第270話 私の英雄は吸血鬼
「ったく、あの国王も余計なことをしてくれるものだ」
グリンさんは地面に降り立つや否や、辺りを見回して悪態をついた。ここがブラックホールの中で、しかもブリス陛下が自分を倒すために作り出した空間だということを瞬時に察したのだろう。
空中で手を掲げて丸太のようなハンマーを掴み、手当たり次第といった様子で振り回している。
でも地面があるという感覚が分かるだけで、その他の壁や天井といったものは無さそうだった。グリンさんの振りかぶるハンマーも、何かに当たったような感覚も見せずにずっと空を切っていた。
この真っ暗闇の空間が、自分のハンマーでも壊せない厄介なものだと分かったのか、グリンさんは鬱陶しそうに舌を鳴らした。
と言うより、さっきから『真っ暗闇』と表現しているこの空間だけど、実質的には真っ暗闇ではない。もし真っ暗なら周りの状況だって見えないし、さっきのように風馬くんと喋って両手を握り合う、なんてことも出来ないはず。
にもかかわらず、それらが全て行えているのは、私、風馬くん、イアンさん、グリンさんの周辺だけスポットライトが当たったかのように光が差しているからだ。
だからブラックホールの中でも、ちゃんと相手の位置を確認しながら戦うことが出来る、というわけだ。
「俺が相手だ! グリン!」
風馬くんも空中で手を掲げ、ルーンさんの剣に似た剣を掴んだ。ルーンさんの剣は純白だけど、風馬くんが今掴んだ剣は、白い本体に金色の装飾が施されている。
「そなたに偉そうに勝負を挑まれる筋合いなんて無いんだけどね。仕方ない。瞬殺してやる」
グリンさんの銀色の瞳に、一瞬にして殺意が宿る。
ルーンさんに対しても、フェルミナさんに対しても、はたまた今まで戦っていたキルちゃんや亜子ちゃん、グレース、ルミレーヌ様に対しても、一度たりとも見せたことがなかった視線だ。
「風馬くん……!」
一度収まっていた不安が、急激に押し戻されてきた。あんなに明確な殺意を持ったグリンさん、初めて見たから。何をするか、どんな攻撃を出してくるか、予想も出来ない。
風馬くんが太刀打ち出来るか……! 一秒でも一分でも生きていられるか……!
私が風馬くんを見上げると、風馬くんは口角を少しだけ上げて、
「大丈夫だよ、雪はイアンさんをお願い」
ここでイジイジ言っても風馬くんを困らせるだけだ。それにこのブラックホールだって、いつまで保つか分からない。足踏みしている場合ではないのだ。
「わ、分かった!」
私が頷いたのを確認すると、風馬くんは白い羽を広げてグリンさんへと迫っていった。
絶対に勝てるという自信が持てない相手。風馬くんは、そんな相手に威勢よく挑みに行ったのだ。私も、自分のやるべきことをしよう。たとえ自信が持てなくても、不可能を可能にするんだ……!
私は、少し離れた先に居る、黒と紫の闇のオーラを纏った『怪物』を見据えた。『怪物』____もとい闇の能力に飲まれているイアンさんは、このブラックホールから脱出しようと必死に腕を振るっている。
骨が浮き出るほどゴツゴツとした血の気のない肌、その指先から長く伸びた黒い爪は、何も傷つけることが出来ないまま。それでもイアンさんは空中を引っ掻くのをやめない。
ここから一刻も早く出たい、と無我夢中なのか。それとも理性の欠如によって何度爪を立ててもこの空間が壊れることはない、と理解できなくなっているのか。
どちらが原因なのかは一目瞭然だけど、その答えを口にする必要はない。
「イアンさん、私です。雪です。分かりませんか?」
「グワアアアアッ!」
イアンさんは両手を広げて雄叫びをあげると、私に向かって一目散に走ってきて、巨大な爪で引っ掻いてきた。さっきの呼びかけは、悲しいほどに届いていないのだろう。
「い、イアンさんっ!」
振りかぶってきた大きな手を避けつつ、私はもう一度呼びかける。
「イアンさん! 目を覚まして……! いつもの優しいイアンさんに戻ってください!」
私めがけて、赤く光った自我のない瞳を向けながら爪を立ててくるイアンさん。
「ウガアッ!」
「くっ……!」
再びイアンさんの爪が迫ってきて咄嗟に後ろに飛ぶけど、間に合わなかった。イアンさんの黒い爪が、私の白い頬を引っ掻いたのだ。左頬から急激に痛みが襲ってきて、私は思わず頬を押さえる。
体勢を整え、すぐにイアンさんに立ち向かおうとするも、今度は裸足が私のお腹を容赦なく蹴飛ばしてきた。
「うっ!」
たまらず吹き飛ばされ、地面にバウンドしながら転がる。
この空間には壁がない。だから吹き飛ばされたら、その勢いが止まるまでずっと後方に追いやられ続けることになってしまう。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
お腹を蹴られた衝撃で吐きそうになりつつも、必死に起き上がってイアンさんの方を見る。
イアンさんとの縮まっていた距離も嘘のように遠くなった。イアンさんが、まるで黒い豆粒のようだ。
「イアンさん、覚えてますか?」
行かなくちゃ、さっきくらいの距離まで……いや、もっと近くに!
こんな時にって思われるかもしれないけど、思い出話とかはどうだろうか。もしかしたらイアンさんの耳に届いて、正気に戻ってくれないかな、なんて。
「私が氷結鬼の姿になってイアンさんや皆のことも忘れてしまった時、イアンさんは私に言ってくれましたよね。私が村瀬雪としての記憶を取り戻すこと、信じてるって。……私も同じです!」
大きく息を吸い、どんどん近くなるイアンさんに向かって叫ぶ。
「私も、イアンさんがきっと元の優しくてカッコいいイアンさんに戻ってくれるって信じてます! だから、闇の能力に負けちゃ駄目です!」
首を振り、頭を抱えて、イアンさんは雄叫びをあげるのをやめない。その姿が私には、恐怖や不安を感じて叫んでいるように見えた。
「イアンさんもキルちゃんもレオくんもミリアさんも……他の皆も、今までどれだけ辛くて苦しいことがあっても、全員で支え合って乗り越えてきたじゃないですか。一番最初に出会った時、私のせいでイアンさんとキルちゃんに迷惑をかけてしまっても、迷惑だなんて言うどころか、むしろ私に違う世界を見せてくれました」
恐怖なら、不安なら、私も嫌というほど感じてきた。
人間界での学校生活は、色のないモノクロの日々だった。
だからなのか、初めて見た亜人界での景色が、鮮明なカラーでものすごく眩しく見えたのだ。何もかもが夢のようにキラキラと輝いていて、死んだようなモノクロなんて一つもない。
「学校での生活が憂鬱で仕方なかった私が、吸血鬼の皆さんに助けられてここまでやってこられたんです! イアンさん達と出会わなかったら、きっと私は今でも一人ぼっちで受け身体勢で、何一つ変われないままの失敗人生を歩んでいると思います」
あのまま道を逸れていたとしたら、私はおじいちゃんにまで心を閉ざしていたかもしれない。誰とも話さず、誰とも会わず、ただ自分の世界に閉じこもって、小さな殻に蓋をして。
二度とそこから出ることはなかっただろう。
「でも少しでも変われたのは、イアンさん達のおかげなんです! イアンさん達が私の愚痴を嫌がらずに聞いてくれて、ルーンさん達天使の奇襲からも必死に守ってくれて、いつ吸血鬼領に行っても温かく出迎えてくれて、別れる時も『またおいで』って言ってくれて……。すごくすごく助けられたんです!」
自分の世界で居場所を見つけられなかった私が、違う世界で見つけた居場所。そこにずっと居てくれたから____。
「イアンさん達は……吸血鬼の皆さんは、私の英雄なんです! だから!」
私は、暴れるイアンさんの腰に手を回して勢いよく抱きついた。
「戻って……きてください……!」




