うるせえんですよ ②
「いやですねぇ……しつこい人は嫌われますよ? ああ、人ではなかったですね……」
「オォ……ガァ……ぎいぃいぃ……」
巨大な怪物はガラスを引っ掻くような耳障りな音でおかきの名を呼ぶ。
銀の粘液がうねり、ねじれ、肉のような質感を帯びながら膨張していく。 脊椎とも触手ともつかぬ構造体が背中からいくつも生え、夥しい眼球らしきものが目まぐるしく動き続けている。
だがどの目も焦点が合っておらず、まるで盲目の執着のようにただ“おかき”という記号だけを探していた。
「す、素晴らしいクオリティですねー……猫ですか? それとも犬?」
「オガギィ……!!」
「ああダメだ何言っても通じる気がしない」
とてもじゃないが穏便に言葉を交わせる相手ではない。
断末魔もすでに聞こえないところからすると、ペットボトルごと飲み込まれた液体生物はすでにこと切れているだろう。
それとも「食うな」という最後の言葉からして、この怪物に取り込まれたか。 どのみち助っ人はもうおらず、おかきは今からたった一人でこの怪物と戦わなければならない。
「……頼みますから攫われた人たちを巻き込まないていどの知性は持っててくださいよ」
「オオオオガアアアアアアアアアアアア!!!!」
愚直に飛び込んできた怪物の突進をおかきは横に転がって躱す。
鼓膜を劈く怪物の絶叫と轟音、地下を揺るがす衝撃は転がるおかきの身体をそのまま吹き飛ばすほどだ。
(どうするどうするどうする……!? 手持ちは小口径の拳銃とバニ山さんの盾、あとは空のボトルぐらい……!)
「ウウウウヴヴヴヴヴヴ……!!」
怪物がぶつかった衝撃で唯一の出入り口である扉はひしゃげ、もう二度と開くことはない。
このだだっ広い空間の中に閉じ込められたおかきは、この絶望的な状況でも勝機を見出すために、まずは距離を取ろうと走り出す。
残る洗剤はわずか、あの体積が相手では効果が期待できない。
「あとは電撃……いかにもやつらの根城って場所にそんなの……そもそもなんで私に執着してるんですか!?」
「オガギイイイイイイイイイイ!!!」
APP18という爆弾は、たとえ人外が相手であろうと、良くも悪くも興味を引き付けてしまう。
だがそんなことは本人が知る由もなく、そしてこの先も真実を知ることはない。
怪物がおかきに執着するその理由は、ただ単純に「好みだから」だった。
“人間の個としての美的基準”や“感情パターン”を雑に模倣した結果、「おかき」という強烈な個性に触れてしまったのが運の尽き。
美しく、理知的で、小さく、強い。 おかきの存在そのものが、怪物にとっては「唯一無二」であり、だからこそ取り込んで“自分の個性としたい”という強い本能的欲求へ変化していた。
「ああもう、まっすぐ無策に突っ込んでくるのが一番困る!」
おかきは空になったペットボトルを投げつけるが、もちろんそんなものが通じるはずもなく、銀色の表皮に虚しく沈む。
そんな藁の抵抗も意にも介さず、怪物が振り上げた爪をただただ雑に振り下ろすだけで、打ちっぱなしのコンクリ床が荒々しく抉られる。
「人質がいるってのに……!」
地面が割れ、構造材がねじれ、埃と液体の飛沫がおかきの視界を埋め尽くす。
幸いにも天井に吊るされた繭に被害がないが、ターゲット以外眼中にないあの怪物とじゃれ続ければどんな被害が生まれるか未知数だ。
とにもかくにも繭に被害を出さないために遠くへ逃げようとするおかき――――だが、その背中に重い衝撃が叩きつけられた。
「がはっ――――!!」
腕部を叩きつけた怪物から散った飛沫、ボウリング球大の重量を持つ雫が背骨を軋ませる。
苦悶の息を漏らし、床を転がるおかき。 途端に背中に張り付いた液体は粘性を帯び、おかきの身体を床に張り付けた。
「ぐ……っ、ぁ……! 本、当に……厄介な……!」
銀色の液体はおかきの肌に食い込み、引きはがそうにもビクともしない。 そうこうしている間にも怪物の足音が土煙の向こうから近づいてくる。
四肢をもがれた獲物をそのまま捕食するつもりなのか、怪物はその場で喉を鳴らしながら、蠢く触手をゆっくりと持ち上げる。
興奮しているのか、それとも味わい方を選んでいるのか、その動きには一種の陶酔があった。
「オオオォォォガアアァァアギイイィィィィ……」
「しつ……こい、ですね……!」
死神の足音が近づいてもなお、おかきは仰向けのまま身動ぎしかできない。
これが忍愛やバニ山ならまた話が違うが、人並の筋力しかない身ではこの粘着物から逃れることは不可能だ。
できることは文字通り天を仰ぐのみ……だが、見上げた天井には“活路”があった。
「……あれは」
辛うじてまだ動かせる腕で腰のホルスターをまさぐる。
どうにか取り出したのはおかきの手でも扱える小口径の拳銃、当然ながらこんなものを撃っても怪物に通じるはずもない。
だからおかきも怪物ではなく、天井に見える配管目掛けてその引き金を引いた。
――――パンッ!
乾いた音が地下を反響する。
SICKで積んだ修練の賜物か、痛みで手元が狂うことなく、弾はおかきの目論見通りのものを撃ち抜いた。
「ヴ……オ、ガァアァ……?」
「さすが高級ホテル……防火設備はしっかりしてますね」
非常ベルが鳴り響き、土煙を静める雨が室内に降り注ぐ。
おかきが撃ち抜いたのは天井に設置されていたスプリンクラー、衝撃を与えたことで無理やり誤作動させたのだ。
しかしいくら降ろうともそれがただの水なら怪物には効かない、ここに電気か多量の洗剤でもあれば話は別だろうが。
(それでもできることはした、あとは……バニ山さんに託します)
だがおかきとしては放水はあくまでオマケ、本命はけたたましく鳴るこの非常ベルの存在だ。
異常を知らせる通知はきっとバニ山にも伝わる、そうすれば彼女はまっすぐこの地下へ向かってくるはずだ。
その時におかきはすでに怪物に取り込まれているだろうが、人質たちは助かる。 自分の犠牲を前提とした苦肉の策は――――
「――――はぁーーーっはっはっはっは!!!! ずいぶんと興味深い展開になっているではないか、藍上おかき!!!!」
「………………あぁん?」
――――非常ベルよりもけたたましい男の登場により、一笑に伏されてしまうのだった。




