第九章 おもてなし ③
私は手袋を脱いで、左手の甲を魅せながら、フィンさんに差し出した。
「あなたと一緒に見ると、お約束いたします」
これは誓いだ。
婚約もしていない男性の前で、素肌を見せるのは、不道徳な行為だろう。
だけど、私はこれが一番、彼に思いが伝わると思った。
フィンさんは目をぱちぱちとさせたあと、吸い込まれるように私の手を見た。
右手を添え、私の指を軽く曲げる。
私の爪を指でなぞり、触られている感覚にぞわぞわした。
へんな声をださないよう気を引き締めていると、爪に、彼の唇が触れた。
一瞬だけだ。自分の熱を伝えない。軽やかなキス。
敬愛をしめされ、私から指を離す。
私は口づけされた薬指の爪を見た。
目を閉じ、自分の唇を寄せる。
流れるようにそうした後、恍惚の息をはいた。
儀式のようなキスをして、彼を見ると、また口元を手で覆っていた。
焦っているような顔をしてまた「まいったな……」とつぶやいている。
でも、その言葉は照れているからかもしれない。
耳が赤いもの。
まるで両想いだ。
そう思って浮かれながら、私は彼にほほ笑んだ。
いつの間にか、深夜一時。
そろそろお暇しなければと思いながら、私は手袋をもう一度、嵌める。
コーヒーを飲み終わり、私は立ち上がった。
「そろそろ……」
そう言った時、くらりとめまいがした。ひたいに手をあてると、彼も立ち上がる。
「セリアさん?」
「ごめんなさい……少し、疲れてしまったみたいで」
昨日は寝不足で、今日も働いていた。疲れがたまったのだろう。
「もう大丈夫です」
そう言ったのに、彼は私の左手を右手で掬い上げた。
「今日は、お泊りください」
「えっ……」
ぽかんと口を開いた私に、彼は焦って指先を握る。
「あ、誓って。セリアさんの嫌がることはしません」
彼は背筋を伸ばし、手のひらを右のてのひらを見せた。
形式的なポーズに笑ってしまう。
「でも、お邪魔では」
「僕はソファで寝ます。ああ、ベッドを用意しますね」
指先を掴んだまま、私を誘導してくれる。
部屋の隅に置かれたベッドは白い清潔そうなシーツが敷かれていた。
彼は私から手を離し、シーツを伸ばしてベッドメイクする。
「どうぞ、お休みください」
まるで彼はホテリアだった。
隙のない、献身を受けたら私も身を委ねたくなる。
「使わせていただきます」
私はベッドに座り、体を横にさせてもらった。靴は脱がずに、くの時になったまま。
靴を脱いだら、それは……想像するのはやめておこう。
そうなったら、私は私を止められないから。
私はベッドの上でまどろみながら、フィンさんを見た。
彼はブランケットを肩にかけたくれた。
「おやすみなさい」
そうささやかれる。子守唄のように聞こえた。
暖炉のあたたかさ、コップを片付ける音。香る白檀。
事務机の上に、私があげたジンジャーマン・クッキーが見える。
編み上げ籠の中に一枚、ちょこんと入っていた。
5枚、包んだから、残りは食べてくれたのだろうか。
美味しく食べてくれたのかな。
大事にされていることが嬉しくて、胸がいっぱいになる。
多幸感に包まれて、まぶたが落ちてきた。
本当に、寝ちゃう。
フィンさんに寝顔を晒すのは、恥ずかしい。
でも、もう見られているし、今さらなのでは――とも思う。
彼のおもてなしに落とされ、私は意識を手放した。
【幕裏】 フィン視点
ブラシでコップを洗ったあと、レモンを絞った桶の中に、コップを沈めた。
すっぱい匂いが鼻をかすめ、動悸で弾んでいた心臓が、やや落ち着いていく。
このままレモンにかじりついて、冷静になってもいいのではないか――そんな、馬鹿なことまで思う。
ここまで感情が乱れるのは、セリアさんが来たからだ。
クロージット夫人の債務処理を引き受けて、それが早く審判が下るよう働きかけていたら、すっかり彼女と会える時間がなくなってしまった。
その間、手紙のやりとりをして、ついつい僕は感情的になってしまった。
ジンジャーマン・クッキーをもらったことも、それが僕をイメージしてくれたことも浮かれたし、最後の一枚は惜しくて、まだ机の上に飾ってある。
彼女のためにしていることなのに、彼女に会えないことが、これほど辛いものとは思わなかった。
「会いたいです。」と手紙に書かれた時は、時と場所を考えずに会いに行ってしまった。
どうやら僕は、セリアさんという存在に、途方もなく癒されていたらしい。
好きだとは思っていたけれど、こんなに愛しくなるとは思わなかった。
それに、彼女も僕も思ってくれているような気がする。
とろける翡翠の瞳、もの言いたげに開く薄い唇。
赤い薔薇のように色づく頬。
そして、熱心に僕を見る眼差し。
あれをされたら、意識されていると否応なしに思い知らされる。
セリアさんは気づいていないかもしれないが、彼女はもともと可憐な魅力がある。
固く閉ざしていた蕾が、自分にだけ花開いたら、誰だって理性を飛ばす。
今の僕のように。
紳士の仮面が剥がれ落ちていないか心配だ。
だって、今もほら。
口元に手をつけると、自然と口角が持ち上がっている。
きっと彼女の前で僕は、だらしなくにやけているのだろう。
「……まいった。一線を超えたくなる」
何もかも秘密にできる空間に、彼女を留めたのは失敗だったのかもしれない。
眠れないし、彼女に触れないよう、自制できるのか。
それが問題だ。
セリアさんはウィリアム氏との関係で、強引な男は嫌だろう。
僕も彼女を泣かせたくはないし、傷つけたくはない。
でも、僕は今、彼女に触れられる距離にいる。
彼女の整えられた爪に、キスしたとき、あまりの甘美さにくらりときた。
あのまま陶酔して熱情に呑み込まれていたら、僕は――。
その先のあまりに生々しい妄想が頭に浮かんで、眉間にしわを寄せる。
それを指で軽くもみほぐし、半切りになって皿の上に置いてあるレモンに目を向けた。
「……レモン。かじるか」
あの酸味を口に含んだら、また紳士の仮面を被れそうだ。
期待してレモンを掴み、無作法だが、舌を出してレモンの搾り汁を垂らす。
「……酸っぱくないな」
物足りない酸味に、嘆息した。
僕は絞って形が崩れたレモンを皿の上に置いた。
キッチンから出て、書斎に戻ると、静かだった。
物音ひとつしない。
セリアさんの気配がしないことに驚いて、早足でベッドに近づく。
でも、それは間違いだった。
「……可愛い」
思わず本音が漏れてしまうほど、セリアさんは安心しきって寝ていた。
一度、見た時は彼女の家だった。
でも、今は誰に気を遣うこともない。
彼女の無防備な顔を眺めていられる。
数分だけだから。
そう言い訳しながら、彼女の目線を合わせて、顔を覗き込んだ。
「んっ……」
彼女の口からかすかに吐息がもれ、とろんとした瞳が薄く開く。
目が合ったことに驚いて、意識が固まる。
ともすれば、キスできそうなぐらいの距離だ。
彼女は僕をぼんやりと見て、唇を動かした。
「フィン、さん?」
次の瞬間、花束のような笑顔が、視界いっぱいに広がった。
「フィンさん……」
幸せそうに呼ばれて、ピシャンと小さな雷に打たれたような衝撃を受ける。
だめだ、これ……キスをしたくなる。
「セリア……さん」
彼女の愛らしい隙に付け込んで、その唇を重ねたくなる。
嫌なことはしない、という誓いを破ってしまいそうだ。
「あまり無防備な顔をしないでください……」
荒い息を吐きだしながら、彼女に言う。
「僕は、男です。……あなたは、女です」
その笑顔は甘美な毒だと教える。
でもセリアさんはふわふわの笑顔のまま瞳を閉じてしまった。
規則正しい寝息が聞こえだす。
それに打ちのめされ、体が震えた。
笑顔の破壊力を引きずって、僕はまだドキドキしているというのに。
彼女に、僕の声は届いていない。
それが少しばかり悔しくなってしまった。
眉根を寄せ、彼女の帽子に唇を寄せる。
黒いドレープに口づけした。
「その笑顔を見せるのは、僕だけにしておいてください。守りますから」
最低な男になりたくはないのに、僕は彼女が欲しかった。




