決意の日 2
祐樹はキョトンとして、「えっ?」と手元を見つめる。
「行きたくないというなら他の者に任せるつもりなんだが……もしよければね」
「松本先生を紹介して頂けるということですか?」
「早い話がそうなるね。その手紙には私が遅れて合流する旨以外に、祐樹くんに医学を少し教えてやってはどうかなと書いてあるんだ」
隣で聞いていた藍には最初さっぱり話が見えなかったが、どうやら福沢は偉い医者を祐樹に紹介し、そして大阪までいかないかと言ったことだけ理解できた。
さて、話の途中で突然だが、この時代の平均寿命は乳幼児期を含めなければ六五歳ほどである(乳幼児期を含めると二〇代前半が平均寿命になってしまうためだ)
未来、つまり二〇〇〇年以降日本の平均寿命は八〇歳前後になる。幕末期よりも二〇年近く寿命が延びているのだ。
しかし今は一八六四年。つまりこの時代に言わせれば藍も祐樹も立派な『大人』。藍や祐樹のような未成年でも遠出をして本格的に師のもとで勉学に励むのは至って普通であった。当然学問に限らず、結婚や出産、労働も彼らの歳では珍しいことではない。二〇年も人生が違うことを考えれば、色々なことが早くて当然なのかもしれない。
だが祐樹は所詮二〇〇〇年代の若者だ。なんの覚悟も考えもない。恐らくこの『おつかい』は長く家を空けることになるのだと、直感的に彼は気付いていた。
それを知りもしない藍は目を輝かせて口を挟む。
「祐樹くん、行ってきたら? これって凄いことなんじゃない?」
「いや、まあ、そうなんだけどね……」
祐樹はたじろいだ。
確かに医学生であるだけあって興味はある。だが彼はある台詞が頭の中を巡っていたのだ。
(医者にそこまでしてなりたいわけじゃない)
江戸時代にきてまで医学を必死になって学びたいかと言われれば、答えはノー。そもそも医学部に入学したのは彼の意思ではない、父親の意思だ。医療や医学に客観的な興味はあるが、主観的な興味はまだ養われていない。
戸惑う祐樹を見て藍は軽く首を傾げる。
(何で悩むんだろう?)
『現代』の有名人に会うには都内を闊歩すればいいが、歴史上の有名人に会うには歴史を遡らない限りできない。
もしも未来に戻れる時がきたら、会わない方が後悔する。戻れる保証もないが万が一戻れたら、と考えるとやりたいことはやっておいた方がいい、と藍は考えていた。
勿論彼女に祐樹の不安もわからないわけではなかった。自分達の足で大阪まで行くという大変さとそうすぐには戻れないんじゃないかという考えは、藍にもあった。けれど未来に比べれば暇過ぎるくらいの江戸時代、少しくらいの冒険はした方がきっと楽しいに違いない。
「嫌かね」
「少し考えてもいいですか」
「ああ、そうしてくれ。と言いたいところなんだが、一応急ぎなんでね……今日の夕方には返事を貰いたいんだ。もし行くというならもう私のところへは来なくていいからそのまま適塾へ向かってくれ。地図はおチヨさんが持ってるはずだ。行かないというときだけ夕方までに私のところに来てくれ」
――四条への帰り道、祐樹は黙っていた。
藍はちらちらと祐樹の表情を伺うが話す気配はない。彼女は思い切って口を開く。
「なんで悩むの? せっかく有名な人に医学を教えてもらえるのに」
「じゃあ佳川さんが行く?」
「え? 別に医学はちょっと……」
「それと同じなんだよ」
「え?」
「俺はそこまで医学に熱くない」
祐樹は少し団子を食べたいと行ってすぐそばの店に入りお茶をすることになった。
藍はあまり来たことがないので慣れた様子の祐樹に関心しつつも、あることを思い出していた。
「そういえば、一番最初に会ったときも、医学部に入って目標が達成しちゃったって言って……」
「そういうこと。俺はやりたいことなんか特になかったんだ。でも成績は良かったし、親父が医者だし、で、気付いたら医学部受験が決まってた」
「医者になりたくて皆、医学部に入ると思ってた……」
「勿論そういう人の方が多いよ。俺は国公立落ちて私立に入った部類だから、もしかしたらクラスメイトは俺と同じような人が多いかもしれないけど、私立の医学生の半分かそれに満たなくてもかなりの人は浪人して入ってきてるんだ。よほど医者になりたいって気持ちが強くないと浪人してまで医学部は目指さないよ」
祐樹の言う通りであった。
医学の道は様々な視点で見ても険しい。医師になるまでも、なってからも大変なことには変わりがない。だから多くの人は覚悟や高い志を持って大学を受ける。
だが彼のように元々が出来るタイプであると、そういう覚悟も志もあまりないまま入っていくことになる。医学部は入ってからも厳しい勉強が待っている。教科書で言えば身長を越すくらいの量と例える者もいる。だから当然そういう人の中には頭がよくても中退という道を進むことが稀にある。
つまり何につけてもモチベーションがいかに大切かということなのだ。祐樹にはそのモチベーションがないのだ。




