転機の日 4
家に着いた。中には年配の女性が若い女性の手を握っていた。若い女性はお腹が大きくすぐに妊婦だと気付いた。
(出産を見るのか)
そんな呑気なことを考えていた彼の目に飛び込んだのは、松本が眉間に皺を寄せ急いで歩み寄る姿だった。
「もう陣痛か?!」
「はい、これ以上はこの子は持ちません」
「何故知らせに来なかった!」
「知らせに行って、誰もいなくなったらそれこそどうするんですか!」
「かぁー! こんな時に旦那も仕事かよ! おい!」
松本は坊主の頭をわしわしと掻くとくるりと振り返り祐樹を見た。
「今すぐ適塾から俺の作った麻酔薬を持ってこい! 門下生なら場所がわかる!」
「えっ……」
「こいつは逆子なんだ。下からは生まれられねぇんだよ! 生まれちまうもんなら母親も子供も天国に行っちまう。腹を切って取り出す。急げ!」
これが事の展開だった。
祐樹は持ってきたお茶を片手に、壁に寄りかかり、座り込んだ。松本が手際よく腹を縫っていく作業をぼうっと見つめる。そしてそのまま産湯に浸かる赤ん坊に目をやる。
「あんた、終わったならこっちへ来て見たらどうだい。可愛い女の子だよ」
松本の知り合いらしいこの助産婦は江戸出身で、大阪の訛りのない言葉で祐樹に声をかけ、手招きする。
祐樹はそれを見て、重たい腰をゆっくりと持ち上げ、滑るようにして畳を歩いて近寄った。
「ほら、可愛いだろう。出産見たのは初めてかい」
「はい」
確かにその小さな生き物はとても愛らしかった。同じ人間だとは思えない、例えるなら天使のような生き物に見えた。目が大きく、時折産湯にその目を細め、祐樹の親指より一回り大きいくらいの掌で、差し出した彼の人差し指を握りしめる。
「あんた達がこの子を助けたんだよ」
彼女はそう言って再び赤ん坊に少量のぬるま湯をかける。
祐樹はそれを聞いた瞬間に、突如として緊張の糸が切れ、熱い物がこみ上げてくるのが分かった。
「助けた?」
「そうだよ。あんたも立派なお医者だね」
祐樹はぐっと奥歯を噛みしめた。
(ああ、これか。これなのか)
彼は溢れ出てきそうになるものを堪えた。
赤ん坊が気持ちよさそうに時折訳の分からない泣き声を上げる。
「ほら、赤ん坊もお礼を言ってるよ」
彼の努力は空しく散った。頬を留めていたものが伝って流れる。
祐樹は赤ん坊の頬をそっと触った。柔らかく暖かい。まさにそこにあるのは、誕生したばかりの生命だった。
(そっか、これなのか。医者が、身を削ってまで働いてしまう理由は。この瞬間が理由なのか。これが存在意義なのか)
彼はこっそりと涙を拭う。
――人の転機とはいつなのだろうか。夢を持った日。挫折をした日。喜んだ日。傷ついた日。楽しんだ日。苦しんだ日。恋をした日。失恋をした日。喧嘩をした日。仲直りをした日。誰かが生まれた日。誰かが亡くなった日――
彼にとっては、この誕生が、二度と忘れることはできない過去最大の転機だった。




