2)紅の海に沈む男
同じ世界のとある秋の情景。
その人は、曼珠沙華が一面に咲き誇る紅い海原の中に、独りつくねんと立っていた。
曼珠沙華。別名、彼岸花。
それは秋の初め、ちょうど彼岸の時分に咲く花だった。燃えるような紅さとそれに相反するかのような繊細な曲線を持つ大ぶりな花弁群。草むらの緑に浮き出るようにして、過ぎにし命の灯りを灯す。風に翻る僧侶の黒衣と葬式の列が、よく似合う花だった。
街外れにある野原でその光景を目にしたのは、ほんの偶然の出来事だった。
母親に頼まれてお月見に供える薄を取りに、いつもの遊び仲間と連れだって勝手知ったる原っぱにやってきた。そこには、この時期になると真っ赤な花が一面に咲いていて、子供心にも、それは壮観な景色だと思ったものだ。まるで異世界に足を踏み入れたような妙な心の高揚と人を寄せ付けない寂寥感が、素直に畏怖の念を掻き立てる不思議な空間だった。その花が、彼岸花と呼ばれることを知ったのは随分と経ってからだ。
頃は誰そ彼れ時。
沈み行く夕日が辺りを赤く照らす中、その人は、真っ赤に染まる花々の中に立っていた。
まるで血の海に浸かっているようだった。大量に染まる血の海などそれまで実際に見たことは無かったが、何故かそのような連想が閃き、そしてそんなことをチラとでも思いついた自分に怖くなった。
少し顔を俯けて、橙色に滲む姿は微動だにせず、その人はもの思いに耽っていたのだろうか。少しでも物音を立てようものなら、そのまま暮れ行く夕日とともに、闇に溶けてしまいそうな危うさが周囲に潜んでいた。
その人の表情はよく分からなかった。感情を削いだ能面のような顔。若いようでいて、年月を感じさせる横顔。泣いている訳でもないのに、その姿は、酷く哀しくて、そして、何故か神々しかった。
まるで夢を見ているような気分だった。普段は意気揚揚と大声を張り上げる悪餓鬼連中も声を無くして立ち竦んだまま。一体、どれほどの時間が経ったのだろうか。永遠に続くかの如く思われた沈黙を破ったのは、くしゅんと漏れた仲間のくしゃみの音だった。
突然、静寂を打ち破った空気の震えにびくりと身体を竦ませた僕らを余所に、その人がゆっくりと振り返った。そして、相対するように少し離れて、横一列に並んだ小さな五つの影を認めると、冷たい表情が一転、小さく笑みを零した。
それは、今までに見たことの無いようなとても儚げで澄んだ微笑みだった。
あれから三年。その人は、この街の外れに一人で暮らし、時折、街に出てきては、酒場で【竪琴】や【弦】を奏でたり、子供達に読み書きを教えたりしている。
朗らかで優しい面差しをしたその人は、今では師と呼ばれ、すっかり街に溶け込んでいた。まだ若く独り身で、それなりに高い教養があるらしいのに、誰にでも分け隔てなく接する気さくさは、街の人には高い人気があって、よく相談事を持ち込まれていた。とりわけ、手のかかる子供達の面倒をみてもらっているおかみさんたちは、子供達が素直に言うことを聞く様子に驚き半分、嬉しそうに眼を細め、そして、若い娘達は、いつも子供達に囲まれて、なかなか近づきになれない師との距離にやきもきしているようだった。
ただ、そのような中でも、師はいつも独りで、どこか飄々としていて、柔らかな笑みを絶やすことは無かった。
穏やかでのんびりとした街での日々。あの日以来、師のあんな顔は見たことは無い。
ここに来るまで、師がどこで、どんな暮らしをしていたのか、それを知る者はこの街にはいない。街の大人たちは、それが必要の無いことだと分かっていた。
今では、僕にもそのことが少し理解できる。師にあの時のような顔をさせるくらいなら、黙っているのが、大人の分別というものなのだろう。師のあんな哀しそうな顔は二度と見たくなかった。
あの時の情景は、今でも目裏に焼付いていた。忘れようとしても忘れられなかった。いや、忘れてはいけないと思った。これからも師と関わり合いになるのなら、誰か一人くらいは分かっているべきだ。あの穏やかな微笑みの内には、誰も知ることのない深い哀しみがあるということを。それが、あの場に偶然立ち会った自分達に課されたことだと思っている。
そんなちょっとした使命感と街の大人たちが知らない師の秘密を知っているという優越感を心の奥底に潜めて、今日も街に現れたひょろりとしたその背を見つけると僕は我先にと飛んでいった。
「師!」
「やあ、勘解由、元気にしていたかい?」
いつものように往来に現われた僕を見つけると、師は微笑みながら手を伸ばして僕の髪をくしゃりと撫でた。それが師と僕とのいまだに変わることのない挨拶の構図だ。
「あれ、少し背が伸びたかな?」
目を細めた師に僕は胸を張って答えた。
「おうよ。そのうち、もっとでっかくなって、師を追い越すんだからな」
まだ、優に頭一つ分はある身長差。いつになったら師と同じ目線で世の中を見ることが出来るだろうか。
「それは頼もしいね」
いつも上にある師の微笑が、今日は何だか眩しく、そして歯痒い。
「なあ、師。今日ひょっとして、あの髭もじゃが来る日?」
その腕の中にある食べ物の詰まった重そうな籠を見て、なんとなく口にした言葉に師は、一瞬、何とも言えないような複雑な顔をして、それから困ったように苦笑を漏らした。
「おやおや、きみもそう思いますか? どうでしょうねぇ。あれは、気まぐれで、風のような男ですから」
風のような男。
師は何故だか、決まってその男のことをそう評した。
「今日は偶々、貰い物があってここまで出てきたのですが、あの男は妙に鼻が利きますからね。まあ、私もそんな気がするので。一応、用意だけはと思っているんですよ」
師は、何故かその男のことを話すときは、驚くほど容赦が無かった。それだけその男と付き合いが長く、お互いをよく知っているということなのだろう。そんな二人の間柄を少し羨ましく思う自分がいる。
「あいつ、ほんっと大飯食らいだもんな。遠慮なんてしないだろ?」
僕は前に一度だけ、師の友人だと言う――師にしては珍しく、そう認めるのが不本意な顔をしていたが――髭もじゃの大男に会ったことがあった。師とは全く逆の熊に似た野生児みたいな男で、何で師のような穏やかで品のある人が、こんな下品で無礼極まりない野獣のような輩と知り合いなのか甚だ疑問に思ったくらいだ。
それでも、二人を見ていて分かったことがある。あの男が師を見る目は、その態度とは裏腹にとても優しかった。熊のような男に対して小舅よろしくあけすけにぶちぶちと文句を並べる師も珍しかったが、なんだかんだと言いつつも、それを嬉しそうに受けて、結局は師の言うなりになっている熊男を見るのも悪い気はしなかった。
髭もじゃ男といる時の師は本当に楽しそうに見えたから。二人の間には、街の人が知らない独自の空気があって、そういう風にして二人はお互いの旧交を確かめ合っているのだろうって。それは、どう転んでも僕達には分からない特別な感覚だ。それが、今日はなんだか悔しい気がした。
「あの髭、まだ伸ばしたままかな」
ふと思いつきを口にすると、
「全く、あの髭がある所為ですっかり怪しい人物になってしまいますからね」
師は心底呆れる風に溜息をついて見せた。
「あれでも髭を剃ってこざっぱりすれば中々の男前なのに。どんな男の美学とやらを持ち合わせているのかは知りませんが、若いうちからあんなにむさくるしいのでは、先が思いやられますよ」
「へ? あの髭もじゃが若い?」
僕は思わず耳を疑った。どう見たって、自分の親爺よりは上に見えるのに。
「ええ、私より二つ三つは下の筈ですよ」
「はぁあああ! うっそだろ」
突然、つまびらかになった意外な真実に僕は呆然と呟き、師はそんな僕の様子に少々ばつが悪そうに、視線を逸らしたのだった。
河原や田んぼのあぜ道などに咲く彼岸花を描きたかったというだけのものです。登場人物たちの名前は、古式ゆかしい日本風ですが、世界観は、どちらかと言えば中華風味にしようかとも迷っていたので定まっていません。




