呪い呪われ追い追われ ③
金属扉が悲鳴を上げるように歪み、押し寄せる黒い液体の隙間から、無数の眼球がじっと覗き込んでくる。
逃げ場のない小部屋に降り注ぐのは、針のように鋭い夥しい視線。 じっと見つめられるだけで心臓が締め上げられるような錯覚を覚える。
否、錯覚ではない。 怪物の視線を介し、名状しがたい悍ましきものを注がれる感覚をおかきはたしかに知覚していた。
「ハナコさん……まずいです、あれに見つめらるのはかなりまずい!」
「……チッ、まさかこんなところで役に立つとはな」
ハナコが口にタバコを咥えたまま、肺に溜めた空気を目いっぱい吐き出す。
すると火も点していない切っ先からもうもうと煙が湧き出で、あっという間に部屋を覆い尽くした。
「ゲホッゲホッ! な、なんですかこれ!?」
『開発部が作った魔除けの煙草だよ、噛めば噛むほど煙が出る。 ニコチンレスでヤニ好きにも優しい仕様だ』
「説明は良いから今の内だ、こんなの目くらましにしかならねえぞ!」
煙で視線が切れたことに怪物が動揺を見せた一瞬、ハナコはひしゃげた扉をあえて全力で開く。
蝶番が悲鳴を上げて外れてもなお、怪物で埋め尽くされた出入り口は人1人がギリギリ通れるほどの隙間しかない。 小柄なおかきや身軽なアクタならともかく、身長の高いハナコには絶望的だ。
「ハナコさ……」
「迷うな、息止めて突っ切れ!!」
ハナコは口に咥えたままの煙草を噛み砕き、歯ぎしりとともに一歩を踏み出した。
一手遅れて黒い影の巨体が覗く。 四つ足で這いつくばるその形は曖昧で、目玉が浮かぶ液状の肉がぐずりと波打ち、通り道を塞ごうとした。
おかきの心臓が跳ねる。 ほんのわずかでも足を止めれば、呑み込まれて終わるだけだ。
「ッ……!!」
臆する暇はない。 おかきは袖で口を覆って走る。
視線を浴びぬよう必死に顔を伏せ、肩を掠めるようにぬるりとした黒液の壁を抜けた瞬間、おかきの身体は煙も目玉もない通路へ転がり出ていた。
「――――ぷはっ! ハァ……ハァ……やった……は、ハナコさんとアクタは……!?」
「よくやったガキ、無事か!?」
「はい、どうにか無傷です! でもハナコさんは!?」
煙が染みる目をこすって振り返る。 だがそこにあるのはぐねぐねと脈打つ黒い壁だけだ。
小部屋から逃げ出せたのはおかきのみ、アクタとハナコの2人はいまだ袋小路の中にいる。
「こっちは問題ねえ、いいから逃げろ!」
「でも……!」
「逃げろって言ってんだろ!! 何のためにお前を囮にしたと思ってやがる!!」
「鬼ですかアンタ!?」
怪物の注意は煙で満たされた小部屋より、自分の横をすり抜けて逃げようとするおかきへと向けられている。
なにもハナコは善意でおかきを逃がしたわけではない、すべてはリーダーとしての合理的な判断によるもの。 呪いを受けた1人を犠牲にすればまだ無傷な2人は助かる、簡単な算数だ。
「人聞きが悪い、別に殺すつもりで放り投げたわけじゃねえ。 生きてたらあとで合流すっぞ」
「あとで生きてる保証はありませんよね!?」
『姫、お逃げくだされ! 化生が迫っておりまする!!』
「ウワーッ! 陀断丸さんはアクタをお願いします! チクショーあとでレポートに書きますからね!!」
恨み言を残しておかきは肉々しい通路を走り出す。
その背中を夥しい目玉で見つめていた怪物も標的を2人からおかきへと変え、ずるずると這いずりながら扉から離れていった。
「やはり呪いを受けた個体を優先して狙っているのか、だとすれば奴の目的は犠牲者の量産……」
『ちょっとリーダー、思慮に耽んないでくれる!? 人の心ドブに捨ててきた!?』
「ねえ、私も文句言いたいのだけど? 探偵さんに何してくれてるわけ?」
「うるせえぞキンジロー&爆弾魔、元はと言えば怪物の接近に気づかなかったお前のせいだろ、もう少し猶予があれば他に打つ手もあった」
『いや僕はちゃんと監視してたよ! 現にドッグタグの生体反応は全く違う座標にあるから!』
「……んだとぉ?」
――――――――…………
――――……
――…
「うわああまずいまずいまずい! そもそもどうやって合流すればいいんですかこれ!?」
湿った破砕音を背後に聞きながら、おかきは息を荒げて通路を走る。
後ろを振り返る余裕などはない、それでもあの怪物がおかきを追いかけてくることは肌で理解できた。
「ハァ……ハァ……ああもう、視界が……!」
目からは液体がとめどなく溢れ、視野を黒く濁らせる。
呪いはいまだおかきの身体を蝕んでいる。 それでも信徒と化していないのは、おかきの精神力と加護の力があるからだ。
逆に言えば、加護と相殺して余りある呪詛がおかきに与えられているということになる。
「間違いない、あの怪物に見つめられることが条件……! だけどどうやって視線……をっ!?」
後ろから怪物が迫る中、おかきは突然足を止める。
逃げなければまずい、そんなことは当然分かっている。 それでも足を止めなければならない理由が目前に立ちふさがっていた。
「……な、なるほど……そりゃ液体の身体なら、こういう事も出来ますよね」
冷や汗を流すおかきの目前には、後ろから迫るものと同じ――――夥しい目玉を備えた怪物が待ち構えていた。




