96話
義妹のアンは、私から全てを奪っていった。
居場所は勿論、大切な母の形見も奪われ、そして継母の手によって捨てられた。
どういう手段を使ったのかは分からないが、同級生や幼馴染までも手中に納め、私の友人達は、一人残らず私を敵視するようになっていた。
思い返して見ると、悲しい記憶しかありません。
選抜兵に選ばれる前日は、砂を舐めるという経験を初めて体験しました。口の中が、ジャリジャリとした不快感に襲われました。
楽しそうに私の頭を踏みつける、アン・アイスランドを、涙目で見上げたことを今でも鮮明に覚えています。
その時に言われた「ほら、ちゃんと謝ってよシエル。生意気な態度を取ってすみませんでしたって」という言葉が、耳に残って離れません。
あの日は確か、アンが私の部屋で私物を漁っていたのがキッカケでしたっけ……。
それを止めただけで、土下座を強要されたのです……当たり前のことを主張しただけですのに……。
体格も運動神経も、何もかも勝てない私は、ただ耐えることしか出来ませんでした。
あの当時から私は、アンを前にするだけで萎縮するようになっていたのですから。
───────────
タカシ君に言われるがまま、近くの軍事演習場に来るよう、義妹のアンにショートメッセージを送った。
同時に、スマホを持つ手が震え始める。アンに会いたくない……タカシ君をアンに会わせたくない……。
出来ることなら、このままほとぼりが冷めるまでフェードアウトしたい……幼い頃のトラウマが、私をどんどん臆病者へと変えていく……。
そうです。
別にアンなんて無視をすればいいんです。
アンなんて放置して、海外旅行にでも行っちゃえばいいんです。
東南アジアの────バリあたりへ向かっちゃいましょうか。あそこは日本と同じように戦地になっていないと聞きますし、ハワイよりお安くバカンスが楽しめます。
私が皆さんの旅費を捻出すれば、この案はきっと通る筈。
シェリーちゃんねるの収益は来月になると思うので、ここはいっちょ消費者金融をハシゴして旅費を捻出しましょう。
そんな現実逃避に耽っていると、タカシ君に肩を叩かれた。
「どう? 呼び出した?」
「え? え、えぇ……一時間後、指定場所に来るよう……ショートメッセージを送りましたわ……」
「そっか。それじゃあ俺達はこれで出掛けるけど、姉さん達はどうする?」
私から視線を外し、お姉様達に話を振るタカシ君。
お姉様は当然といった様子で、出掛ける準備を始めていた。
「勿論ついていくよ。シェリーちゃんが心配だし!」
「私も行くわ。味方は多い方が良いに決まってるからね」
「ボクも行く。力になれるかは分からないけど、出来ることはやらせてもらうよ」
凛子さんと巴さんも、曇った表情で立ち上がる。
今まで見たことが無い、怒りに満ちた表情。私の為に本気で怒ってくれている。
なんと言いますか……この緊迫した状況で「バリに行きてぇですわ!」なんて口が裂けても言えませんね……流石にその辺の空気くらいは読めます……。
みんなの優しさに、徐々に不安が込み上げてくる。
タカシ君がいるから大丈夫だと思っていても、悪い予感が拭えない。
あの魔性の女に付け込まれるイメージが、どうしても払拭出来ない。
仮にそれが大丈夫だったとしても、アンは特殊生体兵になっている。
義妹の容赦なく独善的な性格なら、全てを手に入れようと特性を行使するかもしれません。
そうなった時、暴走する特殊生体兵と化した義妹を、私に止めることが出来るのでしょうか?
そんな暴走する悪魔の前に、皆さんを立たせてしまって大丈夫なのでしょうか?
アンの目的はタカシ君ですから、極端な行動はしないと思いますが……可能性はゼロではありません。
タカシ君が手に入らないなら…………アンが最悪な行動を────
ガタガタと震える私を見て、タカシ君とナタリーさんが絡みつくように肩に腕を回してきた。
「めちゃんこビビってんなぁ。まぁ、シェリーの境遇を考えたら仕方ないんだろうけど」
「安心しろってシェリ〜。アタシとタカスィがついているんだからさぁ〜。大船に乗ったつもりでいろやぁ〜」
「しっかし、トラウマっつうのは厄介なもんだな……死への分岐点と畏怖されたシェリーが、こんな風になっちまうんだから……」
「アタシの固有戦闘様式・『アリア化』を真っ向から受け止められるゾンビが、一般人相手にビビってんじゃねぇよぉ」
そう言って、グイグイと私を歩かせるタカシ君とナタリーさん。
思考が上手く働かず、何を言っているのかイマイチ分からない。
不安に飲み込まれながら、必至になって呼吸を整えていると、玄関の扉を開けたタカシ君が首を傾げながら呟いた。
「そういや……なんか忘れている気が……まぁいっか」
──────────
約一時間後、軍事演習場の待ち合わせ場所。
私達が指定した場所には、既にアンの姿があった。
常夜灯の下で、アンが静かに佇んでいる。まるでそこだけ時が止まったかのように、一枚の絵画を彷彿とさせる美しさがあった。
見る者を全て魅了する美貌。
そう形容するしかない魔性の女が、凛とした姿で立っている。
私達の存在に気付くと、一瞬眉をひそめ、そしてすぐに艶然と微笑んだ。
「こんにちわ。貴方が四分咲タカシ? さっそくお会いできて嬉しいな」
耳にすっと入ってくる、聞く度に惹き込まれそうになる声。
カリスマモデルの凛子さんや、母性の化身と噂される文香さんとは方向性の違う美声。
そう……まずはこの声でやられてしまうのです……男性は……この声で……。
アンが珍しく興奮気味に喋った。
「私の名前はアン・アイスランド。検索エンジンのアイスランドって知ってる? そのアイスランド社のVPを務めているのが、現役女子高生の私なんだよ。よろしくね」
アンから視線を外し、タカシ君の様子を窺ってみる。
いつもと変わらないボンヤリとした顔。その表情から、アンにどういう感情を抱いているのか分からない。
もしかして見惚れているとか……? 真っ直ぐ見つめているから……まさか……。
ちなみに、タカシ君以外は口を挟まないよう念を押されている。皆さんが一斉に喋ったら収拾がつかなくなるという、タカシ君の指示によって。
「それにしても貴方って本当にセクシーね。今まで男性に興味を持ったことが無いけど、貴方だけは別だって思える。貴方を前にしただけで、ビックリするほど胸が高鳴っているもん」
一歩、二歩と近付いてくるアン。
今まで、こんな緩んだ表情は見たことがありません。本気でタカシ君に好意を持っていることが分かります。
彼女からこの好意を得ようと、数多の男性が破滅したのに……この状況を見て、嫉妬に狂う男は星の数ほどいる筈……。
タカシ君は無言で、アンを眺め続けていた。
「俳優やマフィア、資産家にアーティスト……色々な男性に会ってきたけど……初めて繋がりたいと思ったのは貴方だけ……ふふ……初対面なのに……ちょっと……はしたないかな……」
タカシ君の前に立ち、アンがはにかんだ笑みを浮かべる。
「そう……せっかくの初対面……第一印象は大切なのに……」
それまで朗らかだった表情が変わっていく。
私のトラウマだった表情へと変わっていく。
私に視線を移したアンは、優しさの欠片も無い口調で呟いた。
「シエル。この場所はなんなの? しかも大勢で集まって何がやりたいの?」
艷やかな顔を歪ませ、凄まじい怒気が放たれる。この場にタカシ君が居なかったら、腰を抜かしそうになる怒気が。
ガタガタと震えている私に、アンが強い口調で喋り続けた。
「ねぇシエル。ファーストコンタクトが大切なことくらい分からないの? なにこの殺風景な場所? シエルが選んだの?」
強烈な圧が襲いかかる。
私を長年蹂躙し続けた、吐き気を催すような圧力が放たれる。
「それにそこの女達はなんなの? こういうのは二人っきりするのが普通じゃないの? 口付けはロマンティックな場所って思っていたのに……なんでシエルはどこまでもバカなの? カスなの?」
アンの語気が荒くなっていく。
苛立ちもどんどん強くなっていく。
まるでスイッチが入ったかのように、アンは吐き捨てるように言い放った。
「いつものように土下座して謝りなさいよ。ほら、Get on yourknees──────」
彼女がそこまで喋った瞬間、
大気を震わせる程の衝撃と共に、パァーンッという破裂音が鳴り響いた。
どうやらナタリーさんが、思いっきり手のひらを合わせてたみたい。アンの声がかき消されるほど、凄まじい破裂音が響き渡る。
珍しく驚いた様子のアン。
それまで無言だったタカシ君が、いつもと変わらない口調で呟いた。
「マジで十四種類混合しているんだな……VからZまでは無理だったみたいだけど……」
こめかみをトントン叩きつつ、特性を解除するタカシ君。
ここに来て、初めてタカシ君がグレィスを使っていることに気付いた。
小さく溜息を吐きながら、淡々と会話を続ける。
「お前、どうやって生体兵になったんだ? 誰の手引きか教えろよ」








