寂しい横顔(1)
1063年2月下旬 イタリア北部 アルベンガ離宮 ジャン=ステラ(9才)
やる気がおきない。
朝になり目覚めても、頭が重く、ベッドから降りる気になれない。
料理に味が感じられない。
お母様が特別に作ってくれた唐揚げも、トンカツも味がしない。マヨネーズなんて、酢のにおいが強すぎて吐き気がしてしまう。
新しい朝は毎日やってくるけど、僕の時間は止まっている。
世の中から色が消え失せ、僕一人だけがセピア色の世界に沈んでしまった。
色褪せた写真をみて「昔はよかった」と懐かしむだけの老人みたいな日々。
ああ、前世が懐かしい。
どうして中世なんかに来ちゃったんだろう。
すこし前までは、僕が生まれ変わった意味があるんじゃないかと思ってた。
お姉ちゃんの髪に天使の輪っかが現れて、喜ぶ顔をみるのが嬉しかった。
蒸留ワインを飲んでご機嫌のお母様を見るだけで楽しかった。
だけど、僕が生まれ変わったことで不幸になった人もいる。
領地を没収されてしまったサルマトリオ男爵。
雷に打たれた傭兵のお頭さんのジャコモ。
鼻を削がれそうになったクリュニー修道院・副院長のスタルタス。
彼らにとって僕は疫病神でしかない。
夢に出てくるのだ。いつも強い恨みのこもった視線を僕に向けてくる。
なぜ生まれ変わっちゃったんだろう。
いっそ消えちゃえば楽になるのかな。
ずっと堂々巡りで、考えをまとめることができないでいる。
ああ、もう考えるのも面倒になってきた。
アデライデお母様、こんな息子でごめんね。
◇ ◆ ◇
朝起きると目の前に、マティルデお姉ちゃんの横顔があった。
(あれ? どうしてマティルデお姉ちゃんがいるの?)
ぼぉ~っとして回らない頭で考えた。
しかし、よく見なくても、それは絵だった。そういえば、昨日侍女のリータが部屋に運び入れていたっけ。
絵の中のお姉ちゃん、美人だね。鼻すじがスラ―っとして。団子鼻だった前世の私と大違い。いや、リアルお姫様のマティルデお姉ちゃんと比べるのがそもそもの間違いだよね。
すこし憂いを帯びた表情も様になってる。笑顔が素敵で、憂い顔も素敵だなんて反則だよね。
私なんて「笑顔は素敵だから大丈夫!」としか言ってもらえなかったんだから。
「笑顔は」も酷いけど、「大丈夫!」ってどういう事よ、まったく。
アホなことを考えていたらちょっと元気がでた、ような気がする。
もう一度、お姉ちゃんの横顔をじーっと眺めてみた。
(マティルデお姉ちゃんにも悩みはあるのかな?)
◇ ◆ ◇
お姉ちゃんからの手紙、読まなきゃよかった……
昼になり、机の上に置いてあるマティルデお姉ちゃんの手紙を手に取った。
「親愛なるジャン=ステラ様
寒い日が続いておりますが、いかがお過ごしですか」
最初の2文を読んだだけで、お姉ちゃんとの距離を感じてしまった。
これまでの手紙はもっと親しく身近に感じられる手紙だった。
「やっほー 元気してる? 私も元気よっ!」
イメージとしてはそんな感じ。
(ああ、お姉ちゃんにも見離されちゃったのかな)
視界が暗転しそうになる。セピア色だった僕の世界から、さらに色が抜け落ちていった。
手紙を最後まで読んだけど、事務的な感は否めなかった。
ただ、追伸だけは違う。
言葉は整っているけど、本文と違って追伸だけ、感情の熱量が高い。だけど、内容は意味不明。
ーーー
追伸:
ジャン=ステラ様から頂いた紙で字を練習しました。古代ローマの英雄カエサルもパピルスで字を練習をしたと、ジャン=ステラ様に教えていただきました。それを真似してみましたの。成果を見ていただこうと思い、同封いたします。よくご覧になっていただければ幸いです。何を書いているのかわからない単語ばかりかもしれませんが、よくよく見ていただければと思います。
ーーー
(古代ローマの英雄カエサルがパピルスで字を練習した?)
そんな話は初耳だった。そりゃ、当時はパピルスが使われていたのだから、字の練習に使いはしただろう。確実なのは、僕がマティルデお姉ちゃんに教えた事実はないということ。
(だれか別の人の話と勘違いしたのかな)
お姉ちゃん、もう18才だものね。誰の話をしているのかな。想像すると胸のあたりがちくちく痛い。
くるくると丸められた羊皮紙の手紙。その封の中に以前僕が贈った普通の紙が入っていて、お姉ちゃんの綺麗な字が所狭しと詰まっていた。この紙をよく見るのがお姉ちゃんの願い。
「あてそふへさへふくかじせめみえうすかいけおぬさそにさをにるけなて。」
意味がわからない。
本当に字の練習をした紙を送ってきただけ、なのかな。
◇ ◆ ◇
1か月前から、夜中に何度も起きるようになった。夢見が悪いせいもあるのだろう。
今日はいつもよりも酷い。頭が冴えていて眠ることができなかった。
「……マティルデお姉ちゃん」
お姉ちゃんの肖像画は、僕がベッドに寝ころんでいても見える位置に飾られている。
お部屋の中は、まだ真っ暗。囲炉裏の熾火で足元がすこし見えるくらいの明るさしかない。
だから絵なんて見えない。顔の輪郭もわからない。
見えないはずなのに、お姉ちゃんがこちらを見ている。
何か訴えかけているみたい。
(なんだろう?)
手紙の中身を思い出す。
胸がちくり。その痛みでカエサルの件を思い出した。
そういえばカエサルについて、一度だけマティルデお姉ちゃんに手紙を書いたことがある。
「カエサル暗号って知ってる? 古代ローマのロストテクノロジーだからお姉ちゃんにも教えてあげるね。2人だけの秘密だよっ!」
もしかして!
ーーー
「わたしのはくばのおうじさまへ
あんごうをかいどくしてくれてよかった。」




