第三章 らしさ ②
恋人を出迎える顔はしていなかったと思うが、彼は気にすることなく爽やかな笑顔で私に声をかける。
「偶然だな。仕事終わりかい?」
「ええ……」
「君ともっとじっくり話をしたいと思っていたんだ。なあ、夕ご飯、食べていこう」
じっくりも何も、私が話したいことはなかった。
彼からの軽薄なプロポーズは私の中でまだ残っている。それに失望も。
仕事でうまくいっていない時に、ウィリアムの顔を見たくなかった――。
と、そこまで考えて、すっと心が冷静になる。
そういう感情は、好きといえるのだろうか……?
「聞いているのか? こっちだ。早く行こう」
「あ、ちょっと」
ウィリアムは私の腰に手を回し、歩くのを急かす。
彼の大きな体に捕まると、ひょろりと細い私は簡単に連れ去られてしまう。
あれよあれよという間に、細い路地に連れ込まれ、ナイトクラブに入った。
店内に入ると、古びた油が壁に沁み込んでいるのか、ひどい匂いがした。
店内は男性しかいない。
大声で酒を飲みながら、フィッシュ&チップスを食べていた。
席に座ったけれど、早く、帰りたい。
店内のむさくるしさが、いたたまれなかった。
「なんでも好きなものを言ってくれ」
私の気持ちはお構いなしに、ウィリアムは自分だけメニューを眺めている。
こんなに自分勝手な人だったかしら?
フィンさんと比べると全体的に残念だ。
と、ウィリアムとフィンさんをごくごく自然に見比べている自分がいるのに、びっくりした。
フィンさんは、友人でも何でもないのに。
「メニュー決まったか?」
「……まだよ。あまり食べたくないの」
「じゃあ、僕が好きなものでいいな」
ウィリアムはフィッシュ&チップスを注文した。
テーブルの上に大きな魚のフライと親指ほどの大きさのフライドポテトが並ぶ。
ずいぶんと衣が厚く、油を吸い込んでいる。
胃もたれしそうだ。とても手を付ける気になれない。
ウィリアムは塩と胡椒、モルト・ビネガーをたっぷりつけて、フライにかじりつく。
私は諦めの気持ちのまま、水を一杯、飲んだ。
「なあ、セリア。結婚式はいつにする? 母が早く君に会いたがっているんだ」
「――はい?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
ウィリアムは油のついた指をなめながら、にんまり笑う。
「はいじゃないだろう? 君とは結婚するんだ。早めに両家の顔合わせ――といっても君には誰もいないから、身ひとつでいいよ」
あまりの言い草に開いた口が塞がらない。
「ちょっと待って……私、結婚の話を承諾していないわ」
「十分、考える時間はあった。君はおばあさまのことで、淋しい顔をしている。だけど、結婚すれば、すべて解決するだろう?」
「ねえ、待って。私、今、それどころじゃないの。今日、支配人からお休みするように言われててね」
「ちょうどいいじゃないか。式をして、新婚旅行に出かけよう」
目の前の男が、同じ人間と思えない。なにかへんな生き物に見えてくる。
「そういう訳にいかないわ。私はおばあさまからホテルを継いだのよ。その意味が分かる?」
「分かるさ。君はオーナーになって、ホテルの所有者になった。であれば、君がホテルにいる必要もない。家庭に入ればいいだろう?」
ウィリアムは口の端を吊り上げた。
「現場の従業員に任せて、オーナーは口を出さない。――よくある話だろう?」
カッと頭に血が昇った。
私は椅子から腰を持ち上げ、ウィリアムを見下ろす。
「オーナーが何もしないなんて! おばあさまは違ったわ」
――オーナーはホテルの所有者であると同時に、ホテルを尤も愛する人ではないといけないのよ。全責任がオーナーにあるのだから。
祖母はそう言っていた。私もその通りだと思う。
オーナーはただの肩書ではない。
怒りで震える私とは裏腹に、ウィリアムはやれやれと言いだしそうな雰囲気で両肩をすくめ、フライドポテトをつまむと口の中に入れた。
「また、おばあさま、おばあさまって……」
彼は肩を竦める。
「僕の母は不動産業をしているけど、下請けの業者にすべてを任せている。僕たちはホテルの所有者だ。ホテルの収入を得られればいいだろう?」
ウィリアムはナプキンで口を拭く。
「その収入で、働かずに優雅に暮らせばいいんだ。上流階級の人間は、みんなそうしている」
「⋯⋯私は上流階級のご婦人ではないわ」
「中流階級だって、みな優雅な暮らしに憧れているよ。誰だって、あくせく働くのは嫌さ」
ウィリアムはコップの水を一気に飲み干した。
「なあ、セリア。ホテルの収入を得て、家庭を持つ。女にとって一番の幸せじゃないか。何が不満なんだ?」
私は力なく椅子に座って、考え込んだ。
ウィリアムの言っていることは、一見、正しそうに聞こえる。
だけど、違和感がぬぐえない。
結婚はしたい。
子どもも、できればこの手に抱きたい。
けれど、今ではない。
「遺産に頼ったら……それは依存ではないかしら」
この先、もしかしたら私は生活に不自由はしないかもしれない。
このまま結婚して、子どもを抱いて、そういうのも幸せのひとつだ。
だけど、私は自立したいのだ。
「ホテルには出られなくても、私、何かしたいの。喪に服す時期だし……結婚はすぐにできないわ」
「喪に服すのも、祖父母なら九か月だろう? その間に、しなくちゃいけないことは山ほどあるじゃないか。新居を探すとか、新婚旅行先を決めるとか」
「……待って、私。今の家を出る気はないわ」
マーサもジョージもいるのだ。
彼らと離れて生活したくない。
「じゃあ、君は僕に婿になれというのか? 僕は長男なんだぞ」
「……私も長女よ……」
ウィリアムは苛立ったように片方の眉を上げた。
「はあ……いったい、君はいつまでおばあさまに縛られているんだい? 家もホテルも、僕らの結婚まで自分の思う通りにしたい。わがままだよ」
ぴしゃりと言い切られ、真綿で喉元を絞められたように、息苦しくなった。
ウィリアムはどこまでも理解せず、私を無遠慮に突き放すんだ。
もうダメだ……。
そう思った瞬間、するりと声が出た。
「……ウィリアム、別れましょう……」
もう彼と言い争いたくない。
私は傷つきたくもないし、彼を憎みたくもない。
すがるように言うと、ウィリアムは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「なんで、別れる話になるんだ!」
テーブルをバンと叩いて、ウィリアムが立ち上がる。
私は彼に深々と頭を下げた。
「お願いします……別れてください……」
でも、ウィリアムは分かってくれなかった。
「そんなことを言うなんて。君らしくないよ、セリア!」
視界の端で、注文票を握りしめながら出て行くウィリアムの姿が見えた。
ナイフとフォークをしまう音、椅子を引く音、誰かの陽気な笑い声。
店内のざわめきが聞こえて、波のように引いていった。
心が空っぽになって、吐き出すようにつぶやいた。
「……もう、ダメね……」
祖母やジョージが言った通りだ。彼とは考えがまるで違っていた。
それがようやく分かった。
今までは片目をつぶって、彼を見ていたのだろう。
全体的にダメなのは、私だった。
***
店を出てひとりで歩く。
空は夕やみ色をしていて、ガス灯から淡い光を灯している。
規則正しく、通りにある灯りの中を、夜を楽しむ声が行き交っていた。
酒場の扉は開かれ、誰かの歌手の声が店内から聞こえる。
空から太陽が消えていく。
夜が迫ってきて、私はその黒に溶けていくようだった。
振り返れば、私はずっと祖母が敷いたレールの上をトロッコのように走っていた。
脱線しても安全装置があるから、私がレールに投げ出されることはない。
それが当たり前で、私の未来はずっとレールに乗って運ばれていくはずだった。
でも、レールはなくなった。それに気づいて、私は途方に暮れている。
いいや、急に投げ出すなんてひどいじゃないかって、むしろ怒っている。
私は不安で、怖くて、淋しいのだ。
「おばあさま、どうして……」
――死んでしまったの?
女の子を助けるヒーローになんてなってほしくなかった。
ずっと、私のおばあさまでいてほしかった。
ウィリアムのことだって、こんこんと叱ってほしかった!
『ほら、見たことかしら? わたしは全体的にダメって知っていたわよ。馬鹿な子ね』
そう言って、抱きしめてほしかった!
いくら割り切った顔をしても、私は子どものままだ。
祖母のあたたかく力強い腕の中に帰りたくてしかたない。
「ああああ、ほんとっ……ダメっ」
祖母の善行を恨みそうになる自分が嫌いだ。
頭がぐちゃぐちゃのまま私はふらふらと歩き、気づいたら公園のベンチに座っていた。
公園には人けはなく、静まり返っていた。
ぼうっと見ていると、まるで絵画の一部になってしまったようだ。
私だけ、時が止まっていた。
「セリアさん……?」
ふと、静かな声が耳に届く。
ぼんやりとした頭で顔を上げると、ガス灯を背後にあわい輪郭の光をまとって黒い人が立っていた。
私はなぜ絵画が動くのか、ふしぎだった。




