転機の日 2
「医者である前に人であれ。医者である前に患者であれ」
それが松本の口癖であった。彼は本来、今こうして適塾で働く必要はないのだ。ただ緒方洪庵の門下生の皆で集まり、そして思い出話をして楽しい時間を過ごし、そして亡くなった緒方を想うだけで充分なのだ。しかし、松本は違った。少しでも自分の持っている知識を教えようと、そして少しでも患者のためになろうと働いているのだ。常に前に進んでいたい、不断前進という言葉がぴったりの男である。ちなみに『現代(平成時代)』で祐樹が通っている順天堂大学は、松本良順の父親が作った学校であり、妙な運命である。不断前進という理念が『現代(平成時代)』の順天堂大学にはあるが、その心は松本の父親の考えでもあり、そしてそんな父親の影響を受けていたであろう松本も不断前進であってもおかしくないのだ。ちなみに松本自身が頭取をしていた西洋医学所は後の東京大学医学部の前身である。この事実に祐樹が知るのは後の話だが……――
「松本先生」
祐樹は再びそこを去ろうとする松本を呼びとめる。この一ヶ月間、ずっと考えていたことを口にした。
「先生の下で直々に学ばせてください。短い期間で構いません。先生が江戸に帰るまでの間、先生の治療を傍で見せてください」
この申し出に一か月かかったのには理由があった。松本は非常に忙しい身であることは勿論だが、彼について学びたいという者は他にも大勢いる。しかし松本自身、そう言った申し出を了承はするものの学びたい者が多すぎるために、見て盗め、という教育法を実施している。故に、門下生同士間で後輩は先輩に気を遣って遠慮をしなければならない、と言った風が吹いているのだ。そんな中で下っ端である祐樹がしゃしゃり出てもいいことはない。
しかしここに来たのは松本に会うためでもあったし、自身の医学への価値観を見つめ直すためでもあるのだ。これ以上手をこまねいて、現状の変化を期待することは意味がないことであった。
しばし松本は口をへの字に結び、黙っていたが、急に歯を見せてにやりと笑う。
「やっと言ったな」
「はい?」
「木之下、お前は少々周りの空気を読みすぎる。自分をもう少し信じてやれ。ここの連中もそういう奴の方が伸びている」
待ってましたと言わんばかりに松本は彼の肩を叩く。
(俺が言うのを待っていたのか?)
驚きが隠せず祐樹は松本に目をやると「おう、わかったか? じゃあ早速行くぞ」と強引に彼の肩を掴む。
「ちょ、ちょっと待ってください。行くってどこへ」
「家の中で動けねェ人らのとこだよ。いいから黙ってついて来い」
往診か、と祐樹は悟った。松本は医療用具の入った風呂敷を手にするとずんずんと歩き出す。祐樹はチャンスとばかりに隣を歩み、松本に質問を投げかける。
「松本先生は今までどんな患者さんを診てきたんですか」
「俺か。そうだな、乳のしこりを取ったり、膀胱に針を刺してパンパンになったものを治したりとか、あとは危ない母体から赤ん坊も腹を切り裂いて出したっけな」
松本はやや得意そうに語る。それも無理はない。当時の医療としては最高水準の外科手術なのだ。
「華岡青洲先生を知ってるか?」
祐樹はこくりと頷くと「全身麻酔に成功した方ですよね?」と聞き返す。
「ああ、そうだ。華岡先生のおかげで医療は飛躍的に進歩した。今までは痛くてできねェような治療も、分量さえ間違えなければとてもいい鎮痛作用を示すんだ」
華岡青洲とは以前にも記述したが世界初の全身麻酔の開発者と言われている。マンダラゲ(朝鮮アサガオ)、ウズ(トリカブトとその根)をメインに使い、他にビャクシ、トウキ、センキュウ、テンナンショウといった物を配合して作った。そして実験を繰り返し、妻の失明を代償に、華岡は全身麻酔薬を完成させたのだ。約八〇年の間に華岡の門人は一八八七人と、残っている記録では知られている。それほどまでに全身麻酔薬の登場は江戸の医療を進歩させるにおいて重要なものだった。
「俺の親父が佐藤泰然っていうんだがな……――」
そこまで言って祐樹の「えっ!?」という声に遮られる。話の骨を折られたのが不愉快だったのか、松本は眉間にしわを寄せて「なんだ」と返した。
「え、いや、その……」
祐樹は順天堂大学の学生である。その名を知っていてもおかしくない。松本良順の父親は彼の大学の創始者なのだ。しかし知っていることを言うわけにはいかない、と祐樹は思い直し「すみません。勘違いです。良く似た名前の人を知っていたもので。良く考えたら違いました」と、付け加える。未来から来たことを言っていい人物ではないだろうと彼は思ったのだ。
しかし松本はそんな慌てた素振りを見せた祐樹を見るとにんまりとして、歩みを止めた。
「隠す必要はねェよ。チヨさんから話は聞いている。おめェも未来から来た口なんだろう」
祐樹はあまりに唐突なそれに、同じく足を止め、目を見開いて松本に目をやる。どんな反応をすればよいのかわからず、「あ……え、と」と言葉に詰まっている。
「チヨさんに聞いたよ。多少無理やりだったがな。俺の親父の作ったもんがおめェの時代にもあるんだろう?」
祐樹はどう返して良いかわからず口を結ぶ。まさかこの流れでこうなるとは思ってもみなかったのだ。




