神憑り ③
山田 忍愛の脳裏に「死」がよぎる。
命の危機はこれまで何度もあった、そのたびにこんな仕事もうこりごりだとわめいては忘れてきた。
それでもこれほどまで自分の死を恐れてしまうのは、背中に負っている友人の命ものしかかっているからに他ならない。
「……ガハラ様、できるだけ全力で背中にしがみついててね。 これからちょっと余裕なくなる」
「わかったわ、けど危なくなったら私捨てなさい」
「絶対ヤダ」
山田 忍愛は自分が善人ではないことを自覚している。 だからこうして怪異と対峙している今もなお、どうにか生きて逃げることばかりを考えていた。
ただその逃走方法に、「足手まといを囮にして1人生き延びる」という手段を選ぶほど外道ではない。
たとえコミックの中では三下の三流の悪人であろうとも、覚悟を決めたその目には凛とした矜持があった。
「オラオラ神様よぉ、こっちには人質がいるんだぞ! 手を出したらこいつの命がどうなっても知らないからな!!」
『ひいいいい!? な、なんなんだこの女ぁ!?』
「さすがね山田、味方の私もドン引きだわ!」
甘音を見捨てる気はない。 なので忍愛はまず、てごろな間合いで戦意を喪失していた農民を人質にとってみた。 彼らがススリガミを信仰をしているならば、信徒への攻撃をためらうことに期待した脅しだ。
あくまで脅しのため本当に命を殺めるつもりはないが、クナイで農民の頬をペシペシ叩きながら下卑た笑みを浮かべる様は筋金入りのド三流だった。
「だ、大丈夫なの山田? 話の通じる相手?」
「わかんないから試してみるんだよ、これで大人しく――――」
引き下がってくれるほど神は甘くない。 瞬間、四方八方から飛来する口吻を忍愛が跳び上がって躱す。
数こそ多く、速度も速い。 だがそれでも直線的な攻撃は忍愛の眼なら見切りは可能。
そう、忍愛ならば。
『ひ、ひひゅ――――……!?』
「クッソ、躊躇いなしかよ……!」
忍愛に人質とされていた農民の喉から情けない吐息が零れる。
恐怖で引き攣った彼の首には、忍愛が避けた口吻の1つが突き刺さっていた。
『ひ、ひ、は……ひゃめ……!』
――――ずぞ、ずぞぞぞ
泡交じりの水分を啜るような汚い音が鳴るほどに、農民の顔から生気が消えていく。 口吻が嚥下するたび、農民の身体が一回り細くなる。
それは一瞬の出来事だった。 高く跳んだ忍愛が再び着地するまでに、農民だったものは干からびた骨と皮だけの存在となっていた。
「う、ぇ……」
「ガハラ様は目閉じてて、見ない方がいい……!」
壮絶な最期を目の当たりにした甘音の血の気が引いていく。 もし自分が刺されていたらこうなっていたのだぞ、と。
忍愛もすかさず農民に刺さっていた口吻にクナイを突き立てるが、弾力に富んだ表皮には切り傷一つ付けられない。
刺さればほぼ即死の刺突、しかし切断は困難と言う事実に、思わず忍愛の口から舌打ちが漏れた。
――――ぼご、ぼごごご
「…………は?」
だがそれだけで悪夢は終わらない。
カラカラに干からびた農民の死体が、今度は唐突に膨れ始めた。
それはまるで空気を吹き込まれた風船のように際限なく膨張、あっという間に元々の大きさを超え、限界を超えた皮膚が茶色く変色した“それ”はまるで……
『ひ、ひひ、は―――ぼ、ごぼ……ぼ――――』
ススリガミと呼ばれた、口吻の怪物たちと瓜二つのシルエットにまで変質した。
「対象の捕食と……変質による増殖!? だったらあの影たちも……」
『ごぼ、ぼ……ぼぼぼぼぼぼぼぼぼっ』
過剰に何かを吹き込まれた農民だったものの口腔から、どす黒い泥のようなものがあふれて忍愛に浴びせかけられた。
忍愛も咄嗟に反応して農民を蹴り飛ばすが、回避しきれない飛沫が腕に付着する。 驚愕と葛藤、忍愛が見せたその隙はあまりにも致命的な油断だった。
すぐさま方位磁針にも使った水筒の水で腕を洗い流すが、ネバついた液体は少量の水では簡単に流れない。
……いや、それは“液体”ではない。 忍愛は気づく、すぐに自分の腕を這い回る悍ましい不快感に。
ヌラヌラと光沢を放つ泥……否、それは液体などではない。
忍愛に腕に張り付いているのは、黒くゴマ粒じみた生き物たち。
それは酸化した血液にまみれた、夥しい数の蛭だった。
「う、うぎえええええ!!?!? キッッッショ!!!!」
「山田!? どうしたの山田、仮にも女の子が出しちゃいけない悲鳴だけど!?」
「なんでもなぁい!! 逃げよ逃げよ!!」
農民に注ぎ込まれたものの正体がこの蛭ならば、このまま付着させているのは拙い。
忍愛も頭では理解しているがひるの吸着力はすさまじく、簡単に引きはがせないと判断してまずはこの包囲網への突破を優先しようと意識を切り替える。
しかしススリガミの群れの隙間を見つけて踏み出した一歩は、力なくカクンと崩れ落ちた。
「っ―――!? ガハラ様、ごめんちょっと倒れる!!」
バランスを崩して転倒する忍愛、体勢を立て直そうにも足に力が入らない。
いや、足だけではない。 辛うじて指先はまだ動かせるが、いつの間にか忍愛の前進には肌感覚もなくなるほどの痺れが回っていた。
(毒……!? いや、ボクに大抵の毒物は効かないはず……ならこれは―――)
――――ずぞ、ずぞぞぞ、じゅぞ、じゅる
「く、そ……もっと味わえよ……美少女の血だぞ……っ!」
腕に張り付いた蛭たちからススリガミと似た音が聞こえてくる。
力が入らない原因は、大量の蛭たちによって血が奪われたことによる貧血症状だ。
「が、ガハラ様……今の泥、浴びてないよね……?」
「わ、私は平気よ! あんたはどう見てもダメじゃないの山田!?」
「そうっぽい、だからボクから離れて……このままじゃガハラ様も危ない……」
もはや忍愛には甘音を背負う力も残されていない。
それでも友達思いの少女は首を振って反発するが、議論の余地などどこにもないことは利口な彼女も理解していた。
このままじゃ両者ともここで死ぬだけだ、と。
「逃げ道は作るから……あとは気張れよ……」
「……分かったわ」
こうしている間にも血を抜かれて失いそうな意識の中、忍愛は最後の力を振り絞って先ほどと同じ炸薬に火をつける。
そして包囲網の一番薄い急所に放り投げ、爆ぜた瞬間、甘音は迷いなく忍愛を置いて駆け出した。
「はは、やっぱガハラ様ってば賢ぉい……」
ずず、じゅぞぞぞ、ずぞ、ずぞぞ。
薄れる意識の中でも明瞭な耳で聞き取ったのは、逃げる甘音の足音とススリガミたちの舌なめずり。
神は知っている、所詮は人の浅知恵だと。 この森は神のテリトリー、1人逃がしたところでどうせすぐに同じ末路を辿ることになる。
今までと違い、瀕死の忍愛に向かってゆっくりとその口吻を伸ばす神。
そして今まさにその切っ先が忍愛の柔肌に触れ――――ようとした、その瞬間。
「……ボクのそばにいたら巻き込まれるってわかってるんだからさ」
――――雷鳴が、轟く。
この鬱蒼とした森の中で何よりもまばゆい稲妻が、悍ましい神の脳天を焼き貫く。
「おい、おどれら」
黴臭く淀んだ森の中に、清らかな鈴の音が響く。
忍愛に確信なんてものはなかった。 ただの賭けだった。
それでももし“彼女”が間に合っているなら、今の爆音を目印に駆け付けてくれると信じていた。
「――――うちの後輩に何してくれてんねん」
「ぱ、パイセェン……!」
思い上がった出来損ないの神たちは知らなかった。
獲物の前で舌なめずりなど、三流以下の真似事だったと。




