望遠鏡の切っ掛け
1057年9月上旬 イタリア北部 トリノ トリノ城館 ジャン=ステラ
謁見の間から執務室に戻ってきたお母さまから、僕に使節が来ている事を教えてもらった。
「カノッサのマティルデちゃんから、お遣いの方が来られていますよ」
「お遣いですか?」
「それはそうでしょう。マティルデちゃん本人が来られるわけないでしょう」
たしかに、トスカーナ辺境伯とはいえ、12才の女の子がホイホイ遠出できないよね。
「この執務室にお通しするから、準備をお願いね」
「はーい、わかりました、お母さま」
僕がする準備は、お客に会うための服に着替える事くらい。
執務室の奥の方にあるお母さまのベッド脇に移動し、応接用の服に着替える。
こんな時、男の子は楽でいいね。
ぱぱっとズボンを履き替えて、上着を羽織るだけでおしまい。
お化粧もなし。
「お母さま、準備ができました」
「あらあら、もう終わったの。男の子の着替えは早いわねぇ」
執務机に向かって座っているお母さまに着替え終わった事を告げると、お母さまは執事に使者を部屋に連れてくるように命じた。
しばらくの後、聖職者特有の白を基調としたローブを纏ったおじさんが入ってきた。
おじさんのすぐ後ろには、荷物を抱えた従者が2人、一緒に入ってきた。
立って出迎えたお母さまと僕の前で、聖職者のおじさんは左ひざを少し曲げた後、名前を告げた。
「ジャン=ステラ様、お初にかかります。イルデブラントでございます」
それに続き、お母さまがイルデブラントの紹介をしてくれた。
「イルデブラント様は新しい教皇猊下の使節としてトリノに来られたのよ。
ステファヌス9世が教皇になられた事を周知するため、神聖ローマ帝国の諸侯巡りをするのですって」
トスカーナの平民出身にもかかわらず、その才覚が先々代の教皇レオ9世に認められた事。
それ以降、教皇庁において教皇の側近として大活躍している事などを教えてくれた。
(へぇ、すごい人なんだね。このおじさん)
お母さまの説明をふむふむ聞きながら、僕はなにげなくイルデブラントに目を遣った。
そこには誉め言葉が連発されている中、照れることもなく泰然自若とした中年男の姿があった。
(褒められ慣れているのかな)
むしろ、イルデブラントの後ろに控えている従者たちの方が誇らしげである。
挨拶が終わったら早速本題である。
「マティルデ様からお遣いを頼まれまして、手紙と贈答の品をお持ちしました」
イルデブラントは後ろに控えている従者達に、手紙と贈答の品が乗ったお盆をお母さまの侍女に渡すよう命じた。
机の上に並べられた品は、黒ネコの縫いぐるみ、円いガラスが10個。そして小さなクロスボウだった。
「この黒猫は、マティキャットという名前です。
マティルデ様がご自身で縫われ、そして名前を付けたと聞いています。
マティルデ様がジャン=ステラ様に一番贈りたかった品が、このマティキャットだそうですよ」
イルデブラントは、縫いぐるみを説明するのがちょっと恥ずかしいみたい。
さきほどよりも少し声が高く、早口になっている。
そうだよね。大きな大人が子供のお遣いとして、縫いぐるみを届けに行く。
それも真面目な顔をして。
これって何て罰ゲーム?
「マティキャット。いい名前だね。マティルデお姉ちゃんが黒髪だから、黒猫にしたのかな?
まるでマティルデお姉ちゃんがここにいるみたい」
僕がステラベアを贈ったから、そのお返しにマティルデお姉ちゃんも作ってくれたんだね。
うれしいなぁ。
こころがほっこりしている間も、イルデブラントの話は続いていた。
「こちらの円い透明なガラスは、教会の窓にとりつけます」
直径10cmくらいのビン底眼鏡のレンズについて説明している。
イルデブラントは透明というけど、窓ガラスを覚えている僕からすると、だいぶん不透明。
それでも、光は十分通りそう。
教会は、窓ガラスではなく羊皮紙が貼り付けてある。
日本でいう所の障子紙の代わりが羊皮紙っていったらイメージがわくだろうか。
羊皮紙に比べたら不透明でもガラスはガラス。
ビン底ガラスを使ったら今は薄暗い教会の中も少しは明るくなるかな。
ん?
今、なにか心に引っかかった。
新大陸にたどり着くために必要ななにか。
うーん。
なんだろう。
取り留めない何かを手繰り寄せようとする僕を尻目に、次はクロスボウの説明が始まった。
「子供や力のない女性でも使う事の出来るクロスボウです」
ヴェネチアで新開発のクロスボウの小型版なのだとか、ゴットフリート3世からの友好の証とかなんとか言っているが、僕とっては馬耳東風。
右から左へと抜けていく。
だって、今は新大陸の事で頭が一杯。
じゃがマヨコーンピザを食べるんだいっ。
円いガラスを見た時に感じたことは何?
そんな僕の思考を中断したのは、執務室に響き渡るお母さまの冷たい声。
「イルデブラント様、どういう意図でこの品を持ってこられたのかしら」
「何の事でしょうか、アデライデ様」
平然とした態度を崩さず深い笑みを浮かべて返事をするイルデブラント。
マティキャットについて話していた時の和やかな雰囲気が一転し、一瞬即発の状況と化してしまっている。
え、え? ほんのちょっとの間に一体何がおきたの?




