出発準備
1063年6月下旬 北イタリア ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
サレルノから来た女医師のトロトゥーラとの会見はとても有意義なものだった。
トロトゥーラは女性、しかも子供を産んだ経験があるから、お産がどれほど大変なのか骨身に沁みているのだろう。
「石鹸で手を洗うだけで、お産で亡くなる女性を減らせるのなら、そんな幸せなことはありません」
医師としてお産を手伝い、目の前で亡くなってしまう現場にも多数立ち会った経験があるとトロトゥーラは言う。
それはそうだろう。ユートキアの調べによると、妊婦さん30人に1人が出産で命を落とすらしい。
医療の発達した前世でも出産は命懸けだった。ノエルお姉ちゃんが周ちゃんを産む時だって、出血が多くて輸血が必要だったもの。
出産したのが11世紀のイタリアだったら、お姉ちゃんは死んでいただろう。
「ジャン=ステラ様、どうか私を弟子入りさせてください。医学を学び直します。そして、石鹸で手を洗うだけで妊婦の死亡率が下がるのか、この目で確かめたいのです」
僕のもとで医学を学びたいと、トロトゥーラが願い出た。
目の前で両膝をつき、僕を見上げるトロトゥーラの目には情熱の炎が宿っている。
だからこそ、僕はトロトゥーラに知識を授け、亡くなる命を助けたい。
「トロトゥーラ、確かめるだけでは足りないんだ。それでは僕の弟子にはできないよ。僕の知識を、世間に広く知らしめると誓える?」
この時代は、知識を広く教えようという意識がまるでない。
それが小学生レベルの知識であっても、囲い込んで自分の利益にするのが当然だと思っているのだ。
算数を一家の秘伝としてたサルマトリオ男爵家のせいで、僕はその事をよく知っている。
だからこそ、トロトゥーラに念を押す必要がある。僕から得た知識は拡散すること。
「はい、必ずや本を書き、ジャン=ステラ様の知識を後世に伝えると神に誓います」
という事で、トロトゥーラとその息子マテウスが僕の家庭教師1号2号になった。
名目上、弟子にするのはやめておいた。
だって、弟子1号2号だと、イシドロス達が拗ねてしまいそうだったからね。
そのうちギリシアの帝都大学から教授陣が来るし、みんなで切磋琢磨してくれると嬉しいな。
1063年7月上旬 北イタリア ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
「ジャン=ステラ、あと10日ほどで出発ですが、準備は順調ですか?」
お母様の執務室でアフターヌーン・ジュースをしている昼下がり。そろそろハンガリー戦役に参加するため、ドイツに出発する日が近づいてきた。
「先日、トポカルボから砂糖をもらいましたし、料理とお菓子の準備は万端です」
料理人が同行できるよう手配したし、調理道具も持ち物リストに加えておいた。
これで、ドイツやハンガリーでも唐揚げが食べられる。
「あとはそうですね、蒸留ワインを多めに持っていきたいのですが、トリノの酒蔵から持って行ってもいいですか?」
「えー、嫌よ。先日はピエトロがワインをたくさん持っていったのです。蒸留ワインまで持っていかれては、私の飲むものがなくってしまうじゃない」
「そこを何とか。お母様、お願いっ」
「だーめっ。こればっかりはジャン=ステラにも譲れません」
お母様がプイっと横をむいちゃった。
ハンガリー戦役中に出会う貴族たちへの販路拡大に使いたかったんだけどなぁ。
残念無念、がっかりへにょん。
ちなみにハンガリー戦役に参加するのは、ピエトロお兄ちゃんと僕。
「ジャン=ステラだけで参加するのは、何が起こるか分からなくて怖すぎる。それに初陣で遠征軍を指揮するだなんて、流石に無理だろうしなぁ」
「お兄ちゃん、ひどっ。でも残念で~した。僕はもう初陣を済ませているんだよーだぁ」
サルマトリオ男爵の反乱騒動の時、ジャコモ率いる傭兵隊を相手に僕は初陣を終えている。
してやったり。ニヤッと笑った僕をピエトロお兄ちゃんがからかってくる。
「なぁ、ジャン=ステラ。あれがお前の初陣でいいのか? 馬車の中で震えていただけだって聞いたぞ」
「震えてなんかいませんよーだ。馬車の揺れが酷すぎて、床でころころ転がっていましたけどね」
冗談を言い合い、僕はお兄ちゃんと一緒に声をあげて笑った。
そんなじゃれあいはさておき、実際問題、僕が軍を率いるのは無理だから、お兄ちゃんが一緒に来てくれるのは本当に助かる。
ハンガリー戦役に参加する兵500名。
より正確には、ハインリッヒ4世より「ジャン=ステラ、聖剣セイデンキ、軍兵500名の参陣を命ずる」という通達が来たのだ。
トリノ辺境伯家の規模からすると、500名は少ないと思う。きっと遠くハンガリーまで行く事を考えて、負担が少なくなるような配慮をしてくれたのだろう。
ただ、500名とはいえ、僕が指揮官を勤めるのは難しい。
「全軍すすめー」の号令とともに、馬に乗って先頭を進むだけなら、僕でもできる。
でもね、今回のような長距離行軍で一番の問題は補給なの。
行く先々で食料や軍馬の餌を調達しなくてはいけないけど、僕の家臣にそれをできる人材がいない。
筆頭家臣のラウルだったら多分できるけど、サルマトリオ男爵領に加え、アオスタ伯爵領の統治もお任せしているから、今回は不参加が決まっている。
つまり、ピエトロお兄ちゃんの家臣に物資を調達してもらわないと、ハンガリーに行き着く前に食糧不足に苦しみかねない。
あちこちの村々を襲って食料確保なんて事にならないためにも、ピエトロお兄ちゃんの家臣たちに頑張ってもらわないとね。
「そうそう、お母様。トロトゥーラ親子をハンガリーに同行させてもいいですか?」
「ええ、いいわよ。あなたの弟子ですものね」
お医者さんが同行してくれるのは心強いというのもあるが、暇な行軍中に僕の知識を話しておこうと思うのだ。
そうしておけば、トロトゥーラ親子が文章にまとめてくれる。あとは、僕がそれを添削すれば、教科書の出来上がり。
実は、僕が書いた教科書は、分かりにくいと不評なのだ。
前世の知識をもっている事の副作用で、11世紀イタリア人に不可解な表現があちらこちらに顔をだしてしまうのだ。
「人は心臓ではなく、脳で考えている」とか「木を燃やすと火が出るけど、水もでる」なんて、僕にとっては当たりまえ。
それなのに、修道院のみんなを混乱のるつぼに落とし入れちゃったりする。
順を追って説明すればいいのかもしれないけど、前世の知識のうち、どこまでなら理解できるのか。その切り分けが僕には難しすぎる。
その点、トロトゥーラ親子が書いてくれるなら、誰もが理解できる教科書に仕上がるだろう。
(うん、我ながらいい考えだよね)
僕に続き、お母様からも同行者の提案があった。
「私からも、ジャン=ステラに同行してもらいたい人がいるのよ」
「お母様の頼みなら、僕に否やはないのです」
お母様の提案っていっているけど、僕に拒否権なんてないもん。機嫌を損ねたくないし、ここは前向きに肯定しておこう。
そうしたら、蒸留ワインを一樽くらい貰えないかな?
「あら、ありがとう。イルデブラント枢機卿も喜ぶわ」
僕がハンガリー戦役に参加する事が決まってすぐ、お母様は教皇庁と交渉していたらしい。
「ジャン=ステラが、ドイツの大司教たちに取り込まれてしまってもいいのですか?」
それが嫌なら、ジャン=ステラを大司教たちから守る人を教皇庁から派遣しろ、と。
その結果、イルデブラントが僕と一緒にハンガリーまで行く事になった。
(イルデブラント、いつもいつもご苦労様なのです)
ちなみに、トリノから派遣を要請するという形になったため、教皇庁に報酬を渡す必要があるらしい。
「トリートメントを入れたガラス瓶を10個。イルデブラント様に渡してくださいな」
そういってにっこり微笑むお母様。
トリートメントの出荷を強く制限していたお母様が、10個も許可するだなんてちょっとした驚き。
「美は独占してこそ価値があるのです」とか言って、あれほど他の女性に渡す事を嫌がっていたのに不思議だね。
それはさておき、教皇庁にいる髪の薄いお爺さん達がトリートメントを欲しがるのは何でだろう。
偉い人の考える事は、よくわからないや。
■■■ 嫁盗り期限まであと2年1か月 ■■■




