「どんな期待をしてると思ってるんだよ」
その日、広場に見慣れない一台の車が入ってきた。
居合わせた人々、主に男性たちの視線がそれを追う。
静かに広場の一角に停車すると、すぐに助手席のドアが開く。
ぴょん、と飛び降りたのは、まだ幼い少女だ。
「危ないよ、エム」
運転席側のドアが開き、声がかけられるが、彼女はそれに見向きもせず、広場の一点へ向かって駆ける。
「エースお兄ちゃん!」
石畳の上に停められた、楽しげな塗装のバンの中からその動きを見守ってた少年が、破顔した。
「おぅ、エム! 久しぶりだな」
窓の外に出されたカウンターに両手の指先を引っかけ、背伸びして顔を出す幼い少女の髪を撫でる。
「元気だったか?」
「うん!」
そうかそうか、と更に目を細めるエースの元に、Gが歩み寄る。
「こっちに寄るとは思わなかったよ」
エムが、Gと共に来るという連絡は受けていた。彼女がマリア・Bに会いたがったのだ。
「君の作るガレットを食べて欲しい、と言ってね」
興味深そうに、青年は周囲を見回す。
「食って、くれるのか?」
ぱっ、と、エースの顔が明るくなる。
それに少しばかり驚いて、兄は相手を見返した。
「ああ。お薦めはあるのかな」
だがすぐに、穏やかに笑んで尋ねる。
「おすすめはねぇ、全部!」
エムが得意げに告げる。
「おやおや。それじゃ、食べきれないね」
Gの、エムへの態度は、ブライアーズ孤児院へ初めて来た時から変化している。その時、彼はエムを「仲間だ」と言っていた。
今は、どう思っているのか。
「そうだぞ、エム。そもそも、そんなに何種類も頼んでも、焼くのも持つのも大変だ」
口を挟んだエースが、メニューの表示された端末をカウンターへ出す。
「お薦めは、全部乗せ、だ」
にやりと笑う弟と、メニューの多彩さに、Gは僅かに怯んだ。
夕方になって、孤児院に帰る。
四人で夕食を摂り終える頃には、エムはもううとうとし始めていた。
「興奮してずっと起きていたからね」
苦笑して、Gがその身体を抱き上げる。
二日分の着替えなどを詰めた鞄を手に、エースは義姉を振り返った。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけてな」
軽く手を挙げて、少年は玄関をくぐり抜けた。
エムは後部座席を占領して眠ってしまっている。
エースがそれにつられたか、大きく欠伸をした。
「寝ていてもいいぞ」
「いや、大丈夫だ。昨夜、寝つけなかっただけだから」
Gの言葉に、苦笑しつつ返す。
「どうかしたのか?」
体調を崩しているのかもしれない。その可能性も考慮しないと、とGが考えるが、エースはひょいと肩を竦めた。
「うち以外の場所に泊まるのは、初めてなんだ」
「……ああ。なるほど」
エースの突飛な言動に、少しばかり慣れてきたらしい。含み笑いをしつつ、兄は頷いた。
「ご期待に添えるようだといいね」
「どんな期待をしてると思ってるんだよ」
エースが混ぜっ返す。
明日がどんな一日になるか、彼には知る由もなかったのだ。
〈神の庭園〉に着いた時には、エムはすっかり熟睡してしまっていた。
Gがその身体を抱き上げて、駐車場を横切っていく。
向かったのは、住居棟だ。三階建のその建物は、二階以上は男女で分断されているが、一階のロビーや食堂は共用だった。
ロビーに二人が姿を見せると、その場にいた十数人がわっと立ち上がる。
流石に怯むが、Gが静かに、とジェスチャーすると、気恥ずかしげに静まった。
「マム・サリー。エムを」
一人の若い女性が歩み出て、慣れたようにエムを受け取った。
大きくなったわね、と嬉しそうに呟きながら、もう一人の女性と共にエレベーターに向かう。
扉が閉まると、その場の一同は堰を切ったようにエースの傍に集まった。
「ようこそ、〈神の庭園〉へ!」
「疲れたでしょ、こっちにどうぞ」
「お腹空いてない? 何か要る?」
腕を引かれ、ロビーの奥へと誘われる。
「え、あの、なに」
少年はぎょっとして、腰が引けているが、それを気にする様子もない。
Gに視線を向けると、苦笑いを浮かべて、それでもすぐ後ろにいてくれた。
「みんな、君を待っていたんだよ」
とすん、とソファに座らされた。
ぐるりと周囲を取り囲まれ、視線が集中する。
ここまで多くの人に関心を持たれたことは、今までにない。
どうぞ、と、テーブルの上に、横から冷えたアップルジュースを置かれた。
「あ、ありがとう。そうだ、これ」
鞄とは別に持ってきた袋から、小ぶりの箱を幾つか取り出した。
「親方と、俺も一緒に作ったので。よかったら、食べてください」
箱の中には、何種類かのクッキーが詰められていた。ココア生地や、ナッツが乗っているもの、色とりどりの砂糖漬けの果物を刻んで混ぜたものなどに、詰めかけた職員たちは歓声をあげた。
「すごい!」
「これ、わざわざ?」
「何枚焼いたの?」
「皆さんが何人いるか判らなくて、こちらにはとりあえず75枚」
その半端な数に、既に一枚つまんでいる職員が首を傾げた。
「あと、エムとGとアイ、ハワードさんとエリノアさんに五枚ずつ。……俺の仕事と、親方の腕を、判って欲しくて」
少年に挙げられた名前の中で、今ここにいるのは、Gだけだ。
少し照れたように説明するエースに、何人もが言葉を詰まらせた。
「はい、そういう訳だから、全部は食べないでください。ここにいない人にも分けないと」
Gが、その隙にさっさと開けていない箱を手にする。
「ずるい、G! 自分は別にあるからって!」
「兄弟枠でね」
文句をつける若い女性に、さらりと返す。
「うん、美味しいこれ。親方さんって、パティシエ?」
「いえ、今はガレットの店をやってます。ただ、去年の祭りには菓子とかも売ってたから。エムにも、よく作ってくれました」
「いいなー。あたし、エース送って行って食べてきたい」
「仕事をしてください、マム」
やや年かさの女性が口を尖らせて言うのに、素っ気なくGは告げた。
「ガレットも美味いの? Gは食べた?」
その問いに頷くと、ほぼ全員から羨望の声が上がる。
「流石に全部乗せは無理でね。自家製のスモークチキンを」
「おお……」
「美味かったですよ」
「おおお……」
「ありゃ、地がいいんだよ。親方のラタトゥイユは絶品だから」
「確かに。トマトの酸味は強くないし、コクがあって、あれはなかなか」
「ずるい!」
「ずるい!」
「エース、来週作って!」
「仕事をしてください、みんな」
口々に発せられる声に、エースが思わず笑う。
そうして数十分も経った頃に、誰かが、あ! と声を上げた。
「今何時?」
「あ、九時過ぎてる!」
慌てた様子に首を傾げていると、職員たちは手早くエースの前からグラスと菓子を取り上げた。
「はい、エースは今日はもう飲食禁止」
「え?」
未成年だからだろうか。しかし、それではあまりに厳しい規則だな、と思っていると、他の者が口を開く。
「明日は朝から色々検査するからね。それが終わるまで絶食ね」
「ええ!?」
だが、その宣告は予測できなかった。
「お腹を空にしないとできない検査があるのよ。できるだけ早く終わらせるから、お昼前にはブランチにしていいわ」
「そんな時間まで?」
何といっても、エースは食べ盛りである。我ながらかなり情けない声を出してしまったが、相手はじろりと見下ろしてきた。
「本当なら、何日もかけてゆっくりやれるのよ。それが、明日一日しか時間が取れないのは誰の都合かしら?」
「……う」
それを言われると、我儘を通した自覚のあるエースは黙るしかない。
「そうだな。じゃあ、今夜はここで解散で」
「えー!」
「ええー!」
さらりと告げたGに、抗議の声が上がる。
「エースの前で、好き放題飲み食いするんですか? いい大人なんですから、弁えてくださいよ」
だが、そうたしなめられて、彼らは渋々それを受け入れた。
Gが、エースに向き直る。
「部屋に案内しよう。おいで」
「疲れてないか?」
エレベーターのボタンを押して、扉が閉まると、Gは気遣わしげな口調で尋ねた。
「大丈夫だよ。仲がいいんだな」
「そうだね。私たちは被検体だから。メンタルが不安定だと、結果を出せない。それを制御するのも目的の一つではあるけど、皆にとって楽しくはないからね。彼らは、私たちに良くしてくれているよ」
勘違いをしすぎるな、ということだろう。
おそらくは、Gの経験からくる戒めを、エースは無言で聞いた。
そんなことは、よくあることだ。
住居棟は、ロビーも三階フロアも、やはり鉄筋コンクリートの打放しで作られていた。
味気ない造りは、流石に個室の中までは及ばないらしい。エースが案内されたのは、淡いアイボリーの壁紙に、緑色を基調にした前衛的な柄のカーペットが敷かれた部屋だった。
孤児院の二人部屋よりはやや狭い。黒く塗装されたスチールと曇りガラスを使ったテーブルと椅子が二脚、置かれている。正面の窓には床までの長い黄緑色のカーテンが下がっていた。
壁には黒い扉が幾つかと、同じ色の小さな棚がある。
「右の扉はクローゼットだ。左の奥が寝室、手前がシャワールーム」
Gが、寝室の扉を開く。
家具はベッドと棚、色使いは最初の部屋と同じようなものだが、間接照明で柔らかく照らされた寝室は、また雰囲気が違う。
シャワールームは、ユニット式だ。トイレと洗面もセットになっている。
「ここが?」
呆気に取られて、呟く。
「ああ。仮に、ではあるけど」
おそらく、ゲストルームなのだろう。Gの返事から、そう予想する。
流石に、こんな上等な部屋を、週に一度しか来ないエースに用意するなんてことは、
「君が慣れるまでの間だよ。隣は私の部屋だし、何か判らないことがあったらいつでも来てくれ。隣が嫌だったり、広さやインテリアに不満があったら他の部屋を用意するから言っ」
「いやないだろ!」
続けられた言葉に、反射的に声を上げる。
驚いたように見つめてくる兄に、肩を竦めた。
「俺には勿体ないくらいの部屋だよ。あんたの隣だって、何も嫌なことなんてない」
孤児院では、流石に義姉たちと同室はなかったが、隣の部屋の騒ぎなどは筒抜けだった。
あまりにここでの扱いが丁重すぎて、むしろ居心地が悪い。
「私たちが快適であるように、気を配ってくれているんだよ。……それに、バスルームは共同だ」
なんとなく親近感がわいてほっとした瞬間、兄は更なる爆弾を放りこんだ。
「全自動浴槽だ。入浴したこと、ないんだって?」




