第四章 ぬくもり ②
本日、記念日のため、9話更新しております。読み飛ばしにご注意くださいませ。
「お嬢様はきちんと、ウィリアム様にお別れを言えました。ご立派です」
「……そんなことないわ。分かってもらえなかったもの」
「わたしは逃げました。きちんとお別れを言えばよかったと、ときどき思いますわ。それだけが心残りですね」
マーサはまた刺繍を始めた。
白い布に紫色のラベンダーが、描かれいく。
「後悔は少ない方がようございます。でも、後悔のない人生も味気ないものですね」
私の体を優しくもみほぐすような言葉だった。
マーサから何度も何度もひたいに、優しくキスされているみたいだ。
このままでいいんだよ――と受け止めてもらえてる甘美さがある。
私は母親を知らないけれど、マーサを見ていると、お母様って、こんなにあたたかいのかもしれない。
「……本当に、その通りね」
ウィリアムのことは後悔でいっぱいだ。
過去に戻ってやり直せるとしたら、私はウィリアムと出会ったあの日に戻って、全力で自分を説得する。
「その男はダメ」って。
祖母みたいに眉を吊り上げて、何も知らない私にこんこんと説教するだろう。
でも、時計の秒針は今もカチカチと音を出しているし、私は、進むときの流れにたゆたいながら生きるしかない。
私は手を止めていた刺繍を始める。
白い布にラベンダーを咲かせていくと、自然と笑みがこぼれた。
やっぱり、あまり上手ではない。
そんな欠点もまた、自分らしいのだろう。
「マーサのこと、聞けて良かった」
「それはようございました」
刺繍をしていると、シャッキンと小粋な鋏の音が聞こえてきた。
顔を上げるとあけ放たれた窓の向こう側に、カンカン帽を被ったジョージの姿が見えた。
出入りしている庭師は、けっこうなお年のおじいさまでジョージが庭仕事を手伝っていた。
今日は自由に葉を伸ばしているオークの剪定をしている。
私の視線に気づかず、ジョージは眉間にしわを寄せて難しい顔をしている。
そんな彼を見ていたら、ジョージのことも知りたいなと思った。
ほほ笑みながら刺繍をしているマーサを見て、声をかける。
「ジョージはどうしてうちに来たのかしら……マーサは知っている?」
「ええ。存じ上げておりますよ」
マーサは手を止めずに、柔らかい声で語ってくれる。
「ジョージさんが来たのは……」
そう言いかけてマーサが顔を上げて、口を結んで遠くを見つめた。
物思いにふけるような顔をして、私の方を見る。
「お嬢様のお父様、お母様の訃報を届けてくれたのが、ジョージさんでした」
思ってもいない繋がりに、私は小さく息を呑む。
顔が強張ったのだろう。マーサがほぐすように優しく私の頬を撫でた。
耳から顎まで、ふわりと撫でられ、私は肩をそっと下げる。
そのタイミングを見計らって、マーサは手を下げた。
「ジョージさんは軍人でした。今は退役なさっていますが、お父さまとお母さまが亡くなるまで紛争地帯の医療テントを守っていたのは彼だったそうですよ」
「……そう、だったの……」
私はマーサから視線を外し、ジョージを見る。
彼が軍人。
カーキ色の軍服に身をつつみ、黒いベルトを腰に巻いたジョージを想像してみた。
よく似合っていた。
二歳の頃、亡くなってしまったから、わたしにとって両親は、声もぬくもりも知らない人たちだ。
だけど、祖母はとりおり両親の肖像画を見ながら、ふたりのことを話してくれた。
祖母と両親たちがどんな生活をしていたのか、私は想像するしかない。
けれど、祖母の中に生きている彼らは陽気で楽しい人たちだった。
祖母やマーサが訃報を聞いて、どれだけ心を痛めたのだろうか。
「おばあさまもマーサもショックだったわね……」
「ええ、そりゃあもう。ヘレン様は手が付けられないほど暴れておりました」
軽い調子で流すマーサに、ふっと笑ってしまう。
「当時、ジョージさんは後悔しておりましたわ。ご両親を守り切れなかったと、おっしゃっていました。こんなことになった国への反発も強かった。そんな彼を見て、ヘレン様は彼の心意気が気に入ったから、私の手伝いを死ぬまでやりなさいっておっしゃりましたの」
死ぬまで手伝えとは。祖母らしい豪胆さだ。
「ジョージは……おばあさまとの約束を果たしているのね」
彼は祖母の約束のためにここにいる。
祖母がいなくなった今、彼が変わらずいてくれるのはどうしてだろう。
もしかして――。
「おばあさま、ジョージに死ぬまで私を見守れとか言ったんじゃない?」
そう考えると、辻褄が合ってしまう。
「さあ、どうでございましょう? ジョージさんに聞いてみればよろしいんじゃないですか?」
枯れ枝を鋏で剪定しているジョージを見ながら、両肩をすくめた。
「……話してくれそうにないわ。ジョージの鉄仮面を崩せる気がしないもの」
「ジョージさんはよく笑いますよ」
「え? そうなの?」
ぎょっとしてマーサを見ると、リズムよく刺繍をしていた。
窓を見ると、ジョージはいなくなっていた。剪定が終わったようだ。
私は気を取り直して、刺繍を始める。
しばらくすると、カツカツと靴音が近づいてきた。私は腰をひねって後ろを見る。
ソファの向こう側に、袖を腕まくりしたジョージがいた。
ぱちりと目が合い、彼はそのまま私の方へ早歩きで近づく。
「お嬢様、どうかなされましたか?」
腰を少し曲げて、冷徹なジョージの顔が近づく。
ポマードで一分の隙もなく固められた髪。めくられた袖から見えた腕は太くて、元軍人というのも納得の逞しさだった。
「あのね……」
ジョージの眼光で見下ろされると、叱られるんじゃないか、という怖さが先立つ。
実際、私はジョージにこんこんと叱られるとぐうの音も出ない。
「な、なんでもないわ……」
「そうですか」
あっさりと言ってジョージは靴音を鳴らして去っていく。
部屋から出て行くのを見届けたあと、私はマーサに言った。
「ねえ、マーサ。ジョージはよく笑うの? ほんとう?」
私が聞いてもマーサは肩を震わせながら、笑いかみ殺しているだけだった。




