山の怪 ②
「ではこの契約書にサインをお願いします」
「おのれ人の子……」
おかきは切り株の上に契約内容を記載した紙を置き、ヤマノケの署名を促す。
その横には血判用のナイフも添えられ、口約束では済まさないというおかきの圧が感じられた。
「なんでそんなもの持ち歩いてるの新人ちゃん あと血判意味ある? 飯酒盃ちゃんの身体だよ?」
「備えあれば嬉しいなというやつです、それにこの手の契約は“自分の意思で同意した”という認識が大事とウカさんから聞きました」
過去の資料を読み漁り、ウカから対神性の心得を受けたからこそおかきもこの契約の重みを理解していた。
いくら気まぐれであろうとも神は総じて約束事は守る、そうでなければ人からの信仰と信用を集められない。
人から捧げられた供物に対する報酬を与え、信仰や感謝を得る。 今回はその供物が大量の酒となるわけだが。
「人の子……ここまで私に尊大な態度を取ったのはお前が初めて」
「では神罰を与えますか?」
「否、非常に腹立たしいが供物を捧げる者に与える罰はない。 だから酒だけ置いて帰れ」
「ではこの契約も破棄ということですか、残念です。 忍愛さん、もったいないですけどそのお酒全部叩き割ってください」
「待て、待った、待ってください」
「わーすごい、教師が生徒に土下座してるのにそれほど違和感がないや」
よほど酒が恋しいのか、飯酒盃(in山の神)は地面に頭をこすりつけて懇願する。
もはや神としての威厳はどこへやら、そこに居るのはただのアル中でしかなかった。 つまるところいつもの飯酒盃教師の姿である。
「私たちの要求は憑りついている肉体の返却と学園の安全だけです、そちらからの要求につきましては理事長へ直接抗議してください。 ご納得いただけませんか?」
「簡単に人の要求を呑むのは神としての沽券が……」
「忍愛さん、1本2本は景気良く行きましょうか」
「よーしきた、空の彼方へはいドーン!!」
「わァ……ぁ……!!」
「泣いちゃった」
おかきが投げ渡した酒瓶を忍愛が景気よくフルスイングした木の枝で木っ端みじんにすると、飯酒盃(in山の神)はポロポロと涙を流す。
もはや一切の自尊心を取り繕う余裕もなく、神の土下座は地面に埋まる領域に突入しようとしていた。
「お酒……ください……もう逆らいません……久々のお酒なんです……」
「謝罪も懇願も結構です、まずはこの書面にサインを」
「新人ちゃんって闇金の才能あるね」
――――――――…………
――――……
――…
「…………はっ!? 私の泡盛!!!」
「おっ、起きた起きた。 新人ちゃん、戻って来たよー」
「そんなもの持ち込んでいたんですか……それはそれとして無事で何よりです」
「へっ? え? な、何があったの……?」
交渉成立から数十分後、意識を取り戻した飯酒盃を迎え入れたのはおかきたちの呆れと安堵が入り混じった顔だった。
本来ならばあのまま山の神に憑りつかれ、二度と学園に帰ることはないはずだった。
それがこうして五体満足で帰ってきたのは、3時間にも及ぶおかきの交渉の賜物でしかない。
「危なかったですね、やはり契約内容を精査しなければ出し抜かれるところでしたよ」
「よかったね飯酒盃ちゃん、ボクが交渉役だったら今ごろ死んでたからね?」
「私の身に何があったの!? そして私のお酒が空っぽなんだけど2人とも知らない!?」
「命よりは安いよ」
「それより早く山を降りましょう、交渉も終わった以上長居する意味もありません」
「いつの間に終わったの!?」
空っぽになったリュックサックをひっくり返して泣きじゃくる飯酒盃の抗議はあっさりと切り捨てられ、おかきたちは帰り支度を整える。
おかきの想定以上に交渉が長引いてしまった結果、すでに太陽は橙色に染まっていた。
日が完全に落ちてしまえばこの山の中で遭難するリスクは一気に高くなる、忍愛の脚でもかなりギリギリだ。
「話は学園に帰ってからです、この契約書を理事長へ預ければ依頼完了です」
「ほら飯酒盃ちゃんも掴まってー、帰りは飛ばすから舌噛まないようにね」
「お酒……私のお酒ぇ……お仕事終わったら真っ先に飲もうと思ってた秘蔵のお酒……」
「ねえやっぱりまだ憑りついてない、これ?」
「これは神様が気に入るのも納得ですね」
さめざめと泣く飯酒盃を担ぎ、ついでにおかきを背負った忍愛は再び森の間を駆け抜ける。
遮る木々をすり抜けるように駆ける忍愛の脚は、山の向こうへ沈む太陽の影が伸びるよりも速く、2人分の重りがあるとは思えないほどに軽い。
そしてもはやこの絶叫アトラクションに慣れてしまったおかきは、ただただ振り落とされぬように背中へしがみ付いていた。
「うーん、残念。 ボクの背中に押し付けられるほどのお餅をお持ちでない」
「バッチリ聞こえていますけどここで怒るのは男として負けな気がします」
「藍上さん、代わりに私が肘鉄しようか?」
「やめてよ暴力反対だよボク! あーほら見てあれ、すごい映える絵!」
「そんなことで誤魔化されませんよ忍愛さ……おぉ」
そんなつもりはなかったはずなのに、おかきの口からつい感嘆のため息が零れる。
森林地帯を抜けたおかきたちの目に飛び込んできたのは、今まさに山へ沈もうとする夕日。
赤く染まったうろこ雲にライトアップされた太陽は、真円を保ったまま山の頂点へ身を隠していく姿は、自然の雄大さを十二分に感じさせる美しさがあった。
「ほわー、綺麗……この夕陽を見ながら一杯やりたかったなぁ」
「先生、あまりお酒のことばかり愚痴をこぼすと甘音さんに怒られますよ」
「そうそう、ガハラ様って先生には厳しいよね」
「それはそれとして忍愛さんのセクハラはあとでウカさんに報告させていただきます」
「クソー、しっかり覚えられてた!」
沈む夕日に照らされながら、おかきたちはなんとか平穏を守り抜いた学園へと帰っていく。
一時はあわや全滅の危機だったが、こうして今日も人知れず世界の平和は保たれたのであった。
「……さて、あとは理事長相手にもう一仕事ですね」




