第九章 おもてなし ②
フィンさんの事務所の前まで、馭者に送ってもえた。
私は丁重に彼にお礼をいい、事務所であるアパルメントへと向かう。
深夜だった。
静まり返った鉄の階段を上がっていくと、自分の靴音が響いて聞こえた。
一〇一号室。いつか尋ねたいと思っていた彼の事務所だ。
彼はいるだろうか。
扉の横にある窓から、小さな光が見える。
突然の訪問を彼はどう思うだろう。
迷惑かもしれないが、今は、ただ、会いたい――。
私は緊張で心音を高鳴らせながら、呼び鈴を押した。
ジジジと小さな音が扉の奥で鳴る。
両手を組んで待っていると、扉の向こうで、がちゃがちゃとチェーンを外す音が聞こえた。
扉が前に開かれる。
思ったよりも勢いがよくて、私は後ろに下がった。
「セリア……さん……」
黒い瞳が大きく見開かれている。
白いシャツ姿で出てきたフィンさんを見て、きゅうと心臓が痛んだ。
どうしよう。泣きそうだ。
「何か……ありましたか……?」
心配そうに声をかける彼に、私は口を開いた。
白く舞い上がる息を吐きだして、涙を振り払うように一度、うつむく。
「……セリアさん?」
私は一歩踏み出し、ドアを開いたまま無防備でいる彼の体に飛び込んだ。
掴んだ彼の白いシャツから、白檀の香りがする。
どうしようもなく焦がれた香りが、私の腕の中にある。
私がそんなことをすると思わなかっただろう。
それなのに、彼は勢いよく抱きついてきた私を、両手で受け止めてくれた。
背後で、バタンと扉が閉まった。
彼のシャツにしがみつきながら、私は鼻を鳴らしながら、謝った。
「きゅうに……ごめんなさい」
彼は私の背中に腕を回した。
「……いいんです」
その声を優しさに、目がツンとした。
甘えてしまい、顔をシャツにうずめて、彼の匂いに浸る。
線の細い印象がある彼からは想像ができないほど、逞しい体だった。
大きくて包まれていると、安心する。
夢心地のままに顔をあげると、見下ろした彼は苦しそうに眉間にしわを刻んでいた。
「……大丈夫ですか?」
心配そうな瞳を見て、ハッと我に返った。
「あっ……」
私は何をしてしまったのか。
これでは、私にまた何かあったのではないかと謝解される。
実際にはあったけれども。ええっと。
私はおずおずと首を竦めて、彼から離れた。
「きゅうに、あのっ……ごめんなさい」
熱にのぼせてしまい、私は思わず黒い帽子を脱いでしまった。
私、支離滅裂だ。
それでも彼は、扉のチェーンをかけながら、私の言葉を待っていてくれる。
「どうか、されましたか?」
穏やかに下がっている眉を見ながら、私は帽子を握りしめた。
――あなたが恋しくて。
という思いを隠しながら、ラズール伯爵夫人から聞いた話をフィンさんにした。
「フィンさんが私を守るために、債務処理を引き受けてくれたと思って……それで私っ」
まくし立てるように言ってから、顔を上げてフィンさんを見た。
彼は口元に手をあてて、困った顔をしていた。
ほのかに明るい部屋の中で、彼は私から目をそらして、つぶやいた。
「……まいった……な」
そのつぶやきに、浮かれていた心が、すんと落ち着いた。
完全に、困らせている。
やっぱり、同情してやってくれたんだ。
律儀な方だから。
ちくりと胸が痛んで、そこから傷口が広がっていく。
痛いのは、私の片思いだからだろう。
「ここまでしてくださらなくて、よかったのに……でも、ありがとうございます」
私は帽子を被り、淑女の礼をした。
フォーマルな礼をして、思いに線を引こう。
「それを言いたくて……夜遅くに、申し訳ありませんでした」
穏やかにほほ笑む。
百点満点ではなくても、及第点ぐらいには笑えた。
「それでは失礼いたします」
ふわっと声を出すと、フィンさんが私の手首を掴んだ。
咄嗟の感触に、びくっと体を震わす。
彼はハッとした顔をして、すぐに手を離した。
気まずそうに私から視線を逸らす。
「……失礼なことを」
「……いえ」
「セリアさん、帰らないでください。僕の話を聞いてください」
切実そうな声で言われた。
潤んだ瞳に、冷えた心に熱を灯しながら、私は首を縦に振った。
彼はほっとしたように眉を下げる。
「コーヒーを淹れます。僕も少し、落ち着きたいので」
再びこくんとうなずき、私は部屋の中に案内された。
フィンさんの事務所は、少し雑然としていた。
壁の一面は、天井まである本棚。
所せましと本が詰め込まれている。
オークの床には毛足の長い絨毯がしかれ、ところどころ、本が置きっぱなしになっている。
執務机の上は、紙が散らばって、万年筆が転がっていた。
「散らかっていて、すみません」
彼はそう言いながら、床に置いたままの本を拾いあげ、テーブルに置いたままのコップを持ち上げ片付ける。
クッションの位置を直して、私にどうぞと声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
私はソファに腰をかける。
コルセットに体重を乗せて、背筋を伸ばした。
ぱちぱちと火が爆ぜる音がする。
フィンさんは小さくなっていた暖炉に炭を足してから
「コーヒーを淹れてきます」
と言って、隣の部屋に行ってしまった。
私は改めて、部屋を見渡す。
甘くウッディな白檀の香りがする。
ほぅと息を吐いて、その香りに身を預ける。
緊張はゆるんでいき、自分がこの部屋の家具のひとつになったみたいだった。
やがてフィンさんがお盆の上に、コーヒーのマグカップをふたつ、シュガーポットとミルク瓶を乗せて帰ってきた。
テーブルにお盆をおき、マグカップのハンドルを私の聞き手に向ける。
「どうぞ。お好きなだけ、ミルクと砂糖を入れてください」
シュガーポットの蓋を指でつまむと、茶色い角砂糖が入っていた。
私は一つを取り出し、マグカップに落とす。
ミルクも少し淹れた。
その後にフィンさんが、角砂糖をふたつとミルクをたっぷり淹れる。
コーヒーが冷めるのではないかと思うぐらい、ミルクを淹れていて、私は口元に手をあてて噴き出してしまった。
「フィンさんは、甘党でしたね」
彼は照れ笑いを浮かべる。
「コーヒーの味は好きなんですけどね」
「まあ、ふふっ」
空気が穏やかになごんでいく。
私はコーヒーを飲んだ。
芯まであたたまるような苦みと甘みだった。
目を細めて、心地よさにたゆたっていると、フィンさんがカップを置いて、話し出した。
「セリアさん。僕はヘレンさんに、彼らのことを託されていました――」
そう言って、彼は祖母がクロージット家の素行調査を依頼し、もしもの時に備えていたこと話してくれた。
それを聞いても、ふしぎではなかった。
祖母ならやるだろうと思うし、むしろ、私の過ちを叱ってくれているような気がする。「馬鹿ね」って、優しい声で。
「おばあさまったら……」
私を、本当に愛してくれていたのだ。
私はすんと鼻を鳴らしながら、コーヒーを見つめた。
「ヘレンさんに託されたのは、事実です。だけど、勘違いなさらないでください。彼の債務を引き受けたのは――僕の意志です」
真剣な黒い瞳が、私を射抜いた。
「僕は、あなたが歩く道を照らしたかった」
厳しい眼差しが、ふわりとやわらぐ。
「本当です」
愛しさを込めて言われて、心臓が痛いくらいに高鳴る。
誠実すぎる、まっすぐな言葉だ。
どこまでもこの人は、弁えている。
彼に比べると、自分はなんて子どもなのだろう。
私は思わず、口元を隠して、震えながら手のひらに息を吐きだした。
泣かない。泣いたら、本当に甘えだ。
「わ、たしっ」
それでも声の震えは止まらなくて。
歓喜と切なさが、ないまぜになった感情を持て余す。
「……フィンさんに、なにも返せない」
これだけのことをしてもらった。
それなのにどうやって返せばいいのだろう。
思いを伝えても、彼の善意にはとうてい足りない。
「返してくれるなら……」
彼はぽつりとつぶやくように言った。
しばし逡巡したあと、熱っぽい目で見られる。
「すべてが終わったら、僕と一緒にヘレンさんの遺言書を見てくれませんか」
思ってもない言葉だった。
「一緒に見る権利が欲しいです」
低くしんしんと降り積もる雪のような静かな声に、体が震えた。
「それだけで、いいんですか」
「充分です」
目を伏せて、落ち着いた声で言われてしまい、私はうつむいた。
彼の気持ちに、答えたかった。
黒い手袋に包まれた自分の手を見る。
おばあさま――。
心の中で祖母に謝った。
今だけ。私、黒を脱ぎます。




