表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
拝啓 自分様  作者: 荒川 晶
転機の日
28/43

転機の日 4

 家に着いた。中には年配の女性が若い女性の手を握っていた。若い女性はお腹が大きくすぐに妊婦だと気付いた。

(出産を見るのか)

 そんな呑気なことを考えていた彼の目に飛び込んだのは、松本が眉間に皺を寄せ急いで歩み寄る姿だった。

「もう陣痛か?!」

「はい、これ以上はこの子は持ちません」

「何故知らせに来なかった!」

「知らせに行って、誰もいなくなったらそれこそどうするんですか!」

「かぁー! こんな時に旦那も仕事かよ! おい!」

松本は坊主の頭をわしわしと掻くとくるりと振り返り祐樹を見た。

「今すぐ適塾から俺の作った麻酔薬を持ってこい! 門下生なら場所がわかる!」

「えっ……」

「こいつは逆子なんだ。下からは生まれられねぇんだよ! 生まれちまうもんなら母親も子供も天国に行っちまう。腹を切って取り出す。急げ!」


 これが事の展開だった。

 祐樹は持ってきたお茶を片手に、壁に寄りかかり、座り込んだ。松本が手際よく腹を縫っていく作業をぼうっと見つめる。そしてそのまま産湯に浸かる赤ん坊に目をやる。

「あんた、終わったならこっちへ来て見たらどうだい。可愛い女の子だよ」

 松本の知り合いらしいこの助産婦は江戸出身で、大阪の訛りのない言葉で祐樹に声をかけ、手招きする。

 祐樹はそれを見て、重たい腰をゆっくりと持ち上げ、滑るようにして畳を歩いて近寄った。

「ほら、可愛いだろう。出産見たのは初めてかい」

「はい」

 確かにその小さな生き物はとても愛らしかった。同じ人間だとは思えない、例えるなら天使のような生き物に見えた。目が大きく、時折産湯にその目を細め、祐樹の親指より一回り大きいくらいの掌で、差し出した彼の人差し指を握りしめる。

「あんた達がこの子を助けたんだよ」

 彼女はそう言って再び赤ん坊に少量のぬるま湯をかける。

 祐樹はそれを聞いた瞬間に、突如として緊張の糸が切れ、熱い物がこみ上げてくるのが分かった。

「助けた?」

「そうだよ。あんたも立派なお医者だね」

 祐樹はぐっと奥歯を噛みしめた。

(ああ、これか。これなのか)

彼は溢れ出てきそうになるものを堪えた。

赤ん坊が気持ちよさそうに時折訳の分からない泣き声を上げる。

「ほら、赤ん坊もお礼を言ってるよ」

 彼の努力は空しく散った。頬を留めていたものが伝って流れる。

 祐樹は赤ん坊の頬をそっと触った。柔らかく暖かい。まさにそこにあるのは、誕生したばかりの生命だった。

(そっか、これなのか。医者が、身を削ってまで働いてしまう理由は。この瞬間が理由なのか。これが存在意義なのか)

 彼はこっそりと涙を拭う。

――人の転機とはいつなのだろうか。夢を持った日。挫折をした日。喜んだ日。傷ついた日。楽しんだ日。苦しんだ日。恋をした日。失恋をした日。喧嘩をした日。仲直りをした日。誰かが生まれた日。誰かが亡くなった日――

彼にとっては、この誕生が、二度と忘れることはできない過去最大の転機だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ