第五章 温度 ⑤
夜の道を、フィンさんと歩いていく。
ガス灯の明かりが、今日はいつもより優しく感じるのは、お客様に対して満足できるサービスができたからだろう。
火照った頬に冷たい風が心地よい。
私はお酒でも嗜んだかのように、浮かれながら彼に言った。
「今日は遅くまでありがとうございます。おかげさまで、お客様にも満足していただけました」
「それはよかった。食事はまた、今度にしましょうか」
「あ……」
私はスカートのポケットから懐中時計を取り出す。
すっかり遅い時間だ。
「ごめんなさい。私、夢中になってしまって」
「いいえ。ホテリエのセリアさん、かっこよかったです」
風のような声で言われ、急に恥ずかしくなった。
嬉しい。フィンさんに言われると嬉しさが二倍になる。
「……かっこいいって言われたのは、はじめてです」
「第一号は僕ですか。光栄です」
その言葉のスマートさもまた、風のようだ。
私はふしぎになりながら、彼を見ていた。
どうしてこの人は、こんなにも優しいのだろう。
心に負担をかけない話し方をするのだろう。
年上だから?
彼が完璧すぎて、気後れする。
素直な言葉を、受け止めればよいのに。
こんな時、自信のなさがひょっこりと顔を出す。
せめて、嬉しいことだけは伝わるよう、私は満面の笑みを彼に向けた。
***
家の玄関まで来た。彼は持っていた袋を差し出してくれた。
「りんご、食べてください」
「ありがとうございます」
「じゃあ、また」
彼は中折れ帽を取って、踵を返す。
「あ、あの!」
気が付いたら、声が出ていた。彼が振り返り、黒い瞳と目が合う。
次の言葉を考えていなかった私は、ぐっと口を引き結んだ。
彼が「どうしましたか?」と目を細めて尋ねてくる。
「あの……また、家に来てくださいますか?」
とくん。とくん。規則的にリズムを刻む心音を感じながら、私は彼に言う。
「一緒に夕ご飯を」
そう言うと、彼は笑顔になった。
「嬉しいです。ぜひ」
彼はしっぽを振る子犬みたいな笑顔になった。
そしてまた中折れ帽子のつばを持ち上げると、今度こそ彼は歩き出してしまった。
その影が小さく、夜に消えていくまで私は見届ける。
今日という日の余韻を感じながら、家の中に入った。
「まあ、お嬢様。ずいぶんと遅いお帰りでしたね」
ぱたぱたと駆け寄りながら、マーサがやってくる。
何もやましいことはしていないのに、私は慌てて結い上げている髪をなでた。
「お客様に接客をしていて、遅くなっちゃったわ」
「まあ、それではフィン様とはお会いになれませんでしたの?」
「ううん。……会えたわ。手伝ってくれて送ってくれたのよ」
「まあ、まあ、まあ!」
マーサがパチンと両手を叩く。
「これ、フィンさんからいただいたりんご」
布袋を渡すと、マーサは満面の笑みで受け取った。
「よく熟れたりんごでございますね。それで? フィン様はお帰りに?」
「えっ、ええ。もう遅いし」
そう言うと、マーサはあからさまに眉を下げた。
「そうでございますか。今晩はせっかくのごちそうでしたのに」
「ごめんなさいね。私、食べるから」
「ふふっ。ほどほどでようございます」
すぐにころころと笑い出したマーサにほっとする。
「あのね。今度また、フィンさんが家に来てくださるって」
「まあ!」
マーサはぴょんと飛び上がりそうなぐらい驚いた。
「それでしたら、このマーサがうんと美味しいものをこしらえますからね」
マーサはそう言って、上機嫌でりんごを持っていってしまった。
それから支度を終えた私は、ダイニングで夕ご飯をいただいた。
マーサやジョージは、私のそばにいるけれど、ふたりが同じテーブルに着くことはない。
ふたりはずっと立って、私の話し相手になってくれる。
ひとりで食事をするのは、もう慣れたこと。慣れなくてはいけないこと。
それなのに、フィンさんが対面にいることを想像すると、ふわっとガス灯のように心が明るくなる。
彼に会える日が待ち遠しかった。
***
お客様の対応をして二日後、支配人から御礼カードを手渡された。
「……この前、来たジョン様からです」
「ジョン様……あ」
バックパックを背負った青年のことだ。カードにはこう書かれてあった。
――御礼カード
客でもないのに、親切にしてくだってありがとうございます。御恩は一生、忘れません!
――ジョン・アームズ
復帰して、はじめて貰った御礼カードだった。
御礼カードはホテリエの勲章だ。
金のひとつ星が、きらきらと輝いて見える。
お客様に、最高のおもてなしができた。認めてもらえた!
その歓喜で顔が火照ってきた。
「……嬉しいです」
「頑張りましたね。おめでとうございます」
支配人の笑顔に、自信がついていく。
私は、ようやくホテリエに戻れた。
「もう一枚あります。相手に渡していただけますか?」
それはフィンさん宛てのものだった。
「はい! 必ず」
声を出して言うと、支配人が穏やかに笑った。
次の週末、フィンさんが家に遊びに来てくれた。
艶の消えたダークスーツはいつものことだけれど、胸に鮮やかな花束がある。
黄色とオレンジ。秋を感じさせるダリアの花束だ。
「今日はお招きいただきまして、ありがとうございます」
彼が私に花束を渡す。顔を近づけると、ダリアから控えめな香りがする。
「きれい。ありがとうございます」
彼は中折れ帽子を外して、部屋の中に入った。
その日の夕食のメニューは、野菜のスープ。肉料理はチキンのローストで、デザートにはアップルパイにアイスクリームが乗っていた。
「とても美味しいです」
フィンさんがほほ笑みながら、私の対面にいた。
私は彼といる空気に酔いしれた。
私たちが奏でる食器の音。コンソメの豊かな香りに、お肉の香ばしい匂い。
それらに交じり合い、彼とステップを踏むようにおしゃべりをする。
会話が途切れない。明るい笑い声が、ずっと続いている。
ああ、いいな。温度がいい――。
彼がまとう空気、笑み、声の低さ。それらすべて、居心地がいい。
ホテルでリラックスしているときみたいだ。
彼がいるだけで家がぐっと広く、明るくなる。
マーサは朝から上機嫌だし、ジョージだって眉間に刻むしわがない。
私のあたりまえに、彼がいても、あたりまえになっている。
「セリアさん、どうしましたか?」
「え……?」
「僕の顔に何かついていますか?」
「あ……」
気づいたら、彼をじっと見すぎていた。料理は終わって、今は食後のデザートタイムだ。
「いえ……フィンさんといると、楽しいと思って……」
そう言うと、彼はくしゃっと顔をほころばせた。
「僕も楽しいです」
彼が笑う。それだけで、心が華やぐ。
私は甘酸っぱいケーキを食べながら、御礼カードの話をした。
ハンカチに包んだ御礼カードをフィンさんに手渡す。
フィンさんは驚いて、カードを見て笑った。
「……りんご、喜んでくれたみたいですね。よかった」
じっと嬉しそうにカードを見つめて、フィンさんははぁと息を吐きだす。
「嬉しいものですね。御礼カードって」
「ええ、とっても嬉しいものです。よく頑張りましたって自分をほめたくなります」
私が笑うと、フィンさんも笑う。いつまでも心地よい笑顔が夜に溶けていった。
でも、そんな幸せは、彼が帰った次の日に、一瞬で打ちくだされた。
その日、私は仕事が終わり、家の近くを歩いていた。
郵便を配達してくれる少年から、電報を受け取り、私は家に帰った後、中を確認した。
「…………なに、これ……」
ウィリアムからだった。
電報には、恨みつらみがしたためられていた。
『知らない男とデートしているんだな。浮気か。そんな女だと思わなかったよ。』
電報を持つ手が震え、気持ち悪さが全身を包む。
ウィリアムは、フィンさんとの外出をどこかで見ていたらしい。
そして勘違いして、指摘してくる。
「最低……っ」
言葉に出しても怒りが収まらない。
フィンさんとの安らぎを、無作法にインクを巻かれたようだ。腹の底が熱くなる。
どうしてウィリアムは、私を追い詰めることしかしないのだろう。
こういうところが嫌だから別れたいのに、なぜ、分からない。
私が何をした?
「なんで、私ばっかりっ……!」
傷つけられなくはいけないのだろう。
なぜ、ウィリアムは分かってくれないのだろう。
もう嫌だ。彼に振り回されたくない。彼のことで頑張りたくない……。
悔しくて涙が目元までこみ上げてくる。
頭の中はぐちゃぐちゃで、顔ばかりが熱くなる。
それを冷やしたくて、私は部屋の窓を開いた。
冬の寒さを孕んだ、凍てつく風が私の肌を刺す。
顔が痛くて、余計にみじめだった。
肌は粟立つのに、体の芯は火照っている。
暑いのか、寒いのか。
自分の温度が分からなかった。




