欧州西方の大きな大きな島
1064年1月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ
「これだからアレクサンデル様を教皇に推戴するのは嫌だったのです!」
アデライデお母様の憤りが執務室に響き渡る。
数年前までの神聖ローマ帝国は教皇アレクサンデルではなく、対立教皇ホノリウスを正統として支援していた。それが反転したのは皇太后アグネスが失脚し、アンノ2世が摂政として台頭したためである。つまり、ハンガリー戦役で意地悪してきたアンノ2世と教皇はずぶずぶの仲良しなのだ。
そしてアデライデお母様率いるトリノ辺境伯家も、神聖ローマ帝国の方針転換に伴いアレクサンデル支持に回った。
お母様としては、教皇アレクサンデル2世への支持を表明したにもかかわらず、僕に不利益をもたらした事が許せないのだろう。
そりゃ、裏切られたと感じるのも当然だ。怒りの矛先がアレクサンデル2世に向かうのも仕方ないことだろう。
「ジャン=ステラ、今からでも遅くありません。アレクサンデル様を教皇の座から引き摺り落としましょう」
「ちょっ、お母様、それはさすがに……」
過激すぎです。まぁ、理解はできるけど。
それに、その言葉をイルデブラントの前で口にするのは可哀想。だって、イルデブラントは、アレクサンデルの右腕なんだもん。自分の才能を買ってくれている上司を排斥されるって言われたら困っちゃうし、危機感を持つよね。
ほら、イルデブラントが目を見開いちゃっていますよ、お母様。
とはいえ、ねぇ。僕もアレクサンデルを擁護しようとする気持ちは浮かんでこないのも事実である。
ただ、実際問題として、対立教皇ホノリウスを推すのは時期を失している。皇太后アグネス、そしてアデライデお母様からの支持を失ったホノリウスはローマに入ることもできず、有名無実の存在と化している。
「お母様、今更ホノリウスに肩入れしたところで遅すぎます。もう劣勢を挽回することはできませんよ」
「では、どうするっていうのよ! このまま見過ごせとジャン=ステラは言うのですか?」
「そんな事、僕は一言も言っていません。報いは当然受けてもらいましょう」
「本当に? 信じていいですか?」
「ええ、もちろんです」
僕がお母様にニヤッて笑いかけたら、お母様もにやっと笑い返してくれた。
「ただし、そのためにはイルデブラントの協力が必要になります」
僕はイルデブラントの顔を覗き込み、「もちろん協力してくれますよね」と微笑みかけた。
「ジャン=ステラ様、もちろん協力するに吝かではないのですが……。一つ確認をさせてください。
教皇猊下の退位を画策するわけではないのですよね」
「もちろん、そんな事はしないよ」
教皇に退位してもらうなんて、もったいない。自分の判断が誤りであったと分かって後悔してもらわないとね。
「ただし、イルデブラントには覚悟を決めてもらいたい」
僕は姿勢を改め、そしていつもの馴れ馴れしい口調もやめてイルデブラントに問いかける。
その意を感じ取ったのか、イルデブラントも普段以上に丁寧な言葉遣いとなってくる。
「覚悟……でございますか」
その通り。イルデブラントには選択してもらわなければならない、誰の味方なのかを。
優先すべきは僕なのか、それとも教皇アレクサンデル2世なのか。
「イルデブラントには選んで欲しい。僕の味方となるか、それとも教皇アレクサンデル2世の味方となるか」
その答えによって僕は、イルデブラントの排斥も辞さないつもり。しかし、できることならば僕の味方であって欲しい。
「それはなぜでございましょうか。私としましては預言者であるジャン=ステラ様と教皇猊下の仲を取り持ちたいのです」
イルデブラントの気持ちは僕も分かっている。仲を取り持とうとしているからこそ、今回もユーグと共に使者としてアルベンガ離宮に来てくれた。その前のハンガリー戦役にだって、お母様からの要請があったとはいえ、ウィーンまで僕を保護するために来てくれた。
「イルデブラント、僕はいままでの献身にとても感謝しているよ。そして教皇と僕との関係が悪化しないように骨を折ってくれている事も知っている。でも、もう無理じゃないかな。それはイルデブラント自身も感じているでしょう?」
「そうかもしれません。ですが……」
教皇アレクサンデル2世は世界二分割案に同意せよ、つまり教皇に従えと僕に要求してきた。それも、異端審問の影をちらつかせて。そしてお母様がトリノ辺境伯家が舐められたと激怒している。
つまりはもう、敵味方を色分けすべき時期が来たという事なのだろう。
「ねえ、イルデブラントは僕の味方?」
「もちろんでございます」
「じゃあ、僕の秘密を教皇に話さずに、胸に秘めておける?」
「ジャン=ステラ様がおっしゃる意味は分かっております。ですが教皇猊下には私を取り立てて頂いたご恩があるのです」
イルデブラントが僕と教皇との間で揺れている。それは仕方ない事だと思う。
「ねえ、イルデブラント。僕はね、イルデブラントの意思を尊重するよ。僕と教皇、どちらを選んだとしてもイルデブラントを恨んだりはしない。だから、今ここでどちらを選ぶか、教えて欲しい」
僕が言葉を重ねても、イルデブラントは選んでくれない。逆に選ぶことを拒否しようとしてくる。
「ジャン=ステラ様っ! どうして教皇猊下と敵対することになっているのです? 教皇猊下は己の利益を求めてはいても、ジャン=ステラ様と敵対するとまでは思っておられません。それは私が保証いたします」
「イルデブラントが保証してくれるのはありがたいな。でもね、敵対してきたのは僕じゃない。他ならぬ教皇の方でしょう? だからアデライデお母様が怒っているんだよ。現実を見ようよ」
教皇がどう思っていようが関係ない。本当に敵対したいと思っていないのなら、お母様を見誤ったってことだろうね。
対立教皇ホノリウスへの支持をやめ、アンノ2世の指示に従いアレクサンデル2世を推したから、お母様は譲歩してくれるとでも思ったのだろうか。
「……」
長い沈黙が続く。
イルデブラントを味方にするのは無理なのかもしれない、そう思った僕の口からため息が出そうになる。
そのささやかな変化を待っていたかのように、イルデブラントが口を開いた。
「教皇猊下のお体を害さないのでしたら、ジャン=ステラ様にお仕えいたします」
イルデブラントは、僕にではなく、アデライデお母様に向かって言った。
教皇アレクサンデルを暗殺しないでほしい、と。
(流石に怒り狂ったお母様でも聖職者を暗殺しないよね、ね?)
問われたお母様は声を出さずに軽く頷いた。
たったそれだけの反応だったけれど、イルデブラントの全身から力が抜けたのが見て取れた。
「ありがとう。イルデブラント。枢機卿の中で唯一、僕が小さいころから気にかけてくれていたイルデブラントが味方になってくれて、僕はとっても嬉しいよ」
さて、イルデブラントの心にしこりは残ったかもしれないけれど、僕の味方になると明言してくれたのだ。
次は、二分割案に意味がないこと、そしてユーグ率いるクリュニー修道会に銀塊を寄付した理由を説明する番だろう。
僕は書棚から大きな羊皮紙を持ってきて、執務机に広げた。
それは僕が描いた世界地図。東ローマ帝国やユーグに渡した地図と違い、南北アメリカが描かれている完全版である。
「ピエトロお兄ちゃんもこの地図は初めてみるでしょう?」
この地図を見たことがあるのは、アデライデお母様とアイモーネお兄ちゃん、そして亡きオッドーネお父様の3名だけ。
トリノ辺境伯家、秘中の秘なのだ。
「あら、ヨーロッパ西側の陸地は、こんな形をしていたのね」
お母様が南北アメリカ大陸を見ながら、そんな事を呟いた。
「お母様ってこの世界地図を見たことありましたよね?」
「オッドーネ様が生きていたころに1回見ただけでしたから、覚えていませんでしたわ」
ま、たしかに1回見ただけじゃ、覚えられるものでもないね。
「ジャ、ジャン=ステラ様。ヨーロッパの西側には、これほどの大きな陸が存在するのですか!」
イルデブラントが驚いて目を見開き、食い入るように地図を見ている。
「そうだよ。ヨーロッパ全体よりも広いでしょ」
口角をあげ、にししっと笑いつつ、イルデブラントにアメリカ大陸の大きさをアピールする。
「ヨーロッパの西には、小さな島がいくつかあるだけだと思っておりました。それは私だけではございません」
教皇とユーグ、そしてイルデブラントも大陸があるとは想像していなかったらしい。
そういえば、アメリカ大陸に初到達したコロンブスも、アメリカ大陸をインド亜大陸だと誤認していたんだっけ。
だから、アメリカの原住民はインディアン、つまりインド人って言われるようになった。
「こんなに大きな島があるなんて、普通は思いもしないよね」
「島? なぁ、ジャン=ステラ。こんなに大きいのに島なのか?」
今度はピエトロお兄ちゃんが、不思議そうな物言いをしてきた。
お兄ちゃんにとって大きい島といえば、イタリア半島の西に浮かぶ2つの島、サルデーニャ島とコルシカ島なのだ。
その二島どころか、ヨーロッパより大きい陸塊を島と呼ぶことにお兄ちゃんは抵抗があるらしい。
でもね、島なの。これは島なのです。
「大きいけれど島だよ。だって、周りを海に囲まれているでしょ?」
アメリカ大陸は東西南北を海に囲まれている。それは間違っていない。ただ、それを言うとユーラシア大陸だって、アフリカ大陸だって海に囲まれている。
だけどそんな事を気にしてはいけない。
「いや、だけどな。ジャン=ステラ。これ、大きくないか」
「ピエトロ、黙りなさい。これは島です、いいですね」
さらに言い募ろうとしたピエトロお兄ちゃんだったが、アデライデお母様に口を閉じるように言われちゃった。
さすがはお母様。察しがいいね。
「なるほど、『島』なのですな」、とイルデブラント。
さて、それでは教皇が提案した世界を南北に二分する緯度を確認するとしよう。
「この地図を使って、教皇提案の世界二分線を見ていくよ。まず、ここがカナリア諸島」
アフリカ大陸の北西に浮かぶカナリア諸島の場所を僕は指し示した。
「そして、これが世界分割線」
カナリア諸島の緯度で、大西洋を二分する線上に指を走らせる。
西から東へ指を動かした先には、北アメリカ大陸のフロリダ半島がある。
そのフロリダ半島を越え、メキシコ湾を渡った先でメキシコを両断する。
「この線の南側が僕の領土で、北側がアキテーヌ公爵領になる」
次いで、イルデブラントがニヤリと笑いながら補足してくれる。
「このままでは島が二分割されることになりますな」
うん、その通り。きっと僕の顔もニヤけていると思う。
「新しく付けた条件がここで生きてくるんだよね~」
それは、南北分割線が通っている島は僕の領土、という条件である。
島の領主が僕とアキテーヌ公の2人になってしまったら、統治が混乱してしまう。
それを避けるため、僕一人を領主とする条件を付けた理由がここにある。
「ジャン=ステラ、つまりこの大きな島がお前の物って事か?!」
ピエトロお兄ちゃんが大きな驚きの声をあげる。
「そうなんだよねぇ。教皇が認めてくれた僕の領土なの」
「うわぁ、教皇猊下も剛毅だなぁ、ヨーロッパよりも大きな島をジャン=ステラにあげちゃうんだもんなぁ」
南北アメリカを合わせたら、ヨーロッパの面積の4倍くらいになる。そんな島の領有にお墨付きを与えちゃうんだもんね。史上最大の贈物した人物としてギネスブックにでも乗るんじゃないかしら。
まぁ、実際には領有なんて出来っこない。そもそも人が住んでいるんだもん。
それは分かっているけれど、お母様の留飲を下げるため、今は内緒にしておこう。
「ちなみにね、教皇が認めてくれたのはこの島だけじゃないよ。地図の南東をみてくれるかな」
「ああ、ここにも大きな島があるんだな」
北を上にしておいた地図の南東角には、オーストラリア大陸がある。
「この島は南北分割線の南側でしょう。だから僕の領地になる、みたいだよ」
「まぁ、素晴らしいわ! これまで知られていない土地のほぼ全てがジャン=ステラの領地になるのね」
アデライデお母様が喜んでくれてよかった。機嫌がなおってくれてほっとしたよ。
これで、教皇が暗殺されるなんて酷い事態にならなくて済みそう。
「なぁ、ジャン=ステラ。だったらアキテーヌ公爵領はどこになるんだ?」
ピエトロお兄ちゃんが、素朴な疑問を口にする。
確かに大半が僕の領土だけど、アキテーヌ公爵の領土だって存在する。
「そうだね、まずはこの辺りの島々がアキテーヌ公の領地になるよ」
北アメリカ大陸のカナダ東岸沖には大きな島がいくつもある。バフィン島とかニューファンドランドとか。
北の方の島々でちょっと寒いけど、その面積は結構大きい。
「そして、東側の島々も分割線の北側だよ」
アキテーヌ公爵の予定領土は他にもある。アジア東端の太平洋に浮かぶ島々がそれだ。
そう、つまりは日本列島。
地球を東西に分割したトルデリシャス条約では、日本列島がスペイン領なのかポルトガル領なのか明確でなかった。
しかし、教皇の南北分割案では、トルデリシャス条約みたいな曖昧さはない。だから日本列島はアキテーヌ公爵領になる。
まぁ、アキテーヌ公爵の者たちが日本に到達できるのがいつになるのかは知らないけどね。
よしんば到達できても、元寇にすら打ち勝った鎌倉武士が待ち構えている。アキテーヌ公は勝てるかな。うーん、勝てないだろうなぁ。
ジ:ジャン=ステラ
イ:イルデブラント
ジ:次の教皇はイルデブラントだからね
イ:私はジャン=ステラ様を推戴する所存にございます
ジ:いや、なりたくないし
イ:なぜでしょうか? 教皇ですよ?
ジ:お姉ちゃんと結婚できなくなるもん。それとも妻帯している教皇ってあり?
イ:なしですね
ジ:でしょ
カタコンベでコンクラベ。
そんなダジャレを授業で教えてもらいました。
カタコンベとは教会地下にある共同墓地で、コンクラベは教皇を選出するための根比べ大会だそうです。その由来は、教皇が決まるまで会場であるローマのシスティーナ礼拝堂に何日間も閉じ込められたから、だとか。
ただし2005年以降のコンクラべからは、システィーナ礼拝堂は投票所扱いとなり、バチカンの宿舎:サン・マルタ館に宿泊しているのだとか。




