第五章 温度 ①
週末、フィンさんが家に迎えにきてくれた。
事前に電報をもらっていた時間よりもほんの少し早い。
その日の朝、私はいつものように喪服を着た。
祖母が亡くなって、まだ四カ月。喪に服す期間だ。
出歩くのには、華やかさはないけれど、フィンさんの姿を見て、私たちは気が合ったと思った。
彼は今まで通り、艶の消えた黒いスーツを着てくれる。
同じように祖母を悼んでくれているように感じた。
「こんにちは、フィンさん」
彼はまなじりを柔らかく下げて、ほほ笑んだ。
「こんにちは、セリアさん。行きましょう」
風のように涼しい声を出して、彼は玄関アプローチを歩いていく。
芝生の中に埋め込まれた石を踏み、蔦の生えた石垣を抜けて歩道に出る。
ふと彼は足を止め、右の方向を指さした。
「あちらです。歩いていきましょうか」
「ええ」
フィンさんが歩き出すと、目の前を馬車が過ぎていく。
反射的に体が固まった。
足を止めた私に、フィンさんが腰を屈める。
「大丈夫ですか?」
心配そうな声だった。
私はこくこくうなずく。
まだ心臓が大きく脈打っていたけれども、そっと息を吐くように言う。
「……大丈夫です」
せっかくフィンさんが誘ってくれたのに、ここで帰るのも嫌だ。
あいまいに笑うと、彼の表情は曇ったままだった。
彼はひょっとしたら馬車がトラウマなのに気づいてくれたのかもしれない。
「無理しないでください」
そう優しく言われたけれど、私はうつむいて首を横に振った。
「引き返したくないのです……」
私は歩道に長く伸びる、ふたつの影に目を細める。
「フィンさんとなら、歩き出せそうな気がします。一緒にお店まで行ってくださいますか?」
すると彼は穏やかにほほ笑んで「分かりました」と言って左肘を軽く曲げた。
「お手をどうぞ。一緒に歩きましょう」
私は体重を預けないで、そっと彼の腕に手を置く。
そのまま、私たちはゆったりと歩き出す。
竦んでいた足が、一歩、前に出た。
フィンさんと歩いていると、たっぷりのお湯を張った湯殿に浸かっているみたいに、緊張がほどけていく。
迷子になることはなく、大通りに出た。
古いジャケットを着込んだ呼売人は、しきりに「ジンジャー・クッキーはいかがですか!」と叫んでいる。
雑踏の中、二階建ての馬車が走ってくる。
彼は私に馬車を見せないようにするためか、顔を寄せてきた。
ふいに距離が縮まって、どきりとする。
「あの赤い屋根の店です。行きましょう」
「ええ……」
彼を見たら、涼しい顔をしている。私ばかりが意識しているみたいだ。
へんな顔をしないようにしないと。
フィンさんが先に、艶のある扉を開き、開いたまま私をお店に招き入れてくれる。
そっと中に入ると、甘い香りが店内から漂ってきた。
顔のパーツ、ひとつひとつが大きい愛嬌たっぷりの店員さんが、私に笑顔を向ける。
「いらっしゃいませ。窓側の席にどうぞ」
彼は私と目を合わせ、ほほ笑むと、窓際の席に向かった。
その後ろ姿を見ながら歩くと、彼が椅子を引いた座らずにテーブルの横に立っている。
座ってという合図だろう。
「ありがとうございます」
先に座らせてもらい、椅子を引くときに彼が手を貸してくれる。
彼は対面に座り、テーブルの上にちょこんと置いてあったメニューを取った。
小さな紙のメニューを見せながら、私に話しかける。
「僕はかぼちゃのトライフルにします。セリアさんはどうしますか?」
メニューを見ると、イチゴ、ベリーと数種類のトライフルが書かれてある。
かぼちゃは新作らしい。
「私も同じもので」
「飲み物は紅茶で?」
「ええ」
「分かりました」
そう言って、彼は店員さんに向かって手を上げた。
すらすらとよどみなく注文する。
それにポーっと魅入ってしまった。
ウィリアムとぜんぜん違う。
フィンさんは、丁寧で私を気づかってくれる。
「どうしましたか?」
穴が開くほど見ていたせいか、フィンさんが話しかけてきた。
ウィリアムと見比べていることは言えるわけもなく、私はあいまいにほほ笑む。
「フィンさんといると落ち着くなと思いまして」
彼がぱちぱちと瞬きをする。
そのきょとんとした顔が可愛らしくて、苦いものが消え、本当に笑いたくなった。
「フィンさんといると安心できます」
嬉しそうに彼がはにかむ。
「それは光栄です」
その笑みに、小さく胸が高鳴った。
「お待たせいたしました!」
銀のトレイにトライフルをのせた店員さんが元気な声を上げた。
テーブルの上に、ガラスの器に入ったトライフルと、ティーセットが並ぶ。
スポンジケーキや、フルーツ、カスタードクリーム、ゼリーなどを層状に重ねて作るデザートに目が輝いた。ここのトライフルは、ペーストしたかぼちゃの上にたっぷりの生クリームが乗っていた。
「いただきましょうか」
「ええ」
スプーンで掬い上げて口に運ぶと、生クリームが舌の上で消えて、かぼちゃの素朴な甘さが喉を滑り落ちていく。
「美味しい……」
ほぅと息を漏らしながら、呟いて彼を見る。
彼はとても真剣な眼差しでトライフルを食べていた。
ひとつひとつの素材を確かめるように、口の中で味わっている。
私の視線に気づいて、彼は気まずそうに目を泳がせた。
「……美味しいと、無言になってしまって……すみません」
「まあ」
可愛らしく目を据わらせる彼。私はふふふっと笑ってしまう。
「あなたと一緒に食べても楽しくないって言われるんです」
「そうなのですか? 私は楽しいです」
心から、そう思う。
「トライフル、美味しいですね。パイ生地もサクサクで」
「そうですよね。この軽さがやみつきになります」
前のめりになって彼が言う。
また気まずそうに体をゆらしながら、席に座り直す彼を見て、私は口元をおさえて、軽やかに笑う。
「本当に、いくらでも食べられそうですね」
彼は安心したように眉を下げて、「ええ」とほほ笑んだ。
それから、彼は饒舌に甘いものについて話だした。
彼は私を気づかって誘ってくれたのかと思った。
でもそんなことはない。彼は本当に甘いものに目がないらしく、語るときは真剣な目をしていた。
彼が話すメルティング・モーメントは、口の中でほろほろっと蕩けるビスケットだと感じた。
レモン・メレンゲ・パイは雲のようにふわふわのメレンゲがたっぷり乗っていて、レモンの爽やかさが心地よさそうだった。
彼が語るお菓子たちのパレードに、心、躍る。
「どれも食べてみたいですね」
ほぅと息を漏らしながら言うと彼はまた前のめりになって目を輝かせた。
「なら、また行きましょう。案内しますから」
溌剌とした笑みに引き込まれる。
「……私がお付き合いしていいんですか?」
「もちろん。友人には行き過ぎて呆れられているんです。それに、僕はセリアさんと――」
そう言って、彼はひゅっと息を呑む。
次の言葉を飲み干して、あいまいな笑みを口元に浮かべながら、私から視線をそらす。
「今、とても楽しいです。お菓子を食べて、こんなに笑ったのは久しぶりなんです」
彼が顔を上げる。その瞳はわずかに潤んでいて、細く伸びる光を掴むようだ。
「あなたとまたお菓子を食べたいです。一緒に行ってくれませんか?」
かすれるような声に、胸が高鳴った。行きたい。また、彼に会いたいと素直に思ってしまう。
私は自然と口角を持ち上げ、大きくうなずいていた。
「ええ。楽しみです」
それから、私は休日のたびに彼と店をめぐるようになった。




