「なによ、あんた。何やってんの?」
約束の五日目。
正午前、修道女たちは、孤児院の前で迎えの車を待っていた。
孤児院長が眠そうな目をしているのは、昨夜遅くまでサムウェルが業務の引き継ぎを要求したからだ。
実務から財務まで細かく追求する男に、孤児院長は幾度声を荒げたかしれない。
しかし、それは半ば偽装でもあった。
彼女の目の届かない隙に、マリアは、最も若い修道女を掴まえた。
孤児院で、一日に、何をしなくてはいけないか、何に注意すべきか。タイムテーブルに沿って教えてもらうように、指示したのはサムウェルだ。
その若い修道女は、子供たちを残して行くことに罪悪感を持っていて、そこにつけこむのはたやすかった。
やがて、大型バンがやってくる。
少ない荷物を積みこむ間に、孤児院長は見送りの二人に視線を向けた。
「精々頑張ることですね」
そう告げると、返事も待たずに乗りこんだ。
車は、石畳の上を、ごとごと揺れながら去っていく。
「なにあれ」
むくれるマリアを、苦笑してサムウェルは見下ろす。
「まあ、あの人が関わることはもうないのだから、放っておきなさい。やることは沢山あるんだから」
幸いなことに、学校に行っていない子供はさほど多くない。四人だ。乳児もおらず、つきっきりにならなくてはならない訳ではなかった。
しかも、修道女たちの躾が厳しかったのか、暴れまわるような子供もいない。
「とりあえず、昼食を食べさせてしまおう。マリア、子どもたちを見ていてくれ」
孤児院の厨房は広い。
現役時代は仕事が激務で、自ら台所に立ったことなど数えるほどだった。
もの珍しげに見回して、巨大な冷蔵庫を開ける。
今日一日分の食事は準備していってくれたのは、せめてもの慈悲か。
サムウェルは、『昼食』と書いたメモの貼られたタッパーを取り出した。
夕闇が落ちるのが早くなってきた。
「ただいま帰りました」
下校してきた数人の子供が、玄関をくぐったところで声を上げる。だが、何の返事もない。
「シスター?」
しん、と静まり返る院内に、不安げな視線を交わす。
手近な扉を開けていくことにする。応接室、談話室は無人。
そして、食堂の扉を開いた時に。
「あら。おかえりなさい」
マリアが、大量の布の中から顔を上げた。
女児たちは、ぽかんとしてそれを見つめている。
「よかった、貴方たち、洗濯物のしまい方判る?」
よく見ると、大テーブルの上に広げられたのは、シーツや衣類の山だ。
「ええと……、何をしてるの?」
状況が飲みこめなくて尋ねる。
「だから、洗濯物よ。これ、クローゼットにかけるの? シーツもそうなのかしら」
「ええと……、何故マリアお嬢様が? シスターはどうしたの?」
「お昼に出てったわよ」
さらりと告げられて、数秒間沈黙する。
そして、少女たちは悲鳴をあげた。
「どうしたの!?」
遅れて帰ってきたらしい少女が、廊下を駆けてくる。
割りこむように扉を抜けたのは、見知った相手だ。
「あ。おかえりなさい、ソニア」
マリアがここに来て早々、取っ組み合いの喧嘩をした少女は、露骨に顔をしかめた。
「なによ、あんた。何やってんの?」
「洗濯物を片づけたいんだけど、やり方が判らなくて。手伝ってくれない?」
「何でこんなところで」
「床に置けないじゃない。とりあえず広げられる場所に取りこんだのよ」
少しばかりピントのずれたやり取りに、泣き出しそうな声で、一人が口を挟んだ。
「ソニア、シスターが、シスターがいなくなった、って」
「は?」
訝しげな声を上げるのが演技とは思えなくて、マリアは小首を傾げた。
「ひょっとして、貴方たち何も聞いてないの……?」
「だから何よ! 知ってるなら喋りなさい!」
どこまでも喧嘩腰なソニアに、眉を寄せる。
「話してあげるから手伝いなさい。ここを片づけないと、サムおじさまが夕飯を持ってこれないわ」
「サム……?」
「シスターが出ていった? 全員? 何で?」
「教会からの命令だって言ってたわ。こう?」
「違う、捻れてる。こっち。じゃあ、あたしたちどうなるの。他の孤児院に移されるの?」
「こうね。みんな、ここに残されるって話よ。今後どうなるかは、経営者判断ね」
「経営者? って……」
食卓に、子どもたち全員が揃う。
古びたワゴンを押してスープを配る初老の男と、それを手伝うマリアに、ちらちらと視線が向けられた。
それが済むと、マリアはさっさと元孤児院長が座っていた席についた。子どもたちの中では最も上座にいたソニアが目を剥く。
サムウェルは、マリアの近くの壁際に立った。
ぱん、と、マリアが手を叩く。
「聞きたいことが沢山あるでしょうけど、まずは食べ始めましょう。お腹が空いていたらろくなことにはならないわ」
では、と、主の祈りを先導する。その辺りは既に条件反射のようなもので、皆はそれについてきた。
スプーンが食器に当たる音が聞こえてきたところで、口を開く。
「もう知っている子もいるけれど、ちゃんとお知らせするわね。今日、修道女たちが、ここブライアーズ孤児院から立ち去りました。教会からの指示だそうです。後任の予定はなくて……」
「コウニン?」
「新しいシスターは来ないってことよ」
小さく声を上げた子供に、ソニアが素っ気なく答える。
「……今後、亡き父からここを受け継いだ、私、マリア・ブライアーズが、経営者となります。よろしくね」
にっこりと、頼れるような笑みを浮かべたつもりだった。
しかし、子どもたちは、ざわざわと不安そうな様子を見せている。
忍耐心を総動員させて、続ける。
「こちらは、サムウェル・ダルトン。ブライアーズ家の元顧問弁護士で、今日から私たちのために働いてくださいます。失礼のないように」
ここは、尼僧院が母体になっている。自然、今まで近くに男性がいたことはなく、今度起きたひそひそ話は、楽しげなものだった。
サムウェルが一歩前に出る。
「よろしく、お嬢様がた」
きゃあ、と歓声があがる。ソニアは面白くないような表情を作っていたが、視線は彼から離さなかった。
「サム、と呼んでくれ。大人の手が必要な時は、何でも頼ってくれていい」
「サムさんは何歳ですか?」
突然飛んだ質問に、男はにこやかに返す。
「六十五だよ」
「結婚してますか?」
「していた。だけど、今、家族はいない」
騒ぎかけていた空気が、少し沈む。
「こんなに沢山の可愛い孫娘ができて、私は幸せ者だね」
だが、その言葉に、くすくすと忍び笑いが漏れた。
「さて、では、みんなのことを聞かせて貰おうかな。一番前の、君からどうぞ」
いきなり水を向けられて、ソニアはびくりと身を震わせた。
「え、あ、えっと、ソニア・リンメル。九歳。孤児院では、一番年上なの」
「そうか。お姉さんなんだね、ソニア。よろしく」
サムの言葉に、もごもごと口の中で何かを返す。
僅かに気分を害しつつ、マリアは彼女たちを見つめていた。
全員の自己紹介を終え、空気が和んだところで、サムウェルは話題を変えた。
「さて、明日からは、我々だけで暮らしていかなくてはならない。シスターたちに任せていたことも、みんなでやっていくんだ。……まず、この三十二人から、小さい子を除いた二十八人。これを、四人づつのグループにする。それぞれ持ち回りで、洗濯と、掃除を、朝学校に行く前に済ましてしまおう」
えー、と、随分気安くなった声が上がる。
「文句を言わない。部屋も服も、汚れたまま使うのは嫌だろう」
「ごはんは?」
質問が投げられる。
それが、一番の難問だった。
最年長のマリアが十歳。次いで、ソニアが九歳。子どもたちで食事は作れない。
だが、サムウェルが一人で三十三人分を任せるのは無理だ。
だからこそ、家政婦を雇いたかったのだが。
「アウルバレイのデリカテッセンに、三食作ってもらうことになっている」
その返事に、歓声が上がる。
孤児院の食事は、清貧が主だ。美味からは程遠かった。無理はない、と、マリアも思う。
サムウェルは、昨日、今日と、店との交渉に当たっていた。
ヒギンズ家から圧力がかかっているのか、初めのうち、対応は芳しくなかった。
だが、子どもたちを餓死させるつもりか、と迫るサムウェルに、流石に折れた。
街の住民としても、おそらくヒギンズ家としても、そこまではしたくなかったのだろう。
配達はできない、と言ったことが、体面を保った言葉か。毎日、サムウェルが午後に車で受取に出向くことになる。
ちらり、と、サムウェルは視線をマリアに向けた。
小さく咳払いして、マリアが口を開く。
「ブライアーズ孤児院は、貴女がたが十六歳になって独り立ちするまで、絶対に護り抜くと約束します。みんなで、頑張っていきましょうね」
はい、と返ってきた声はばらばらだったが、それは充分な満足感を与えてくれた。
その後、グループ分けや労働の振り分けなどを決めて、解散となった。
子どもたちは就寝時間までの短い自由時間を楽しんでいる。
「では、また明日」
とん、と、サムウェルはポーチの階段を降りた。
「はい。……ありがとう、サムおじさま」
見送りに出てきたマリアが、礼を述べる。
尼僧院を母体とする女子孤児院に、昼間の労働要員としてならまだしも、男が泊まりこむ訳にはいかない。
今後、養子縁組の話が出た場合に、信用問題になりかねないのだ。
結局、サムウェルは、橋に近い一軒の家に住むことになった。
今回の騒動で引っ越していった家の一つだ。家具などは、シスターたちの残していったものを運んでいる。質素で、古くはあるが、彼は文句一つ言わなかった。
「これからが大変だ。しっかりするんだよ、マリア・ブライアーズ」
「……はい!」
初めて一人前として扱われた気がして、笑顔で返す。
だが、続いての言葉に、目を見開いた。
「ああそれから。来週から、貴女も学校に通うんだよ」
「…………え?」




