表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水琴窟(過去の残骸寄せ集め)  作者: kagonosuke
ファンタジーⅠ:
3/5

3)月夜にまみえし男

同じ世界の話。続き的なもの。


 爪弾かれた弦の余韻が、空気を震わせながら涼やかな風そよぐ木陰の中に消えて行く。その軽やかな波紋と辺りに溶けていった音色をまだ耳の奥に残したまま、少し離れて地面に腰を下ろしていた少年が顔を上げた。

「よし、決めた。お前の名は、【睦月(むつき)】だ!」

 半ば目を閉じて、何かを反芻するように小さく呟いた後、小さいながらもよく通る声音が辺りに響いた。

「―――」

 傍らにいたもう一人の少年は、竪琴(リート)を小さな胸に掻き抱くようにして、今聞こえてきたばかりの言葉の意味を探るように相手を振り返った。無言のまま、互いの視線が遭うと少年は照れくさそうに頷いて見せた。そして空を仰ぐと、遥か頭上から振り注ぐ木漏れ日に眩しそうに手を宛がい、目を細めた。

「お前が初めてここに来たのは一月(むつき)だったからな」

 少年は勢いよく立ち上がると、手を差し出してにっこりと笑った。

「俺は、【十六夜(いざよい)】だ。よろしくな」

 差し出された指先をまじまじと見つめ、小さく息を呑んだ小さな竪琴(リート)弾きは、相対する少年に促がされるようにして、恐る恐る自分の白い指先を伸ばしてみた。

 初めて触れた同じ年頃の他人の手は、驚くほど温かかった。



 *****



「真逆、ここに戻ってくることになろうとはな………」

 遠く、東の空に霞む旧城の古い城壁を望みながら、修理(しゅり)はそう独りごちると自嘲気味に蒼穹を振り仰いだ。高く澄んだ秋の空は、どこまでも蒼く、そして遠かった。刷毛で散らしたような白い雲が幾筋も細くたなびき、緩やかな風に刻々とその姿を変えてゆく。


 旧街―――別名、古都(スタルゴラド)

 約二十年振りに目にする故郷は、己の記憶の中にある風景と寸分違わぬ気配を身に纏い眼下に広がっていた。よもや、この地を再び踏むことになろうとは。人の世のからくりとは、とかく不思議なものだ。かつて、あれ程までに嫌悪し、唾棄した筈の古き都。多くの諦観とともにこの地を離れてから、すでに長い年月が経っていた。これもその月日の作用なのであろうか。「二度と戻ることもあるまい」と思っていた場所を今、目の前にして、不思議と心を落ち着かせている自分に気がついて修理は安堵の溜息を漏らした。 

 全ては過ぎたことだった。結局は腹を立て続ける程の気概が、自分には無かったということなのだろう。すでに起こったことを今更恨んでみたとて詮方の無いことだ。あの日から、後ろを振り返ることは止めたのだ。敢えて顧みる程の過去も無かったということも事実だが、全てを捨て、新しく一歩足を踏み出す為には、それはあの日の自分にとって必要不可欠なことだった。今、ここに立つ男は、あの時の幼子ではない。ただ、幾許かの後ろめたさと小さく痺れのように疼く懐古の念が、胸奥にひっそりと隠れていることを除いては…………。

睦月(むつき)………」

 とおの昔に忘れていたはずのその響きに、少しばかりの切なさを込めて。

 引きずり出されるようにして切れ切れに浮かんでくるのは、第六公子として過ごした幼い日々。誰にも望まれず、誰からも相手にされず、疎まれて、ただ、空気の如く、母が残した形見の竪琴(リート)だけをよすがに、居城をさ迷い歩いていたあの頃。数字の六を意味する【シェスチ】と蔑みとともに呼ばれていた在りし日。

 今となっては、どれもこれも昔のことだ。

睦月(むつき)………」

 それは、初めて触れた人の優しさだった。名を与え、自分を初めて認めてくれたあの少年は、あのころの自分にとって垂れ込めた厚い雲間から差す唯一のささやかな光だった。

心残りは、一陣の風のように少年の前から消えてしまったこと。あの子は、今どこで何をしているのだろうか。

 今となっては、どれもこれも済んだことだった。

「睦月はもういない。この地を捨てると同時に死んだのだ。だから、どうか………」

 探さないで。きっとすぐに忘れ去られるだろう。気まぐれのように掠めた出会いなど、無かったに等しいのだから……。

 誤算だったのは、生まれて初めて流した涙の痕が今でも古傷のように痛むこと。感傷など持ち合わせていないと思っていたのに、人の心とは、かくも不可解なものだとつくづく思う。

「私は―――修理(しゅり)だ」

 それ以外の何者でもない。

 旅人は、ゆっくりと深呼吸をすると土を蹴り、遥か下方、街へと続く城門を目指した。



 *****



 その夜、月明かりを背に街中を歩いていた男は、ふと聞こえてきた竪琴(リート)の音に足を止めた。そこは、街の西側にある賑やかな一角で、仕事を終えた男たちが集う食堂、酒場、宿屋が立ち並ぶ界隈だった。多くの男たちが様々な思いを抱えて集う一時のアジール。行き交う商人や旅人、流れの楽師もまた然り。バールと呼ばれる酒場では、夜毎、酒のつまみに各地から流れてきた楽師たちが奏でる楽の音が、男たちの歓声や酔声に混じって聞こえてきていた。

 その音も、いつもの光景の一つに過ぎない。そう切り捨ててしまえば、それまでなのだが、夜風に乗って聞こえてきた旋律に男は、知らず懐かしさを覚えた。

何だろう。昔、どこかで聴いたような気がする。ただ、ここでは竪琴(リート)弾きは、珍しくはない。男がその商売柄、同じような音色を耳にすることはこれまでにも多々あった。

 だが、男の記憶の中で何かが引っかかった。


 そう、初めて竪琴(リート)の音を耳にしたのは、幼いころだった。父に手を引かれ、連れて来られた都の一角。高い塀が周囲を囲む広い庭の隅で、小柄な少年が、自分の半身ほどもの大きさのある幾つも弦が張られた楽器を抱えるようにして爪弾いていた。そのアンバランスな光景に興味を覚えて、同じように幼かった自分は、暫く様子を窺った。手遊びのように弱々しく弦が掻き鳴らされた後、すっと静寂が落ちたかと思うと、静かな旋律が音の波となってゆっくりと辺りに広がっていった。その音色を耳にして、ひどく胸が潰れそうになったのをよく覚えている。演奏は同じ年頃の少年が紡ぎ出すにしては、とても練られたものだった。弦の上を行き来する小さな白い手が軽やかに動くと、重複した音の重なりが幾つも積み重なるようにして旋律となって生まれた。そして、情感豊に溢れるほどの哀しみが、木の葉を揺らす。

 だが、つと、奏者へと目線を上げたとき、その顔には驚く程、なんの感情も浮かんではいなかった。能面のような表情に硝子玉のような瞳。胸を締め付けるくらいの切ないメロディーを奏でる者は、まるで機械仕掛けの人形のように竪琴(リート)をかき鳴らしていた。


 それから、空いた時間を見つけては竪琴(リート)弾きをこっそり訪ねる日々が続いた。同じ年頃の奏者は、大抵、槻の木下に座って無表情のまま弦を爪弾いていた。

 やがて、ただ聴いているだけでは飽き足らなくなって、いつしか懐に忍ばせていた篠笛を取り出すまでになっていたのも自然の成り行きだったのかもしれない。

 竪琴(リート)の音に合わせて突然響いてきた笛の音に、小さな奏者は、その顔を音のする方向へ向けた。互いの視線が合った瞬間、ほんの一瞬だけ、ビー玉のような虚ろな目に光が宿った気がして、その少年が盲目でないことを知った。

 少年は篠笛を手にした自分を別段咎めようとはしなかった。初めは、その辺りの木々や空気の如く、特に関心を払うことも無く。相変わらず口を開くことは無かったが、時折揺らぐ視線から少年が自分を認めているようなのを知った。

 いつしか二人きりの合奏は、秘密の暗号のように始まり、音を通じてのやり取りは、少年の琴線まで届いたかに見えた。

 脆くも崩れ去りそうなささやかなひとときが、このままずっと続くかに思えたあの頃。それまでの白昼夢は突然、終わりを告げた。竪琴(リート)弾きの少年は、ある日を境に姿を消したのだ。それ以来、待てども待てども、欅の木下にぽっかりと開いた空間は、それまでと同じように木漏れ日を煌かせながらも二度と埋まることはなかった。


「きみの笛を聴かせてくれないか」

 それが、初めて耳にした少年の声だった。

 その時の自分は初めて発せられた少年の声に、吃驚して、それから舞い上がった。目の奥にある薄茶色の瞳がゆったりと色を変え、ほんの少しだけ上がった口の端に、これでもかというほどの笑顔を返して、嬉々として篠笛を構えた。それが、最後に交わす言葉だとはつゆも疑わずに………。

 これももう、今となっては随分と昔の話だ。忘れようとしながらも意識の底にしまったままにしていた哀惜。

 何故、あんなにもその少年のことが気に掛ったのか、今となっては分からない。ただ、あと少しで届くかもしれないと思った実体が、幻覚のように霧の中に霧散したことに言い様の無い悲しさを感じたのは事実だった。あのまま、少しでもお互いのことを知り合えるようになっていれば。そう、普通に話しをするくらいにまでになっていれば。それは、人生にありふれた単なる「友達との別れ」の一場面として頭の中で整理がついたに違いないのだから。

 その時から、この掌に打ち込まれた見えない楔。気がつかない内に己の魂を縛って。遠く肩越しに振り返り見る自分の指先が、これ程までにも遠い。




 男は、惹かれるようにして音のしてきた方へ足を進めた。辿りついた先には、見慣れた看板。赤いナナカマドの実を模した絵が描かれたそこは、男がよく顔をだす酒場(バール)の一つでもあった。いつのまにか竪琴の音は止み、代りに男たちの囃子声が漏れ聞こえてきた。先程の演奏はどうやら客には好評だったらしい。

 木戸を潜って店の中に入ると、酒の匂いと人いきれが生暖かく男の頬を包んだ。男は、それに不愉快そうに少し眉を寄せると蝋燭の明かりが点々と揺れる狭い店内に目を走らせた。

「いらっしゃい」

 男に気づいたバールの店主が静かに声を掛けた。

「今日は先客がいるよ」

 目配せしながら潜められた声に頷くと男は店主のいるカウンターへと歩み寄った。ここで篠笛を手に流れの楽師の真似事をするようになって五年が経つ。男は、小さいながらもこの店とそれを守る店主を気に入っていた。長年客商売を営んできた人物特有の陽気さと人当たりのよさ、そしてその裏に隠れた慧眼の鋭さ。善くも悪くも掴み所の無い、少し癖のある主を嫌いではなかった。それ以上に彼の誠実さを男は買っていた。恐らく、それは長年の苦労の末に培われたものなのだろう。互いに口数が多い方ではなかった為、これまでに言葉を交わした時間など、本当に取るに足り無いぐらいだったが、敢えて詮索するでもなく、ただカウンターの中にいて、他の客に目を配りつつ、いつ出かけてもそこにある底温かな空気は、男にとっては貴重だった。踏み込むことも無く、かといって冷たく突き放すことも無く、この適度な距離感が自分と同じようにここに集まる客達には居心地がよいのかも知れない。


 そのまま椅子に腰を下ろした男に、店主はいつものカニャークが入った盃を滑らせた。そして、ふと、店の奥の方、大きく切り取られた窓を背に座る竪琴(リート)を抱えた若者の方へ視線を向けた。その目に珍しく慈しみのような光の色が見えて、それを内心意外に思いながらも、男も傾けた盃の上から、店主の視線を追う形で奥へと目を走らせた。

「見ない顔だな」

 月明かりにほの白く浮かぶ、まだ若い楽師の輪郭を、男はゆっくりと眺めた。膝の上に抱えられた楽器に目が止まる。

「…竪琴(リート)か」

「中々の腕ですよ」

 男の呟きに店主が柔らかい笑みを浮かべた。視界の隅に映る、客の男達と言葉を交わす楽師の様子は、酒場特有の喧騒には少し似つかわしくない穏やかさだった。その場所だけ酒臭いはずの空気が不思議と和らいでいるように見える。

「久々にいいものを聴かせてもらいました」

 長年この場所でバールを営み、数多くの楽師を見聞きしてきた店主が目の奥を輝かせて継いだ言葉に男は、「ほぅ…」と興味を引かれたように小さく声を上げた。

「随分と気に入ったみたいだな」

「ええ、それはもう。どうです、旦那にも一曲何か頼んでみましょうか」

 すぐさま満面の笑みを湛えたものの、

「―――まあ、商売敵には少し面白くないかもしれませんが」

 苦笑気味に首を傾げて見せた主に男は小さく口の端を上げた。

「いや、無粋な真似をする積りは無い。主がそこまで持ち上げるのも珍しいからな。客としてなら構わないだろう」

 耳の肥えたこの店の主が薦める程だ。偶には逆の立場になるのも悪くは無いだろう。自分もまあ、楽師の端くれなのだから。

 男は懐から銀貨を一枚取り出すとカウンターへ置いた。滑らかなその動作に主は嬉しそうに目を細めると、カウンターの中から窓際にいる楽師へ合図を送った。


 それまで和やかに赤ら顔の男達を相手に談笑していた楽師は、主からの依頼に柔らかく微笑みを返すとゆったりとした仕草で竪琴(リート)を抱え直し、おもむろに背を伸ばした。

「何かご要望(リクエスト)はございますか?」

 喧騒の中に楽師ののんびりとした声が響き、それを合図に店内に静寂が訪れた。誰もが興味深げに楽師とカウンターのやり取りに耳を澄ませている。

 どうなさいますか、との店主からの視線を受けて、カウンターに座る男は、体を半分,楽師の方へ向けた。

「選曲は任せる」

 男の低い、それでもよく通る囁きに楽師は微笑を湛えたまま頷いて見せると、自然な動作で優雅に弦を爪弾き始めた。冷え冷えとした月影差す、柔らかな灯りのバールの室内に緩やかなリートの音が染み渡ってゆく。男たちは銘々の盃を傾けたまま、静かに楽師から紡ぎ出される郷愁を誘う旋律を心のままに追って行った。


 * * *


「あの、ここで弾かせてもらえませんか?」

まだ日が高い時分、カウンターの内側で盃を磨いていたバール【ナナカマド】の主は、明るい陽射しが差し込む店内に響き渡った穏やかな声に顔を上げた。視線を巡らせると開け放たれた店の入り口に旅装姿の男が立っていた。その男の背に括りつけられた袋の紐をまず目に留めて、主は声の主を値踏みするようにまじまじと見た。

 まだ若い男だった。柔らかな薄茶色の瞳が印象的な優しげな顔立ちをしている。着ているものもこざっぱりとした質素な軽装で、どちらかと言えば、夜の盛り場とは縁のなさそうな雰囲気だ。本人からの申し出がなければ到底流れの楽師には見えないだろう。それとも、まだ場数を踏んでいないだけなのだろうか。

「突然のことで申し訳ないと思っています。あの、もし決まった楽師がいないようでしたら、今夜だけで構いませんので、弾かせてもらえませんか」

 向き合ったまま何も言わない店主に、飛び込みの楽師は恐縮そうに言葉を継いだ。その腰の低さと丁寧な言葉遣いに、店主は二三度、目を瞬かせると好奇心を隠した穏やかな笑みを浮かべ、その若者を中へ招き入れた。

「楽器は何をお弾きなさる?」

竪琴(リート)です」

 答えながら若者は背中に括り付けていた袋を前に置くと紐を解いた。

 そこから出てきたのは、細部にまで細工の施された立派な竪琴(リート)だった。一目で高級品と分かる品物だ。店の主は、驚いたように目を見開くと思わず感歎の声を上げていた。

「ほう。これは、また珍しい。このように螺鈿細工の施されたものを初めて見ましたよ。噂には聞いたことがありましたが。いやはや、これがそうですか」

 感心したように呟いた店主に若者は小さく頭を振った。

「ですが、これもただの楽器であることに違いはありませんよ。奏でる手が無ければ何の意味も持ちません」

 少し可笑しそうに、だが、至極当然の口ぶりで愛しそうに弦の張られた柄を撫でた若者の白く長い指先を主は美しいと思った。この若者は一体、どのような曲を奏でるのだろう。唯の流れの旅楽師が持つには不釣合いな程の高価な竪琴(リート)を手に、この盛り場の一角でこの男は、何を思って己が愛器をかき鳴らすのだろうか。店主はこの楽師の演奏に俄然興味が沸いた。

「試しに何か弾いてもらえませんか?」

 逸る心を抑えるようにして尋ねた主に、若者は穏やかに微笑むと引き寄せた竪琴(リート)の弦を爪弾いた。


 ―――これは。まさか。

 男の指から生み出される旋律とそこから波動のように広がる空気に、店主は妙な既視感を覚え、愕然とした。もう随分と昔の忘れかけていた情景が、鮮やかに色を伴って目の前に蘇える。この若者の雰囲気は、自分の知っているある人物を彷彿とさせた。まだ、若い頃、この旧城外れの盛り場で知り合った楽師。あの男も、とても楽師には見えない風貌をしていた。何と形容したらよいだろうか、そう、気晴らしに酒場を梯子するような自分たちとは違う、住む世界が異なる人種だ。泥臭さを感じさせない落ち着いた物腰、しかし、それでいて、まるで相反するかのように人の裏側に潜む醜さを周知しているという空気をその眼差しの端々に隠していた男。温厚でいて飄々と捕らえ所のない奴だった。それでも何故だが気が合って、気がつくとその男は自分にとって親友と呼べる数少ない相手となった。

 その男の素性は、最後まで謎のままだった。流しの竪琴弾きだと言う他は……。

 いや、敢えて互いにそこには触れないでおこうとしたからなのかもしれない。その結果、本能的にうまく隠されていたはずの傷口から吹出すであろう血膿を恐れるかのように。

 ある日、この街に腰を落ち着けたかに見えた友は、流れの楽師として再び旅に出たことを知った。挨拶ぐらいしていけばよかったのに。残された走り書きのメモと随分昔に貸したままになって返ってきた銀貨を指先で弾きながら、この街を去った男の名を心の中で口にした。

「…諫早(いさはや)

 親友が早すぎる生涯を終えたことは、風の便りに聞いた。最後は、弟子として共に旅をしていた幼子に看取られたということも。人の世とはままならぬものだ。自分が店を開いた暁には楽師として呼んでやると交わした青臭さの残る口約束を、結局、果たすことはできなかった。それが、今となっては、唯一の心残りとして胸中に刻まれていた。

 かつての親友を思い起こさせたこの若者が、ここにこうしているのも何かの巡り合わせではないだろうか。静かに竪琴(リート)を奏でる若者の横顔を眺めながら、店主は、暫し、巻き戻された時の中を物思いに耽っていた。


 心地よい余韻を持って最後の一音が狭い店内に掻き消えてゆくと、竪琴(リート)弾きの若者はゆっくりとその面を上げた。そして、程なくしてバールの店主の見ていた束の間の夢も泡沫のようにひっそりと消える。

「久し振りにいいものを聞かせていただきました」

 たっぷりと息を吐き出して、「ありがとう」としみじみと礼を述べた店主に、楽師は柔らかく微笑んだ。

「いえ、こちらこそ、お付き合い頂きありがとうございました」

 この若者の音は、まるで澄んだ水のようだ。彼の手から紡ぎ出される曲は、無意識の中に留め置かれた人の心の澱を溶かしてゆく。

 偶には、こういう趣向もいいだろう。この気持ちを少しでも常連客に味わって欲しいと店主は素早く、頭の中にある楽師の一覧表を捲った。幸いにも今夜、仕事に来る予定の楽師は無かった。ひょっとしたら、このところ顔を見せなかった篠笛吹きの男が現われるかも知れないが、あの男なら問題無いだろう。そう確信すると店主は、飛び入りの竪琴(リート)弾きに経営者としての笑顔を向けた。

「この店の開店は日没頃です。その頃、どうぞ、またいらしてください」

「それでは、今夜、ここで弾かせていただけるのですか?」

 嬉しそうに顔を輝かせた若者に、

「ええ、是非、お願いします」

 主はにこやかに右手を差し出した。握り返された若者の指は少し冷たかった。


 * * *


 月明かりを背に、細く開いた窓から吹き込む涼風が、毛羽立った窓枠を揺らしていた。カウンターでゆっくりとカニャークの盃を傾けていた男は、終わりを告げた竪琴(リート)弾きの演奏に静かに大きく息を吐き出した。しっかりと注意して精神の平衡(バランス)を取っていないと、今にも体が震え出しそうだった。早くなった脈拍がこめかみを圧迫し、疼痛さえ感じる鼓動が体内に鳴り響く。拳を胸に当てたのも無意識の動作だった。

 ―――まいったな。

 男は、内心の動揺を隠そうと苦笑混じりに長い溜息を吐いて、辺りを見回してみた。狭い店内にひしめく男達は、皆一様に感じ入ったように銘々の盃の中身を啜っていた。それまでの旋律(メロディ)の余韻に浸りながら誰も口を開こうとはしない。異様な静寂が辺りを包む中、それでも、皆、幸福そうな顔をしていた。つと上げた視線の先に、バール店主の上気した顔があった。目の端に薄っすらと涙を浮かべ、それを気取られないように何度も目を瞬かせている。

 まさか、こんなところであの旋律を耳にすることになろうとは、予想だにしていなかった。遥か二十年も昔、初めて聴いた竪琴(リート)の音だ。心の準備がなかった分、思わぬ程の威力を持って、その懐かしい音は男の心中に染み込んで来た。時間という名の薄い膜(フィルター)に通された、ほろ苦くも甘やかな記憶。大切なものを失った喪失の痛手の疼き。心の奥底にしまっておいたはずの諸々の想いが、かき乱されるようにして表面へと浮上を始める。男の脳裏に二十年前に突如として自分の前から姿を消した少年の顔が浮かんだ。表情の無い、能面のような白い顔。柔らかな髪に線の細い輪郭が、少し離れた所で竪琴(リート)を抱え、目を閉じた若い楽師に重なった。

 おい、待て。この楽師が、あの時の少年だと言うのか。飛躍しすぎた思考に、男ははっとして慌てて水を差す。今、少し離れた壁際に座る楽師は、穏やかな微笑を浮かべていた。その表情には、自分の記憶の中にある少年の印象とは天と地程の差があった。きっと、感傷のままに、突如として引きずり出された記憶に自分自身が混乱しているのだろう。そうだ。恐らくそうに違いない。

「…睦月(むつき)…」

 男は、かつて自分が名づけた少年の名を無意識に口にするとゆっくりと目を閉じた。




「ここ、いいですか?」

 長々と深く物思いに耽っていた男は、突然降ってきた声にすぐさま答えることが出来なかった。気づいた時には、隣に窓際に居たはずの竪琴(リート)弾きが腰を下ろし、カウンターを挟んで店主と和やかに言葉を交わしていた。

「この街は初めてですか?」

「いいえ。……でも、ここに来るのは随分と……久し振りですね」

 店主の質問に差し出された葡萄酒の杯をゆっくりと傾けながら、竪琴(リート)弾きはどこか遠い目をしていた。

「しかしまあ、本当にいい演奏でした。お客さんにも喜んで貰えたようで、私としては嬉しい限りですよ。もう随分と竪琴(リート)をお弾きになってるんでしょう?」

 先程の演奏の余波を噛締めるようにうっとりして見せた店主に、若者は照れくさそうな笑みを口の端に浮かべた。

「ありがとうございます。でも、私の演奏などまだまだです。師匠が聴いたら呆れるでしょうね。全く下手の横好きというやつですよ。竪琴とはもう、物心ついたときからの腐れ縁のようなもので……付き合いの長いことだけは確かですが」

 その言い様に店主は軽く目を見張った。

「それは随分な御謙遜じゃありませんか。私も長い間、ここでバールをやっていて商売柄いろんな楽師を見てきていますが、先程のような竪琴は、なかなか聴けるものではありませんよ。ねえ、旦那?」

 カウンター向こうの店主にいきなり話を振られて男は、落していた目線を上げた。

「ああ。そうだな」

 短く相槌を打つと、同じく反芻するように付け足した。

「俺も長年いろんなやつを聞いてきたが、さっきのはいい演奏だった」

 抑揚のない口調でもその心が伝わったのか、

「ありがとうございます」

 男の言葉に楽師は嬉しそうに目を細めた。



「この街には暫く滞在の御予定で?」

 店内が再び普段通りの喧騒に飲み込まれてゆく中、カウンターではありふれた世間話が始まっていた。

「どうでしょう」

 少し首を傾げて見せた竪琴弾きに、

「どうだろう。よかったら、ここにいる間はうちで弾きませんか」

 思いがけずも掘り出し物を見つけた気分に高揚していた店主は、この機会を逃すまじと探るように提案を持ちかけた。流れの楽師であれば、主からの申し出は願ってもみない話に違いなかった。条件もいいはずだ。

 昼間、飛び込んで来た時の若者の様子を思い出し、肯定の頷きを待っていた主は、

「ありがとうございます。ですが、今日はお気持ちだけ頂きます」

 若者の口から出た穏やかな断りの科白に耳を疑った。一瞬、虚を着かれたような顔をした後、心底残念そうな笑みを浮かべた。

「他に行く当てがおありなんですね。いやあ、つくづく惜しいですな。貴方ほどの竪琴弾きはここではお目に掛れないのですが…。どうです、考え直して頂けませんか。ここで会ったのも何かの縁でしょう?」

 尚も食い下がる主に若者は苦笑を漏らした。

「私としても、ご期待にお答えしたいのはやまやまなのですが……。生憎と別の用事がありましてね。そちらをまず片付けないことには何ともお約束は出来かねるのですよ」

 やや躊躇いがちに人の良さそうな優しい顔立ちを申し訳なさそうに歪めると、若者は、内緒話をするように主へと身を屈めた。対する主も釣られるようにして身を乗り出した。

「実は人を探しているんです。こちらでは私のような旅楽師が出入りしているんですよね。篠笛を吹く楽師というのは多いですか?」

「篠笛吹き……ですか」

 上体を起こしてから少し考える風にして呟くと、店主はチラとカウンター前に座る男へ目を走らせた。

「それなら、旦那の方がお詳しいんじゃないですか。何せ同業ですからね」

 つまみの乗った皿がカウンターの前に置かれた。

 主の言葉に若者は、隣の男を見上げた。

「貴方も楽師でしたか。……もしかして予定を狂わせてしまいましたか」

 自分が飛び入り参加した所為で、折角の稼ぎ場所を奪ってしまったと思ったのか、済みませんと恐縮そうに頭を下げた若者を男は軽く制した。

「いや、それは構わない。俺の場合は本業じゃないからな。手遊びの真似事に過ぎん。今夜も約束をしていた訳ではない」

 話しを振られた男は、横目で若者を見ると会話に巻き込まれたことが面倒なのか、何故か言い訳がましく口にしてから、うるさそうに前髪を掻き上げた。艶のある黒髪に店内の短くなった蝋燭の明かりが柔らかく反射している。男の額に触れる長い指先を見つめながら、竪琴弾きは続いて吐き出される言葉を待った。

「ここでは専ら【(リュート)】が持て囃されているからな。篠笛吹きは多くはない。せいぜい両の手に余る位だろう」

 若者は、肘を突いた腕から伸びる白い手に(おとがい)を乗せるようにして思案した。

「……成る程。あの、ここでは楽師と繋ぎを取る時はどうしているんですか?」

「篠笛吹きを探しているのか」

 視線だけで見下ろした男に竪琴弾きは軽く頷いた。

「楽師は、御存知の通り、旅烏(たびがらす)ですからねぇ。大抵は、貴方のように向こうからやってくる訳です。皆、放浪の一匹狼のようなものですから、彼らの間に特別な情報網があるとも思えません。楽師仲間はいるでしょうがね。まあ、お目当ての楽師が顔を出しそうなバールを当たってみるのが一番の早道でしょうね」

 男の代りに答えた店主の目には好奇心の光が宿っていた。

「で、貴方はどういった篠笛吹きを探しているんです? 今夜のお礼に私でよければお力をお貸ししますよ」

 興味を引かれたのか、それとも用事が終わった後の見返りを求めているのか、少し癖のあるにこやかな笑みを浮かべながら身を乗り出した店主に、若者は自分が手にしている唯一の情報である尋ね人の名前を告げた。


 「【三日月】と名乗る篠笛吹きに心当たりはありませんか。多分、男の人だとは思うのですが……」

 竪琴弾きの問いかけに隣に座る男は、僅かに片眉を上げた。

 バールの店主は、そのまま、ゆっくりと飴色の液体の入った盃に手を伸ばす男の様子を面白いものを眺めるように観察していた。この男は何かを知っている。長年客商売で培った勘に店主は目を細めると微笑を深くした。

 気味が悪い程の表情で自分を見下ろす店主に気がついた男は、あからさまに眉を顰めた。

「何を企んでいる?」

 男の口からは鳥肌が立ちそうな程の低い囁きが漏れた。その牽制に動じることもなく、主は何食わぬ顔をして肉の燻製を薄く切ったものとチーズをパンの上に乗せたつまみが並んだ皿をカウンターの前に滑らせた。

「少しですけど食べていってください」

 竪琴弾きの若者に笑顔で勧めてから、店主はちらりと男の方を見ると、目の奥に一癖ある光を湛えながら楽しそうに言葉を継いだ。

「そんなに睨まないで下さいよ。嫌ですねぇ。旦那なら、何か御存知なんじゃないですか。そう頻繁ではないですが、ここに来るようになって随分と経ちますでしょ。その間に同じ笛吹きのことを耳にしたことがあるかも知れないと思ったまでですよ」

「そういう主の方はどうなんだ。せっせと余所から来る楽師の情報を集めていると聞くぞ。商売熱心この上ないな。……まあ、仮にその楽師のことを耳にしたことがあったとしても、俺がそいつの居場所を知っているとは限らないがな」

 男の冷ややかな口調にカウンター付近の温度が一気に下った気がした。

「ええ、そうですね。仮に貴方が御存知だったとしても、ここでそれを私に教えてくださる義理もない訳ですからね」

 何が男の気に触ったのかは分からなかったが、竪琴弾きの若者はのんびりとした様子で可笑しそうに呟いた。

「それもそうだな」

 そのどこか他人事のような口ぶりに男も釣られるようにして口の端を上げた。

「まあ、すぐに見つかるとも思っていませんし、ここは気長に行きますよ」

 鼻はそれなりに利く方だとは思うが、ここは大きな街だ。初めから楽観はしていない。

「そいつに会ったことはあるのか?」

「いいえ。姿形でも分かればもっと楽なのでしょうがね。生憎と名前しか知りません。まあ、それも通り名のようですし、確実なのは【篠笛吹き】の【男】だということ位でしょうね」

「そうか」


 バールの店主は、目の前で繰り広げられる二人の会話に聞き耳を立てながら、若者の様子に内心舌を巻いていた。彼の隣に座るのは、上背があり威圧感のある男で、ただそこに居るだけでも、黙っていると近寄り難い冷たさがあった。鋭い灰色の目が時折、獲物に狙いを定めた鷹のように細められると、大抵の者は言い様のない悪寒に捕らえられて、体を竦ませる。あまり表情の変わらない顔立ちは時として迫力があり、愛想はよくないが表裏のない声に長年の付き合いから男に他意はないと分かっていても、鼓動が幾分早くなる。商売柄色々な男たちを見てきた店主でさえも、その存在感に慣れるまでにはそれなりに時間が掛かったのだ。

 だが、この竪琴(リート)弾きの若者は、そんな男の様子にはまるで頓着していないようだった。端から見れば刃の切っ先のような鋭い張り詰めた空気にも始終変わりなく穏やかに微笑んでいる。この若者の醸し出す柔らかい空気のせいかカウンターは、いつになく和やかに見えた。そうするとこの隣の男も単なる無口な青年に見えてくるから不思議だ。


「それにしても意味深ですねえ。その男を探し出してどうするんです?」

 それまで黙って二人のやり取りに耳を傾けていた店主が、差し出がましいと思いながらも、焦れたように口にした。どうも見ず知らずの男を探すということが謎めいていて興味を引くらしい。

「ふふふ。知りたいですか?」

 それまでとは違った妖艶な響きさえする竪琴(リート)弾きの声に、店主はごくりと唾を飲み込んだ。続いて若者は、思わせぶりな微笑を湛えたままカウンターに頬杖をついて横目で隣の男を流し見た。対する隣の男は、表情を変えずに時間を掛けて杯の中身を干した後、ちらと視線を横に滑らしてから、彼の挑発に乗るような仕草で同じく右側で頬杖をつくようにして正面から若者を見据えた。そのどこか駆け引きめいた視線の絡み合いを前にして、それまで真鍮の盃を磨いていた主の手が止まった。


 落ちた沈黙に蝋燭の芯がジッと燃える音が耳についた。ほの暗い橙色の柔らかな光が、謎めいた若者の表情とそれを楽しそうに見つめ返す男の横顔を揺ら揺らと照らし出す。少し離れたテーブルでは、赤ら顔の男たちが賑やかに互いの肩を叩き合っていた。


 先に沈黙を破ったのは竪琴(リート)弾きの方だった。彼は、いきなり肩を震わせたかと思うと左手の甲で口を抑えながら、喉の奥から漏れる笑いを懸命に堪えている。その様子につられたように隣の男も声を立てて笑った。店主は一瞬、初めて目にする男の表情に目を白黒させたが、続いて堪えきれないように笑い声を漏らし、肩を揺すった。

 賑やかな店内に輪を掛けるようにして、カウンターに座る男たちの音程の違う笑い声が暫し店内に響いた。


「……済みません」

 目の淵に溜まった涙を拭いながら、いまだ震える喉を湿らそうと竪琴(リート)弾きは水の入った椀に手を伸ばした。

「自分から話しを振っておきながら…」

 隣の男も店主も水を飲んで笑いの連鎖からは復活したようだった。若者は大きく息を吐き出すと一瞬、悪戯を咎められた子供のようなばつの悪そうな表情を浮かべた。それから、やや真剣な面持ちで足りない説明をするように言葉を継いだ。

「【三日月】という男を探し出して自分がどうするのかは、正直、会ってみないと分かりません」

 店主と隣の男が虚を突かれた様に動きを止めたのが分かった。

 『どういうことだ?』と目線で続きを促がした黒髪の男に竪琴(リート)弾きは曖昧に微笑んだ。

「恐らく、会えば分かると思います。私がここにやって来なければならなかった意味も。今、口に出来るのはここまでです」

 若者は、店主が出してくれたつまみの乗った皿に添えられたオリーブ(木の実の油漬け)を抓むと盃に残っていた葡萄酒を一気に呷った。

 隣に座る黒髪の男は、色の濃くなった灰色の眼差しを少し眇めながら、そんな若者の様子を静かに見ていた。その耳に、「何だか、益々暗号のようだねぇ」とぼやく店主の声が聞こえた。


 * * *


 今夜の宿はまだ決まっていないという竪琴弾きに黒髪の男は、

「それなら、家に来るか?」

 と声を掛けた。

 バールの木戸を抜けて外に出ると、それまでの熱気が嘘のように冷え冷えとした秋の夜風が二人の頬を撫でた。酒が巡り火照った体に、街道を吹き抜ける風が心地よい。

黒髪の男は目を細めた。

「気持ちがいいな」

 店の外の通りには、近くに連なる同じようなバールや宿屋からの灯りが点々と漏れ、すっかり闇の中に沈んだ夜道をぼんやりと照らしていた。そこから滲むようにして聞こえる喧騒が、波のように眠りを忘れた街を浸してゆく。風に揺られて、通りを囲む木々の梢がさわさわと鳴っていた。

「お邪魔ではありませんか?」

 数歩先を歩く男の背に、竪琴(リート)弾きは躊躇いがちに声を掛けた。先程までいたバールのカウンターで隣に座っていた時には気がつかなかったが、男はかなり上背があった。少し見上げるようにして上げた視線が、顔だけ振りかえった男の灰色の瞳とかち合って、若者は咄嗟に笑みを浮かべた。

 闇の中、男が口元を緩めたのが見えた。

「気にするな。迷惑なら、初めから声など掛けていない」

「そうですか」

 ほっとしたように息をついた若者に、

「そいつを少し弾いてくれればいい」

 男は背に括り付けられた竪琴(リート)の入った袋を顎で示した。

「私でよければいくらでも」

 有り難い条件の申し出に嬉しそうに微笑むと若者は男の隣に肩を並べた。

「あ、そうだ。先程のバールでも聞きましたけれど、貴方も篠笛を吹かれるんですよね。もし、よかったら、後で聴かせて下さい」

「………」

 気分を害したのだろうか、返事をしない男に若者は少し慌てた。

「勿論、無理にとは言いませんよ。気が乗らない時だってありますしね」

「……聴いてどうするんだ?」

 少しの間の後、男の口から漏れた疑問に、若者の方が不思議そうな顔をした。

「どうするって、篠笛が好きだという理由ではいけませんか。生憎と私は竪琴(リート)弾きで自分では吹けませんし。……それに………」

「それに?」

「いえ、何だか、無性に懐かしくなりましてね。もう、ずっと昔のことですが、まだ、この街にいた時分、知り合いに篠笛を吹く子がいたんです。……私は、……その笛の音が大好きだった」

 どこか昔を思い出しながらの噛締めるような囁きに男が横目で窺うと、儚い微笑を浮かべたまま遠い目をした若者の横顔があった。

「その知り合いとはどうしたんだ?」

 低い穏やかな男の口調に、若者は僅かに目を細めた。

「満足な挨拶を交わす間もなく別れました。私の個人的な事情で……。最後に笛を吹いてもらって。………それっきりです」

 若者は大きく深呼吸をするとそっと目を閉じた。竪琴を入れた袋の、特徴のある組紐を胸の前で握り締めて。

「今でも、思い出すと、その時の笛の音が耳の奥で鳴っているんです」

「―――そうか。俺も……似たような話を知っている」

 長い沈黙の後、真っ直ぐに前を向いたまま男の口から微かに漏れた呟きは、どこか自嘲めいていて、すぐさま吹きつけて来た涼風に掻き消えていった。



「そう言えば、まだ、名乗っていませんでしたね」

 少し先を行く男に遅れまいと気を使いながら、リート弾きがのんびりと口にした。自分でも背は低くない方だとは思っていたのだが、隣を歩く男との身長差はそのまま歩幅の違いに表れているようで、少し気を抜くと開いてしまう男との距離が内心面白くなかった。

「私の名は…」

 そのまま続けようとした目の前で、突然、男が足を止めた。思いきって右足を踏み出していた若者は、そのまま男の背に顔をぶつける形になってしまった。

「おっと、……済みません」

 慌てて謝り、不意に打ってしまった鼻の頭を摩っていると、男の前方からカチリと鍵穴の回る音がした。

「ここだ」

 男は静かに一言呟くとそのまま扉が開いた先に続く闇の中へと消えた。


 迷うことなく中に入った男の靴音だげが響いて、日除け(カーテン)と思しき布をそっと左右に曳いた。すると月明かりに反射した緩やかな藍色の光が、真っ暗だった室内をヴェールのように柔らかく包んだ。

 竪琴弾きは、一歩中に踏み出すとゆっくりと部屋の扉を閉めた。左手で掴んだ真鍮の取手がとても冷たく感じられる。男が慣れた手つきで、机の上にあった蝋燭に明かりを灯すと、闇の中から部屋全体の輪郭が浮かび上がってきた。


 男の部屋は、綺麗に片付いていた。余計なものがない所為か広く感じられる。大きく切り取られた窓の下には机が置かれ、中央付近にゆったりと長椅子と卓が配置されていた。

 向かって、右側の壁には寝室と思しき部屋に繋がっている暗い空間が口を開けていた。左側には、どうやら台所があるらしい。

「適当に座ってくれ」

 棚から葡萄酒の壜と杯を二つ取り出しながら、男が声を掛けた。

「ありがとう」

 部屋の中を見回していた若者は、促がされるようにして長椅子の端に腰を下ろした。

「どうした。なにか珍しいものでもあったか」

 まだきょろきょろと辺りへ首を巡らせていた若者の様子に、男は終いに苦笑を漏らした。

「いえ、済みません。随分と広い部屋ですね」

 若者は誤魔化すような照れ笑いを浮かべてから感心したように呟いた。明かりの下で目にする調度類はどれも立派なものだった。腰を掛けた途端柔らかく沈み込む布張りの長椅子の感覚は随分と久し振りだった。その前に置かれた卓も小ぶりながら優美な曲線を描き、見事な彫刻がなされている。少し開け放たれた窓辺を揺らす日除けの薄布には、繊細で手の込んだ刺繍が入っていた。その下に置かれている机もつややかな木肌を柔らかく揺れる蝋燭の明かりに反射させていた。全体として焦げ茶色の落ち着いた印象だ。そう、一言でいうなれば、ここは、この部屋の主に似つかわしかった。


 竪琴弾きは、少し離れて葡萄酒を杯に注ぐ男の様子を眺めていた。ゆっくりと赤味を帯びた液体が杯の縁をなぞるように注がれると、甘い匂いが鼻先を掠めた。男は慣れた手つきで杯を持ち上げると、目線で乾杯を促がした。

 カチンと杯の触れ合う音がして、二人は味わいながら盃を干した。

「ここでの暮らしはもう長いんですか?」

 長椅子に背を預けながら、余り生活の匂いのしない室内を見渡して、竪琴弾きは尋ねた。

「この街での暮らしは随分になるな。ここに越して来たのは最近のことだが」

「出身はこの街なんですか?」

「…まあ、似たようなものだろうな」

 男は曖昧に頷くと手にしていた杯を卓の上に置いた。

「【三日月】という名の篠笛吹きを探してどうするつもりだ?」

 ゆったりとした動作で足を組替えた男は、長椅子の肘掛けに肩肘を突きながら射貫くような目つきで竪琴弾きの若者を捕らえると、静かに口を開いた。

「気になりますか?」

 若者は、男の視線に怯むことなく口の端を上げた。

「そうだな、どちらかと言えば、興味がある」

「それは、貴方がその男を知っているからですか?」

 幾ばくかの沈黙の後、

「―――それとも貴方が【三日月】だからですか?」

 真っ直ぐに男を見据えると竪琴弾きは微笑んだ。が、その目は笑っていなかった。

「どちらの方が、都合がいい?」

「それは、貴方にとっての話ですか?」

 間髪入れない竪琴弾きの切り返しに男は、男は小気味良さそうに声を弾ませた。

「俺がその【三日月】だと思う理由はなんだ?」

「まだ憶測の域を出ていませんが、一つは、バールでその男を知っているような口ぶりを見せたこと。二つ目は、見ず知らずのしがない旅楽師の宿を心配し、ここへ招いたこと。三つ目は……」

 目の前の男が、面白いものを見るように僅かに身を乗り出した。

「三つ目は?」

「……私の勘です。私が暮らしていた街では、これでも良く当たると評判なのですよ」

 その答えに男は小さく吹出した。

「それはいい」

 男は目を細めると若者の傍らにある竪琴へ目を留めた。

「弾いてくれないか」

「代りに答えを頂けるのでしたら」

「分かった。約束しよう。曲は、……そうだな、バールで聴いたのと同じ奴がいい」

 若者は頷くと袋から竪琴を取り出し、軽く弦を弾いて調音を確かめてからゆっくりと愛器を構えた。目を伏せて、愛しそうにその側面の華奢な骨組みを撫で上げると並んだ弦を爪弾き始めた。耳に馴染んだ旋律が聞こえてくると竪琴弾きは目を閉じた。



 遠く無意識の中で、幾度となく弾き鳴らしてきた旋律に懐かしい笛の音が混じった気がして竪琴弾きは顔を上げた。若者は目の前の光景を目にした瞬間、はっと息を呑んだ。男がいつのまにか、どこからか取り出した篠笛を口に当てていた。そこから、自分の竪琴に合わせるようにして篠笛の旋律が細く艶やかに響いてくる。

 若者の目の前には、遥か昔の情景が浮かんでいた。初めて知り合った篠笛を手にした少年との合奏。ささやかな幼い頃の温かい思い出。それを踏みにじってしまったのは自分であったのに……。

 この笛の音は、長い間、自分が追い求めていたものだった。老師の元を離れてより、暫く各地を転々とする暮らしを続けていたのも、ひょっとしたら、どこかで、あの時の篠笛吹きの少年に会えるかもしれないとの思いがあったからだ。忘れようとしても忘れることの出来なかった音。この体に染みついた旋律。

「…十六夜(いざよい)…?」

 震える息の下、無意識に漏れた呟きは、掠れていた。最後の一音がいつになく余韻を引いて部屋の壁に反響しながら消えてゆくと篠笛を手にしていた男が、閉じていた目をゆっくりと開いた。

「…睦月(むつき)……」

 優しく、眩しいものを見るように目を細めた男が、同じく震える息の下から、低く、密かな囁きを漏らした。

「え…?」

 一瞬、自分がどこにいるのか、何を言われたのか、分からなくなって、若者は目を瞬かせた。その拍子に、するりと頬を熱いものが伝って流れた。

「睦月」

 もう一度、今度ははっきりと耳に届いた名前に、若者は弾かれたように顔を上げた。

「……どうして…その…名を?」

 二十年も昔、この街を捨てた時、共に封印したはずの名前。その名を呼ぶことの出来る人物は、この世に一人しかいない。

 名前と共に生ける屍であった自分に命を吹き込んだ初めての友―――十六夜(いざよい)

「俺がつけたからに決まっているだろう?」

十六夜(いざよい)!? まさか、十六夜なんですか?」

 大きく見開いたままの若者の顔に、男は微笑んだままゆっくりと頷き返した。


 呆然としたままの若者のすぐ隣に体を寄せると、男はその頬を伝っていった涙に濡れた跡へそっと指を滑らせた。

「…………驚いた…」

 やっとのことで搾り出した囁きに、男も同じように苦笑を漏らした。

「それは、こっちの科白だ」

「……まさか。―――もう、二度と会うこともないと思っていたのに……」

「……そうだな。俺も、お前に会える日が来るとは思ってもいなかったよ」

 頬をなぞっていた指先が離れてゆくと若者は目を伏せた。

「その………済みませんでした」

「何が?」

「突然、姿を消してしまって…」

「―――もう、済んだことだ。気にするな」

 男は大きく息を吐き出すと、苦しげに顔を歪めた竪琴弾きの背中を軽く叩いた。

「やむを得ない事情があったんだろう? あの時は流石に堪えたが、もう二十年前の話しだ。俺もそれなりに年を取った訳だし、過ぎたことをとやかく言うのも莫加げている。違うか?」

 その真摯な声音での吐露に若者は、安堵したように微笑んだ。

「ありがとう。そんな風に言ってもらえるとは思っていませんでした。ずっと心残りだったんです。折角、君と仲良くなれたと思ったのに、碌な挨拶も出来ずにここを離れなくてはなりませんでしたから……。突然いなくなって、君はさぞかし、がっかり、いや、恨んでることだろうと思っていました」

「―――無事で良かったな」

 しみじみとした男の呟きに若者は探るような視線を向けた。

「貴方は、どこまで知っているんですか?」

「何の話しだ?」

「その…私の【事情】のことです」

「その昔、宮城にいた小さな竪琴弾き。名は、睦月。無論、俺が付けてやった名だが。それだけ揃えば十分だろう?」

 敢えて過去を問うことなく、すらすらとそれだけ口にした男に、若者は少しだけ虚を突かれた顔をしてから、直ぐに満足そうに声を上げて笑った。

「そうですね。因みに、私はもう【睦月】ではありません。【ここ】を離れた時に、その名は永遠に鍵を掛けてしまってしまったのですよ。今の私は、【修理(しゅり)】です」

 晴れやかな気分で見上げた視線の先には、初めて出会った時と変わらぬ穏やかで温かい笑みがあった。

「そうか。それならば、こちらも同じことだ。今の俺は【三日月】と呼ばれている。宜しくな、修理」

「ええ」

 差し出された右手は、あの頃と同じように温かくて、そして大きかった。

 断絶された二十年もの時は、お互いを驚く程に変えていた。ここには、かつての【睦月】も【十六夜】も存在しない。また新しく、【修理】【三日月】として人生を交差させた機会を大切にするだけだ。止まったままの時が、漸く流れ出した。心の奥底に刺さったままの棘がやっと抜けて、その夜、二人は長年の痞えが落ちたように心から笑ったのだった。




「さて、では、本題に戻るとしますか」

 暫し再会の感動の余韻に浸った後、互いの背中に回していた手を離して修理が言った。

「そうだったな」

 三日月はもっともだという風に頷いて、その場で居住まいを正した。


 辺境の【ナ・クライネ】にいた修理が、宿禰(すくね)から言い付かった用事というのは、首府に暮らす図書(ずしょ)殿からの文を「古都(スタルゴラド)にいる篠笛吹きの三日月」という名の男に届けるというものだった。

 古都(スタルゴラド)は、修理の故郷だった。二十年前、命からがら逃れるようにして出奔したという事実は別にして。

 【三日月】が、当時、彼が唯一心を開いていた相手【十六夜】だということを老師は知っていたのだろうか。宿禰(すくね)ではなく、敢えて自分にこの役目を言いつけた老師の采配に、修理は納得しながらも、ただただ、驚きを隠せないでいた。


 修理は、腰に括りつけていた小さな包みを解くと、中から件の文箱を取り出した。そして、それを三日月の座る卓の前に静かに置いた。

「これを図書(ずしょ)殿より預かりました」

 その言葉に、三日月の顔に緊張の色が走ったのを修理は見て取った。

「ついでに補足しておけば、私は、これを直接老師よりお預かりした訳ではありません。老師の所に出入りする宿禰(すくね)という男が、これを持って私の元を尋ねて来たのです。その中身は、私も宿禰も知らされてはいません」

「そうか。宿禰という男のことは俺も耳にしたことがある」

 それだけ口にすると、三日月は文箱に手を伸ばし、紐解いて中を開けると文と思しき厚みのある料紙の束を手に取った。

「席を外しましょうか?」

 内密の手紙を読むにしては近すぎる距離に、修理は顔を背けて立ち上がった。

「いや、このまま、そこにいて構わない」

 最初の一枚に素早く目を走らせていた三日月は、修理の申し出を気に留めなかった。



「水を貰いますよ」

 修理は、少し離れた小さな卓の上に置かれた水差しに目を留めて歩み寄ると、三日月を振り返った。三日月が視線を手紙に縫い付けたまま、首を縦に振ったのを見て取ると、側に置かれていた杯を手に取り、水を注いだ。修理は、その場で杯に口をつけ、壁に凭れるようにして立つと暫くその場から三日月の様子を眺めた。

 手紙は随分と長いもののようだった。三日月は、右から左へと巻かれた料紙の束を繰りながら真剣な面持ちで文面に目を通している。時折、その男らしい形の眉間に皺が寄った。

 二十年。それは思い返せば、長い年月だった。あれから、随分と色々なことを経験してきたとは思うが、それは、この目の前の男にも言えることなのだ。修理が【十六夜(いざよい)】と呼ばれていた頃の三日月と接点を持った期間は、ほんの半年ほどにしか満たなかった。あの時、何故、幼い彼が宮城にいたのかも、あれからどんな暮らしをしてきたのかも、今なおこの街に留まり、ここで何をしているのかも、修理は何一つ知らなかった。


 さらさらと揺れ、蝋燭の灯りを反射させている少し長めの黒髪。日に焼けた肌の色。記憶の中にあった幼き頃の面影は、今やどこにも見当たらない。その中でも、ただ変わらないのは瞳の色か。光を吸い込み、その想いを宿す深い灰色の瞳。光の加減で少し青みがかって見えるその色は、薄闇の中でも玉のように美しかった。

 知っているのは、今も昔も、その名前と篠笛を吹くということだけだ。それは、向こうも同じことだろう。ふと、その事実に思い至って、修理は小さく喉の奥を振るわせた。

 分かっているのは、たったそれだけのこと。

 だが、それでも構わないかもしれない。少なくとも、今は、同じ轍を踏まないだけの自信があった。二人の間に止まっていた時がやっと動き出したのだ。全てはこれからだ。少しずつ、失ってしまった時間を取り戻してゆけばいい。今の自分にならそれが出来るはずだ。修理は心の中で、今回の機会を与えてくれた図書老師に感謝した。そして、期せずしてこの予想外の【おまけ】をもたらしてくれたであろう宿禰にも。



もう色々とちゃんぽん。中華+和風に言語的にスラヴっぽさが混じる感じで。ここで街の名前を古都、スタルゴラドにしてから、いつかこの街の名を使いたいと思っていました。

楽師、吟遊詩人、篠笛吹き――惹かれて止まないジャンルといいますか人々です。それにしてもいい加減酒場バールネタが多いですね(笑)


この修理と三日月のイメージを性別を変えたりして、発展させたものが、もしかしたらリョウとユルスナールに近いかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ