「裏切ったのは、一緒じゃない……!」
「じゃあ、どこから?」
マリア・Bが、首を傾げて問いかける。
もう一人のマリアは答えなかった。サムウェルが肩を竦める。
「先刻、お勧めできないと言った方法だろう。山越えだよ」
「山越え? こんな嵐の夜に?」
「あの上着は、耐水、防寒、耐衝撃性も備えたものだ。山登りに向いた靴に、迷彩服。それに、随分な大荷物だしね」
壁際に、彼女の背負っていた大型のリュックサックが置いてあった。
「でも、山の向こうからなんて、何日かかるの。赤ちゃんもいるのに」
「何日、はかからないよ。アルプスを超える訳じゃない。まあ、まる一日くらいだろう。麓から反対側の麓までなら」
含みのある言葉に、少女は眉を寄せた。
「貴女は、山上の研究施設から降りてきたのではないのですか?」
研究施設、という言葉に、マリア・Bはまた首を傾げる。
だが、マリア・Aは、力ない笑みを浮かべた。
「ご存知ではないかもなんて、都合のいい話でしたね。サムウェル・ダルトンさん。ブライアーズ家の顧問弁護士をしていらした」
「こちらこそ。私が現役の頃は、貴女はまだお勤めではなかった筈だ」
「資料を見たことがありますので」
マリア・Aは若い。そして、サムウェルが顧問弁護士を辞めてから既に数年経っている。
男の疑問に短く返すと、彼女は疲れたように溜め息をついた。
「ええ。私は、上の研究所から来ました。あそこが何をしているか、ご存知ですね?」
「何をしているの?」
愛らしい声に口を挟まれて、二人の大人は視線を向けた。そして、当惑したように顔を見合わせる。
「ええと……。貴女は、研究所に来たことはなかったわね。マリア・ブライアーズ」
「どこのこと?」
その問いかけに含みを感じて、戸惑う。
「東側の山のてっぺんに、白い建物があるだろう」
サムウェルが補足する。
「ええ」
「あそこは、〈神の庭園〉という、研究施設だ。コヴィントン&ブライアーズ商会が、資本を出している」
「お父様の会社の?」
ぱっと顔を明るくしたマリアに、二人の大人は表情を消して無言で頷いた。
「あそこでは、……ええと、人間の可能性について研究していて。それ自体は、大切な、必要なことなのだけど。ちょっと、危険なこともあって……」
大人が曖昧なものの言い方をする時は、大抵、知らせたくないことなのだ。
そこを問い詰めたい気もしたが、マリア・エインズワースは初対面だ。無作法な真似はしない方がいい。
そう判断して、マリア・Bはおとなしく頷いた。
「このままだと、子供たちが危ない。だから、私たちは子供を連れて、逃げてきたの」
「私たち?」
言葉を選んでいたマリア・Aは、うっかり漏らした言葉を拾われて、はっと息を飲んだ。
「まだ他にも人が?」
サムウェルに問い詰められて、慌てて首を振る。
しかし、むしろそれが疑念をかき立て、サムウェルは踵を返した。
「おじさま?」
「こんな嵐の中にいては危険だ。探してくる」
きっぱりと告げた男に、マリア・Aは動転して立ち上がった。
「だ、大丈夫です! 教授には迎えが来ていますから!」
「迎え?」
サムウェルの眼光が鋭くなる。
「は……、はい」
若いマリア・Aは、それにあからさまに怯んだ。
「ミス・マリア。全て、話して頂きたい。勿論、他言は致しません」
肚を据えたらしいサムウェルに対し、マリアは視線を逸らせる。
「ここが、ブライアーズ孤児院であることが、貴女がたにとって、最後の砦となるかもしれませんよ」
食えない男は、そう続けて、にやりと笑う。
やがて、マリア・Aは溜め息をついて、両手を軽く上げた。
「そもそもの計画を立てたのは、サー・ラッカム……、ラッカム教授です」
ラッカム教授、と、サムウェルは繰り返す。
「二ヶ月前に、その、上部組織で人事異動がありまして。研究所の担当も変わってしまったんです」
マリア・エインズワースは、児童心理学を専攻していた。
その観点から、研究に寄与できると思っていた。
だが、現実は残酷だ。
今までの研究は、被験者である子供たちに対して、よい扱いをしてきたとは言えなかった。
過度な期待をかけて、ストレスを与えて。一日でも早く結果を出すために。
時には、薬物を使用することもあったという。
マリアに辛い、と泣きつく子供。
マリアを敵視し、心を開かない子供。
彼らの待遇に心を痛め、何度も改善を訴えたが、キャリアの浅い彼女の意見など、通りはしなかったのだ。
そこで起きたのが、上部組織の人事異動である。
担当が変わることで、何か研究所も変化するかもしれない。
そう、期待していた。
だけど。
「上の方針がね。もっと、効率を上げる方へ変わるらしいよ」
そう、こっそりと告げてきたのが、ラッカムだった。
セオドア・ラッカムは、どちらかというと強引な手段を好んで使う男だった。
それこそ、効率重視な研究者だったのだ。
その彼が、子供を連れて逃げ出そう、と持ちかけてきたのである。
「何を考えているんですか」
一度、思い切り不審そうな目で、そう訊いてみた。
「私を人でなしの悪魔のように見ないでくれよ」
しかし、ラッカムは、そう返してきた。
「それなりに限度というものがある、と、私だって思っている。ことに、産まれたばかりの赤ん坊に対して行うには、あのプランはあまりに酷だ」
……ラッカムの真意がどうであれ、それは、マリア・エインズワースがずっと主張してきたことだった。
組織の再編成で、この先の方針がどう変わるかも判らない。
その不安も、彼は巧みに突いてきた。
だから、彼が、赤ん坊を連れて逃げ出そう、という計画を持ちかけた時に、同意してしまったのだ。
「教授が言い出したのは、山の裏側、アウルバレイ側の崖を降りて脱出する、という計画でした。街に協力者を待機させておいて、そのまま車で逃げ出そうと」
「なるほど。協力者がいるから、無事に保護されていると言うのか」
もう一人の冒険者については、心配は要らなさそうだ。
「でも、どうして貴女はここに? 街で、その協力者と合流しなかったの?」
マリア・Bが鋭いところを指摘する。
「……私は、結局、ラッカム教授を信用しきれなかったのよ。子供を二人と私を連れて、当てのない逃避行をするような人じゃない。協力者がいるなら、彼は多分、他の研究所に引き抜かれたのでしょう。それだけなら、まあ、よくあることだけど。でも、黙って逃げ出して、子供を手土産にするような人に、人道的な扱いを期待するだけ無駄だわ」
だから、と、マリア・Aはきっぱりと続けた。
「私は、あの人からも逃げ出したの」
「え?」
「崖を下りるルートを少しづつずらして、街から離れたのよ。子供と一緒に逃げようと思って。もう一人の子も連れて来たかったのだけど、二人を運ぶのは危険だからって、渡して貰えなくて」
気遣わしげに、女性は溜め息を落とす。
「なるほど。それで、隠れていたのか」
呆れた風に、サムウェルは呟く。
「はい」
「大体の事情は把握した。だが、ミス・マリア。貴女は、明日の電車には乗らない方がいい」
「何故ですか?」
不審そうに、マリア・Aは尋ねる。
「貴女を見失った教授とやらは、それこそ血眼になって探しているでしょう。アウルバレイの駅舎の規模を知っていますか? 人混みに紛れて逃げ出そうなんて、無理な話ですよ」
この小さな街の駅は、電車の本数も少なければ、車両自体も短い。ホームを見張ることなど、簡単だろう。
「ですが、早くここを離れないと」
「では山越えを? 一日あれば、越えた先に追手を配置できるでしょう。子供を連れて、嵐の後の山を無事に抜けられれば、ですが」
「ですが、じゃあ、どうすれば。この子を、誰の手にも渡す訳にはいきません」
不安と苛立ちに、マリア・Aは、固く両手を握りしめた。
サムウェルが、茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「簡単です。ここから、出ていかなければいい」
「……はい?」
流石に度肝を抜かれて、マリア・Aは小さな声を漏らした。
「先ほど言ったでしょう。ここが、貴女たちの最後の砦になると。私は以前から、アウルバレイの顔役であるヒギンズを通して、コヴィントンと交渉をしていました」
「おじさま!?」
マリア・Bも、驚愕の声を上げる。
「いつまでも、このままでいられる訳ではないだろう。コヴィントンは手強いが、ヒギンズなら多少妥協できそうだ。彼は、孤児院の敷地内から手を引くだろう」
「どういうこと?」
「ここで何が起きても、干渉しない、ということだよ。少なくとも、ヒギンズの手勢に殴り込みをかけられる危険性は減る」
「ヒギンズはうちを裏切ったのよ!?」
サムウェルにまで裏切られた気持ちで、マリア・Bは叫ぶ。
「そうじゃない。彼は、コヴィントン商会についただけだ。表立って反抗すれば、こんな街、三日で潰れてしまう」
「裏切ったのは、一緒じゃない……!」
瞳に薄く涙を浮かべるマリア・Bを、更に説得することは諦めたらしい。彼女の前にしゃがみこむと、優しく抱き寄せる。
視線だけをマリア・Aに向けて、サムウェルはゆっくりと続けた。
「ここは、ヒギンズの縄張りから外れ、不可触の扱いになる。孤児院で何があっても干渉しない代わり、街での扱いを以前のように戻して貰う。悪い話ではないよ、マリア」
逃亡者は、男が少女を宥めている間に、熟慮する。
「……つまり、ここには追手がこないということ?」
「そうだ。街の人間も来ないから、人目について噂になったりもしない。潜伏先としては、申し分ないだろう」
「そうね……」
明らかに心が揺らいだマリア・Aに、サムウェルは柔らかく微笑みかけた。
「ところで、うちの孤児院は、今、切実に人手が足りないんだが」
嵐の去った朝、孤児院の子供たちは、食堂に見慣れない大人を見ることになった。
「彼女は、マリア・エインズワース。今日から、皆の世話をしてくれることになりました」
手短に紹介すると、わあ、と歓声が湧く。
「私たちのマザーになってくれるの?」
マリア・Aの浮かべていた微笑みが、少々引き攣る。
「ここは、元は尼僧院が運営していたのよ」
そっと、現経営者が囁く。
「ああ、そういうこと。私は、修道女ではないから、修道院長にはなれないわ。そうね……」
僅かに考えて、悪戯っぽく笑う。
「マム・マリア、と呼んでくださいな」
その呼称が、彼女の前の勤務先で使われていたものだったこと、そして、そこで具体的にどのようなことが行われていたのかは、マリア・Bが充分に成長してから教えられたことである。
マム・マリアは、たちまち孤児院の秩序を回復させた。
半年ほどは敷地から出ずにひっそりと過ごし、その後は、手伝いに来たサムウェルの孫娘として扱われ、追手の目をごまかし続けたのだ。
彼女が連れてきた赤ん坊、エースと共に。




