛吹雪となった天候によって急速に疲弊してしまい、行軍は遅れ気味になります。
シュレスヴィヒ市では最後のD軍部隊が午前1時に街を去りますが、ダネヴェルク堡塁群と対面していた墺ガブレンツ将軍の前哨が敵の撤退に気付いたのは午前4時前後と思われます。
前哨陣地からの急報により前面の敵が一斉に消えた事を知ったガブレンツ将軍は午前4時30分、前衛に対して敵の追撃を命じ、併せてシュレスヴィヒ市を占領するよう差配しました。
急報は付近の普近衛混成師団にも伝わり、普軍騎兵も追撃に参加します。
シュレスヴィヒ市に最初に入城したのは墺軍でしたが、詳細な報告は普軍の偵察隊先陣に参加していた近衛砲兵司令副官のアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー中尉(後の参謀総長)によって成され、彼は「午前8時15分、ゴットルフ城に墺軍大隊が到着して占拠、市街ではシュレスヴィヒ=ホルシュタインの州旗が主要な建物から下げられている。住民は大きな歓声をあげて我々を迎えた」と報告しました。
墺第6連隊がシュレスヴィヒ市街の占領を命じられ、進駐は友好的な住民の協力によりほとんど抵抗なく短時間で完了し、残りの墺軍は消えたD軍を追って北上しました。
一方、この6日黎明の時点では普軍のカール王子麾下はまだシュライを渡れずにいましたが、王子もまた渡渉を終えた後に騎兵たちを急かして逃げるD軍を追わせるのでした。
ゴットルプ城(シュレスヴィヒ市)
デ・メザ将軍の思い切った撤退作戦は当時、デンマーク国民に強烈なショックを与え、デ・メザ将軍と野戦軍を糾弾し非難する声が急速に高まります。
野戦軍が抱える問題など知る由もなく、政府や軍部の「喧伝」によってダネヴェルク堡塁群が「難攻不落の要塞地帯」と信じ込まされていたデンマーク国民には、デ・メザ将軍の深謀など全く理解出来ないものでした。そのため新聞各紙もデ・メザ将軍と野戦軍首脳陣を「臆病者」「裏切り者」と非難、首都コペンハーゲンでは強固な防衛線から戦わずして退却したデ・メザ将軍の解任を求める声が高まります。
2月11日に開かれた非常時国家評議会の会議でも世論に押されてデ・メザ将軍と野戦軍の行動を非難し、デ・メザ将軍はコペンハーゲンに召喚され、この間総司令官代理となったのは、ただ一人ダネヴェルクからの撤退に反対したリュッツオウ将軍でした。デ・メザ将軍は自身の正当性を訴えますが政治は世論に逆らえず、デ・メザ将軍の解任は避けられない状況になりました。
それでも2月26日にはデ・メザ将軍の深謀を知った国王が将軍を庇って総司令官を続けさせるよう希望するコメントを出しますが、最早世論と新聞はそれを許す雰囲気ではなく、デ・メザ将軍はこれ以上の混乱を避けるため2月28日、自ら辞任する道を選ぶのでした。翌29日、デ・メザ将軍の正式な後任は第1師団長で野戦軍の最先任であるゲオルク・ダニエル・ゲルラッハ歩兵大将に決まりました。将軍はダネヴェルクの撤退に賛成していましたが、前線にあったため例の会議に参加出来ず、それも就任理由の一つかもしれません。
放棄されたダネヴェルクの堡塁
一方、報道でD野戦軍の「敗退」を知ったスウェーデンとノルウェーでもショックが大きく、両王国の世論は「兄弟国家」への支援を要求し沸騰します。
スウェーデン国王カール15世は、再びデンマーク戦争への介入を表明し、20,000名を上限に義勇軍を編成することをデンマーク政府に約束するのです。実際国王は英・仏・露から介入の承認を得るため、ロンドン、パリ、サンクトペテルブルクに使者を派遣しました。しかしロシア帝国は普墺の行動を正当化して逆に独への支持を表明し、英仏でも事態の拡大には批判的で義勇兵といえどもあからさまな介入には反対を表明しました。カール15世はまたもデンマークへの関与を否定されてしまい、仕方なく軍部に派遣軍の編成を中止する旨命じるのでした。
「ダネヴェルクからの撤退」は長らくデンマーク国民に恥辱として記憶された「事件」でした。この風潮は1世紀近くも続き、多くの軍事評論家達もデ・メザを愚将や臆病者と決め付けていました。しかしその後の研究により当時のD軍の状況やダネヴェルクの実態が明らかになるにつれ、撤退は英断だったとの反論が増えて行き、今日では殆どの軍事評論家から「一刻を争う事態に直面した状況下、迷わず決断し的確に悲劇を避けた」行動として賞賛されており、目前にいた墺軍から数時間も行動を隠蔽した事実も相まって現在では「軍事における撤退戦の傑作」と呼ばれ、デ・メザ将軍の名誉も回復しています。
ダネヴェルクからの撤退
※以下の文章はこの節が書き直されるまで第9部分となっていたものです。
一部残して、という声によりここに残しております。内容は他愛無く本章とも重複する部分がありますので、読み飛ばして頂いても影響はありません。
こぼれ話 シュレースヴィヒ=ホルシュタインって一体?
この二つの公国を巡るドイツとデンマークの争いは、一体どうして起きたのでしょうか?
これは語り始めると本当に何十ページ費やすか分からない、しかもそこまで書き切っても理解出来るかどうか自信がない、という複雑な領土と民族紛争です。
ですから、「簡明」をモットーに書いている筆者としてはこの問題を説明するのを省いて来ました。
しかし、読んで下さる方から「一体何のために戦っているのか分からんぞゴラァ」(意訳)とウラから示唆され、これは逃げちゃイカンな、と(略)
では、研究者の方や歴史オタの方々にお叱りを受けるの承知で、かなり乱暴にこの問題をまとめてみます。
神聖ローマ帝国という国がありました。ローマを領有していないのにローマと名乗る妙な国ですが、その理由を述べる時間はありません。
10世紀、この国の北部国境でデンマーク王国とどこに国境を引くかで争いがあり、王様たちはこの辺でよかろうとユトランド半島のくびれ部分に流れるアイダー川を国境と定めます。デンマーク王は甥にこの国境地帯を与え、この人が公爵となったので領地は「公爵の領地」即ち公国となりました。シュレースヴィヒ公国はこうして始まります。
ホルシュタインはこの南に広がる平地で、神聖ローマ帝国領ですが狭い川一本隔てただけのお隣、シュレースヴィヒとは最初から密接な関係にありました。
余談ですが、白と黒まだらの乳牛「ホルスタイン」はこの地方の名前を由来としますが、実はここの在来種がオランダのフリースラントに渡って乳牛として改良されたもので、正式には「ホルスタイン=フリーシアン」と言うらしく、ヨーロッパでは「フリーシアン」と呼ばれています。まあ、どうでもいいコネタなので飲み会にでも使って下さい(白けられても責任は取りません)。
さて、12世紀頃、シュレースヴィヒ公は婚姻関係や土地の相続などで、ホルシュタイン領も支配下としました。その後13世紀中頃、この公爵家が断絶し、一旦シュレースヴィヒ公国がデンマーク王に返されると、王は色気を出してシュレースヴィヒ公が領有していた南側のホルシュタイン領も手に入れようとします。
しかし、シュレースヴィヒはともかくホルシュタインは神聖ローマ帝国領。王様が別の国の王様の下に入るなんておかしな話です。しかし、そのおかしな話が通ってしまい、デンマーク王はシュレースヴィヒ公にして、神聖ローマ帝国皇帝に仕えるホルシュタイン公としての顔を持つことになりました。うーん、そろそろ分からなくなり掛け……
その後、デンマーク王家は分家にこの二公国を与え、更にその分家が公国を支配したりする歴史が続きます。
ここの三百年ほどはもう、見るのも嫌になるほど所有者が入れ替わり、ドイツだったりデンマークだったり、果てはロシア皇帝だったりもします。
こうして領主はデンマーク臣民だったり二重に神聖ローマ(ドイツ)臣民だったりよく分からなくなりましたが、その間ずうっとホルシュタインはほとんどドイツ系の住民が暮らし、シュレースヴィヒでも北側こそデンマーク人が多く住んでいましたが、南側はドイツ人の方が多く住み付いていました。
国境があると言っても、二つの公国は同じ公爵が支配していますから、兄弟国です。人の行き来も住み分けも他の国境とは違って甘くなると言うものです。
この状態はナポレオン戦争まで続きますが、ナポレオンの登場により神聖ローマ帝国は解体され、それまで神聖ローマ帝国にあった数々の小領地は独立国となりました。ソ連や旧ユーゴの崩壊で色んな国が出来た、あれに似た状況と思って下さい。
ナポレオン戦争後のウィーン会議で二公国は正式に「デンマーク国王の所有」とされます。これでメデタシメデタシ、な筈ですが、大間違いです。二公国は「国王の所有」であって「デンマーク王国の領土」ではなかったのです。
ああもう、メンドクサイ。つまり王様が外国に持っている別荘や土地が、その王様が治める「国」のものではない、ということ。ドバイの首長が北海道に別荘を持っていても北海道のその土地は「ドバイ首長国」領土ではない、と言えば分かりやすいでしょうか。
この1820年頃を整理しますと……
ドイツ系住民がほとんどのホルシュタイン公国は、ドイツ人諸国の緩い連合「ドイツ連邦」に所属していますがデンマークの王家の土地でデンマーク王家の者が治めています。
シュレースヴィヒ公国はデンマーク領ではありますが住民はドイツ人が過半数であり、特に南側はドイツ人がほとんどでしたが、デンマーク王家の者が公爵として治めています。
このあやふやな状態で民族主義や自由主義が吹き荒れるのです。1848年、革命でヨーロッパが荒れると、デンマークは二公国のうち北側のシュレースヴィヒ公国を正式なデンマーク領とする宣言をします。
しかし住民たちは怒り狂い、プロシアや近隣のドイツ人小国も大反発。これが「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」になりました。
結局、この戦争はプロシア側がやり過ぎた、と感じたオーストリアと列強、フランス・イギリス・ロシアの介入でロンドンで会議が行われ「ロンドン議定書」というルールが作られました。これによりこの二公国は「現状維持」とされるのです。
その後、デンマーク王が世継ぎを作れないまま断絶、新王家が誕生し、再び強気に「シュレースヴィヒ公国はデンマーク領」との憲法を出しますが、ビスマルクの巧妙な外交術と権利者たちが大騒ぎしたお陰で再び戦争となったのでした。
お分りいただけたでしょうか?どうも書いた本人も?な問題です。
その後、1920年、第一次大戦後の「民族自決」の時期。
シュレースヴィヒは三つのゾーンにわけられた上で二回に分けて行われた住民投票で、北部はデンマークに、中央部はドイツに帰属することになります。
南部は?そう、このホルシュタインに接した地区はずうっとドイツ人住民がほとんどでしたので住民投票は行わなくても結果は明らか、ということで最初からドイツ領とされたのでした。




